善意の裏切り
夜の繁華街。
煌びやかなネオンと酒の匂いが、
蓮を包み込む。
「おーい、レン!久しぶりじゃん!」
かつての遊び仲間が声をかけ、
女の子たちが笑顔で寄ってくる。
「星野くん、相変わらずカッコいい〜!」
「一緒に飲もうよ!」
テーブルに座るや否や、
グラスが次々と差し出される。
肩や腕に女の子たちの手が絡みつく。
蓮は苦笑いしながら、
勢いよくグラスをあおった。
(ああ……これだよ、俺はこういう場所が似合ってたんだ……)
胸の奥に広がるのは、空虚さだった。
優里と過ごした日々が、
一瞬でフラッシュバックする。
あの真剣な瞳、仕事に向かう姿勢、
自分を真面目にさせてくれた存在。
「ははっ……何だったんだよ、あれ……」
蓮は笑い飛ばそうとする。
(結局俺は、優里に“合わせて”ただけだったんだ。真面目にしようなんて、ほんとは俺らしくなかったんだ……)
「星野くん、どうしたの?元気ない?」
女の子の一人が覗き込む。
「ん?いや、なんでもないよ。今日はとことん飲もうぜ」
蓮はわざと明るく笑い、再びグラスを傾ける。
喉を通るアルコールの熱さに、
少しの間だけ心が麻痺する。
だが、胸の奥の空洞は埋まらない。
優里に「無能」と突き放された言葉が、
耳の奥で何度も反響する。
(……俺は、何をやってるんだ)
取り囲む笑顔のなかで、
蓮の視線は虚空をさまよい続けていた。
グラスの縁に口をつけ、
笑顔を浮かべてはいるものの、
蓮の視線はどこか虚ろだった。
横に座る女の子が甘えるように腕にしがみつく。
「レンくん、今夜どこ行く?」
「ねぇ、二人きりになろうよ」
耳に入るのは艶っぽい声。
けれど、頭のなかには別の声が響き続けていた。
(“星野グループがなければ、あなたはただの無能です”)
優里に突き放された言葉が、
まだ胸を抉っている。
(なのに……なんでだよ。なんでまだ、あの子の顔が離れないんだ……)
笑顔を作ろうとしても、
無理に上げた口角がすぐに崩れる。
酒でぼやけた視界のなか、
優里がふと隣に座っているような錯覚さえ覚えた。
真剣な目。冷たい声。
けれど、その奥に潜む弱さに触れたときの温度。
「レン」
低い声が響き、
女の子たちが一斉に振り返る。
人混みをかき分けて現れたのは、
晴人だった。
蓮はスーツの上着を脱ぎ、
乱れたネクタイのままの姿。
蓮のテーブルに歩み寄り、
険しい目を向けた。
「お前……まだこんなことしてんのか」
「は?なにが」
蓮は笑ってごまかそうとした。
「俺はこういうのが似合ってんだよ。ほら、女の子だって楽しそうだろ?」
「……ふざけんな」
晴人は低く吐き捨てるように言った。
「お前、それでいいのか?優里さんに無能だって言われて、それで“じゃあ遊びに戻ります”ってか?」
蓮の笑顔が凍りつく。
女の子たちの笑い声が遠くに霞む。
耳に響くのは、晴人の言葉と、
脳裏に浮かぶ優里の姿だけだった。
(俺は……どうしたいんだ。ほんとは……)
グラスを握る手が、無意識に震えていた。
蓮は歩道の縁石に腰を下ろし、
手にしていた缶ビールを乱暴に振ってから開けた。
泡があふれ出ても気にしない。
「結局さ……俺、バカにされてただけだったんだろ」
かすれた声で吐き出す。
「頑張ったつもりだった。無理に合わせて、背伸びして……でもさ、あの人には何も響いてなかったんだ」
夜風が二人の間を吹き抜けた。
「俺が変われたって思ったのは、勘違いだったんだよ。全部、あの子にそう見せてもらってただけだ」
蓮はうつむき、拳で自分の膝を叩く。
