飽きられたら終わり
優里の会社復帰後、
蓮の優里への溺愛は止まるところを知らなかった。
会議資料を手伝い、昼食のコーヒーを運び、
残業する優里の隣で雑務をこなす。
社員たちのひそひそ話は止まらないが、
蓮にとってそれはどうでもよかった。
優里のそばにいられること、
彼女の仕事ぶりを見られることが、
何よりの喜びだった。
しかし、優里の心はまだ完全に晴れてはいなかった。
(……この熱は、どれだけ続くんだろう)
蓮の「優里の笑顔が見たい」
という言葉を聞くたびに、
優里の心には過去の傷が蘇る。
昔、自分に熱烈にアプローチしてきた男たちが、
「社長」という肩書きや
「挑戦」という物語に
飽きた途端、
手のひらを返した経験が
優里には何度もあった。
「熱しやすく冷めやすいのは、あなたのお家芸でしょう」
優里は、
蓮が『会社を救ったヒーロー』という
自己満足に飽きたとき、
この献身が
一瞬で消えてしまうのではないかという
恐怖を常に抱いていた。
だからこそ、蓮の好意をすべて受け入れず、
仕事の冷静さを保ち続けた。
オフィスが落ち着き、仕事が再開されると、
蓮は自然と優里の行動を目で追っていた。
コピーを取りに行くたびに、
書類を整理するたびに、
机に座る姿にさえ目が離せない。
「優里、これ手伝おうか?」
「……いらない」
「いや、見てるだけじゃダメだろ。俺が支えるんだから」
蓮は笑顔を崩さずに言い、
優里の書類をそっと整える。
社員たちはその光景を見つめ、ひそひそ話をする。
「……あの二人、いつの間に」
「完全にラブラブだな」
「溺愛しすぎ……いや、羨ましいなぁ」
「でも、優里さんの表情が緩むのって、珍しい気がする」
昼休み、
蓮は優里がコーヒーを取りに行くのを見つけると、
すぐに立ち上がり駆け寄る。
「俺も一緒に行く。優里のそばにいるだけで安心だろ?」
「……ちょっと、くっつかないで」
優里は困った顔をしながらも、
蓮の手を振りほどくことはせず、
微妙に距離を保つ。
午後の会議中も、
蓮は資料を手渡すときにさりげなく
優里の肩に触れたり、
ペンを渡す仕草にまで神経を尖らせる。
社員の目線は容赦なく二人に注がれる。
「……見てて恥ずかしいけど、心が温まるな」
「でも、あの位置であんなにデレるって、俺なら耐えられない」
声にならない感嘆と羨望がオフィスを駆け巡る。
夕方、
優里が疲れて椅子にもたれると、
蓮は真っ先に隣に座る。
「無理しないで。今日は俺が全部やるから」
「……だから、全部は任せない」
「いや、見てるだけじゃダメだ。俺が守るんだから」
「……ほんと、手を焼かせるね、あなたって」
その言葉に、
蓮は胸を張って満面の笑みを返す。
「いいんだ、優里の笑顔が見られるだけで俺は満足だ」
社員たちはまたもひそひそ話を交わす。
「……あんなに溺愛されるって、ある意味社長冥利に尽きるな」
「でも、あの冷静な優里さんが少し笑うだけで、あの御曹司の顔が崩れるの、面白すぎる」
「毎日が羨ましい……いや、刺激的すぎるな」
こうして、
オフィスで蓮の優里への溺愛は止まらず、
社員たちの羨望も増す一方だった。
しかし、優里は心の奥底で、
「飽きられたら一瞬で終わる」
という冷静さを忘れず、
喜びを素直に受け取ることはできなかった。
それでも、蓮の熱量と行動は、
日々少しずつ優里の心の防壁を溶かしていく。
「……忙しい人だな、ほんと」
優里は小さく笑い、首を横に振りながらも、
その胸にはほのかな安心感が芽生えていた。
その夜、晴人は蓮とバーに行くために、
会社に迎えに来た。
蓮はまだ仕事中。
晴人は蓮の隙をついて優里に話しかける。
「ねぇ、優里さん」
書類を整理していた優里は顔を上げた。
「はい?」
晴人は優里の前に無造作に座る。
「優里さんが蓮を突き放すのは、自分の過去の傷を蓮に重ねてるだけでしょ?」
「..えっ?」