「なのに……あの人は、最後まで俺を必要としなかった」
言葉の端々に、苛立ちと悲しみが滲んでいた。
晴人は、否定もしなければ慰めもしない。
「なあ、晴人。俺、なんでこんなに悔しいんだろ……」
絞り出すような声に、
晴人はちらりと横目をやる。
しかし口を開けば、真実が零れてしまう。
だから彼は黙った。
そしてただ、短く問いかける。
「……それでいいのか?」
蓮は答えられなかった。
蓮はアスファルトに靴の先で線を刻むように、
苛立った動きを止められなかった。
「……俺、結局、あの人にとっちゃガキのままだったんだよな」
かすれた笑いが、夜の街に虚しく響く。
「一緒にいたら変われるって、勝手に思ってただけだった。あの子に寄りかかって、いい男に見せてもらってただけ……」
言葉を吐くたびに胸の奥がえぐられる。
「頑張ったのにさ……必死に食らいついたのにさ……最後は切り捨てられた。クビ、だってよ」
自嘲の笑みは、今にも泣き出しそうに歪む。
「……笑えるよな。俺なんか、最初から必要なかったんだ」
「もう無理だ……俺なんかじゃ、届かなかったんだよ。バカにされてただけなんだ……」
夜風が冷たく吹き抜け、
しんとした沈黙が二人を包んだ。
そのなかで、
蓮の小さな声だけがかろうじて響いていた。
朝の光が遮光カーテンの隙間から差し込み、
ベッドの上で蓮はうめいた。
「……頭、いてぇ……」
舌は乾ききり、胃はまだ酒で焼けている。
起き上がるのもやっとだった。
無造作に投げ出されていたスマートフォンが震える。
ディスプレイに浮かんだ名前を見て、
蓮は顔をしかめた。
……父。
「……はい」
重い声で出ると、
冷徹な父の声が鼓膜を突いた。
「蓮、今日の株主総会に来なさい。きちんとした格好でな」
一方的に告げて、通話は切れた。
シャワーを浴びる気力もないまま、
無理やりスーツに腕を通す。
足取りは重いのに、
会場のドアを開けた瞬間、胸が跳ねた。
そこに、優里がいた。
いつもの凛とした姿ではなかった。
目の下に疲れを隠しきれず、
それでも毅然と前を見据えている。
壇上に立った父の声が響き渡った。
「それでは、株主総会を始める。本日の議題は……ゼロ・スタート社の買収と、それに伴う現社長・桜庭優里氏の解任案である」
「……は?」
蓮の喉から間抜けな声が漏れた。
ざわめきが会場を覆う。
父は一歩も揺らがない。
「経営の不安定化、資金繰りの失敗。彼女ではこれ以上会社を支えられない。よって解任を提案する」
無慈悲な資料と数字が突きつけられるたびに、
場の空気は彼女を追い詰めていった。
蓮は耐えきれず立ち上がった。
「ちょっと待ってくれ! なんでそんな一方的に……!」
だが、隣に座る幹部の一人が冷ややかに言い放った。
「君も出資者だろう? 星野グループを通して、この会社の株を大量に取得した。解任賛成票の大部分は、君の名義だ」
「……え?」
耳を疑った。
資料に並んだ数字の横に、自分の名前。
確かに蓮が「サポートになるなら」と買った株。
だが、それは星野グループが
裏で操作した票として組み込まれていた。
「……俺……が……」
視線を上げると、優里がこちらを見ていた。
痛みをこらえるような瞳。
怒りでも憎しみでもなく、
ただ深い失望がそこにあった。
「……やめろよ……俺は……助けたくて……」
声が震える。
しかしその願いは誰にも届かない。
議事進行は無情に進み、結果が告げられた。
「賛成多数。桜庭優里氏の解任を決議する」
蓮の膝が砕けたように力を失った。
頭の奥で父の声が反響する。