晴人はニヤッと笑う。
「図星?。あいつのあのデレデレな笑顔の裏で、どれだけ必死になってるか知ってる? 優里さんが素直にならなきゃ、あいつの自己肯定感はいつまで経っても満たされないんだよ」
「優里さんが本当に恐れてるのは、あいつに飽きられることじゃない。再び孤独になることだ。蓮は、優里さんの過去を埋めるための代償なんかじゃない。あんたのために変わった男だ。それをいつまで過去の亡霊のせいで否定し続けるんだ」
優里の瞳が激しく揺れた。
ずっと心の奥に隠してきた孤独とトラウマを、
真正面から抉った。
その時、後ろから足音が聞こえる。
「優里。俺の居場所は、金と女に囲まれたVIPルームじゃない。優里が笑っている、このオフィスなんだ」
彼女がずっと求めていたのは、
「いつか終わる熱意」ではなく、
「永遠に続く献身」の証明だった。
蓮は優里を優しく抱きしめた。
「もう、一人じゃない。俺が、永遠に支える」
(俺が、優里を、絶対にまも……)
「調子乗らないで」
優里の冷たい言葉と共に突き飛ばされる。
ガシャン!と
後ろのキャビネットに全身を打ち付ける
「いたた!」
蓮はわざとらしく
背中をさするような動きをする。
「このあと会議だから邪魔しないで」
優里は冷たい目で会議室に入ってしまう。
「え?会議?なんの?」
蓮は晴人をよそに、
優里を追いかけて行ってしまう。
「おい蓮!飲みに行くんじゃ..」
「ダメだこりゃ」
晴人は呆れていた。
蓮の席は優里の席が正面に見える特等席。
蓮は自分のデスクに座りながら、
手は資料を広げているものの、
その視線は優里へと釘付け。
優里は電話をかけたり、
書類に目を通したりと、忙しく働いていた。
(…やっぱり綺麗だ。相変わらず隙がない。もう少し笑ってくれればいいのに。誰も見ていない時くらい、俺だけに甘えてくれないかな)
その視線は真剣で、
既に「憧れ」を通り越した
「愛」の色を帯び始めていた。
その異常な集中ぶりは、
周囲の社員たちにはとっくにバレていた。
特に、蓮の隣の席の先輩社員は、
その様子を見てはニヤニヤしていた。
先輩社員は
コーヒーカップを持って蓮のデスクに近づき、
蓮の肩を叩いた。
「よっ、星野! また優里さん見つめて、魂抜かれてんのか?」
蓮はハッと我に返り、
慌てて資料に視線を戻した。
「ち、違います! 社長に呼ばれるかもしれないから、その準備を…」
「ハイハイ。呼ばれたことなんてないくせに。お前の席の向かいに社長が見えないように分厚い書類の壁でも作ってやろうか?」
「もう、邪魔しちゃダメですよ。蓮くんの日課なんですから」
「あれはもはや 『社長崇拝の儀』よ」
「でもさ、蓮くんってさ、なんか大型犬みたいで可愛いよね。社長に見つめられてる時の眼が、『 ご主人様、撫でて!』って言ってるみたい」
「まぁ、気持ちは分かるよ。優里社長は絶世の美女だからな。…でも、御曹司様じゃ相手にならない。社長はな、御曹司様のような『お金持ち』でも『犬』でもなくて『対等な人間』を求めてるんだよ」
蓮の「社長崇拝の儀」が
オフィスの日常となりつつあるなか、
周囲の社員たちは
蓮の優里への強い執着を利用して
冷やかし始めた。
「いやぁ、優里社長は大変だよな。モテすぎるってのは」
「ねー。優秀で綺麗だから、そりゃそうでしょ。特に、業界の有力者とか取引先の御曹司たちがすごいって聞くわ」
蓮は一瞬、動揺を隠せず、
手に持っていたペンを
落としそうになった。
優里を狙う「外界」の存在は、
蓮の心に鋭い刃を突き立てた。
「この間もさ、あのIT企業の社長と食事行ってたんだろ?」
「そうそう!噂じゃ、高級レストランで、結構遅くまでって。…真剣な交際に発展するかもしれないって専らの噂よ」
蓮の顔から血の気が引いた。
「…そ、それは本当か!?」
(真剣な交際だぁ⁉ 元々あの子には遊びの交際という概念がないだろうが…!)
「ん?何が?… ああ、真剣交際の噂のことか。そりゃ、社長の恋愛沙汰だから、俺たち平社員が口を出せる話じゃないだろ?」
「蓮くん。あれは優里社長に相応しいレベルの男よ。私たちは遠く から見てるだけでいいの」
蓮はぐっと拳を握りしめた。
(…ふざけるな。優里に相応しい男は、この俺だけだ。誰にも渡さない。絶対に、外界の男の手などに触れさせてたまるか!)
「…ふざけるな。どこの馬の骨かもわからない男にとられてたまるか!」
「勝手に優里社長を所有物みたいに言うな!まさか、本気で社長に惚れてるんじゃないだろうな?」
『惚れてる』
その言葉が蓮の頭に響き渡った。
蓮は立ち尽くし、全身から力が抜けた。
「…ああ、そうか。俺は…」
「… 好きだ。俺は、優里のことが、どうしようもなく… 好きだ」
先輩社員は蓮の肩に手を置き、
皮肉めいた同情の色を浮かべた。
「…おいおい、本気かよ。御曹司様が社長に本気の恋か。それは大変だな」
「御曹司様の一過性の熱に相手させられる社長も哀れだ」
「短期間だけの愛に相手してくれるほど、あの人は暇じゃないですよ」
「…残念だったな。御曹司様だけじゃないんだ。優里社長を狙っているのは」
「… あんな完璧で高嶺の花を手に入れたい男は、社内にも腐るほどいるんだよ。もちろん、あのIT企業の社長だって負ける気はないだろうな」
「…今、何と言った?」
「分を弁えろ、平社員が」
彼の心は、優里を守るために、
全ての手段を尽くすことを誓った。
「…俺の優里に触れさせるものか。」
蓮の嫉妬が覚醒した後、退社後の帰り道。
時刻は夜8時。
蓮は一連の嫉妬の感情で消耗しつつも、
優里に一瞬でも長く付き添いたいと、
優里の数歩後ろを歩いていた。
その時、横を黒いガラスでなかが見えない
リムジンが滑るように通り過ぎた。
その高級車の車内から、
シャンパン・グラスが
わずかにきらめくのが見えた。
蓮の視界が一瞬歪んだ。
(… ああ、昔の俺だ。あのリムジンのなかで、俺はいつも女を侍らせていた。シャンパンを開けて、『御曹司の蓮様と遊べるなんて最高!』と言わせて悦に入っていた…)
リムジンの通過は、
かつての蓮の愛の形が、
いかに表面的で
虚飾に満ちていたかを強烈に突きつけた。
(… リムジンを見せれば、誰でも俺に跪いた。金と権力で全てが手に入った。)
蓮は自嘲的に苦笑いを漏らした。
その愛がどれほど虚しいものだったかを知っていた。
そして、優里だけが、
その全てに無関心であったことも知っていた。
「… ふっ」
蓮がふと顔を上げると、
優里が足を止め、
振り返って彼の苦笑いを見ていた。
優里の表情は、特に動揺も興味も示さず、
ただ冷静に蓮の過去と現在を
秤にかけているようだった。
「またいつものお遊びに戻るの? どうせあなたは、何も変わっていないでしょ」
(… そうだ 。優里はリムジンにも、金にも、俺の肩書にも興味がない。だからこそ… 俺は、今度こそ、全てを賭けて君の心を手に入れなければならない)
(…昔の女たちは、俺の金と顔とリムジンに喜んだ。俺の隣に並ぶために、必死で背伸びをした。誰一人として、俺が何を考えているか、俺の虚栄心に気付いた女はいなかった)
優里の存在だけが、
蓮の世界の全てを狂わせた。
蓮の金にも地位にも無関心で、
むしろ蓮を受け入れることを拒否しようとしている。
蓮は優里の髪に触れた。
その手の感覚は、
彼が過去に触れたどの女性とも違っていた。
(もう無理だ。俺は、もう二度と、誰にも本気にならないと決めていたはずだ。)
(… だけど、優里。君の存在だけが、長年続いた俺の『愛 のない王様ごっこ』を終わりにさせた)
蓮の心のなかで、
過去の「俺様御曹司」の虚飾は完全に砕け散り、
優里という「絶対的な運命」を守り、
愛し抜くという「王」の本質が目覚めた。
この瞬間、蓮の愛は「子犬の憧れ」から
「永遠の愛」へと変貌したのだった。