「これも会社のためだ」
だが、蓮にはもう何も聞こえなかった。
自分は知らぬ間に、優里を裏切り、
彼女を最も傷つける形で
追い詰めてしまったのだ。
会場を出る人々のざわめきのなかで、
蓮は立ち上がった。
足は鉛のように重い。
それでも、優里の背中を見失いたくなくて、
必死に追いかける。
「優里!」
声を張ると、
彼女の肩がわずかに揺れた。
だが振り返らない。
「待ってくれ、俺……知らなかったんだ。助けたくて、株を……」
言葉が喉の奥でつかえ、
情けないほど震えていた。
やっと振り返った優里の瞳は、
冷たく澄んでいた。
「……もういいです」
その一言が、刃物のように突き刺さる。
「違うんだ、俺は本当に……」
「あなたに何が分かるんですか?」
遮る声は冷徹だった。
「会社を守るために、何を失ってきたか。誰を信じ、誰に裏切られてきたか。あなたには……分からない」
蓮の胸がきしむ。
手を伸ばしても、
その距離は絶望的に遠い。
優里は一瞬だけ目を伏せ、
そして踵を返した。
「……もう、関わらないでください」
その背中は、今度こそ振り返らなかった。
崩れ落ちそうになる身体を、
蓮は必死に堪えた。
拳を握り締めながら、
胸の奥で言い知れぬ怒りが膨らむ。
やがて彼は、父の控室へ向かっていた。
ドアを開けると、
そこには悠然と椅子に腰かける父の姿があった。
「来たか。……どうだ、いい勉強になったろう」
「勉強……?」
蓮の声は低く、震えていた。
「ふざけんなよ……俺は……優里を助けたくて……!」
父は書類から顔を上げ、鼻で笑った。
「助ける? 株を買うことが? あの子の首を絞めただけだろう」
「……っ!」
怒りが全身を駆け巡る。
「俺を利用したのか……!」
「お前は何も知らない子どもだ。だが、それでいい。力の意味を理解するには、こうして血を流す経験も必要なんだ」
父の声は淡々としていた。
蓮は拳を握り、歯を食いしばる。
頭の奥で優里の冷たい瞳が何度も浮かんだ。
知らぬ間に裏切った。
でも、本当にこれで終わりなのか。
その問いが、蓮の胸を焼いていく。
父との会話を終えたあと、
蓮は控室を飛び出した。
胸の奥に怒りと後悔がぐちゃぐちゃに絡みつき、
呼吸すら苦しい。
ビルを出て、夜風に晒されても、
頭のなかでは優里の言葉が何度もリフレインした。
「もう、関わらないでください」
あの冷たい瞳。
自分を見ているはずなのに、
自分を見ていなかった瞳。
ベンチに腰を下ろすと、
膝の上で拳が震えた。
「……全部、俺のせいじゃねぇか」
助けるどころか、追い詰めた。
父の思惑に踊らされ、
知らないうちに彼女を裏切った。
情けなくて、悔しくて、
涙が込み上げそうになる。
泣く資格なんてない。
そう自分に言い聞かせ、
蓮はただ虚空を睨み続けた。
数日後、会社に顔を出した蓮の前に、
松本が現れた。
いつも冷静沈着な松本の顔に、
わずかな哀しみが浮かんでいる。
「星野君……」
「……俺、クビになったんでしょ」
乾いた笑みを浮かべて言うと、
松本は静かに首を振った。
「君はバカだな」
「は?」
「あの子は、君を守るためにそうしたんだ」
蓮の胸がひゅっと縮む。
「株主総会に居合わせれば、君は“裏切り者”として社員たちからも糾弾されただろう。あの子にとって、それが一番耐えられなかったんだ。だから先に君を突き放した。あえて……自分が憎まれるように」
「……俺を……守るため……?」
掠れた声が自然と漏れる。
松本は重々しく頷いた。
「会社はしばらく私が支える。だが、あの子の本心を勘違いしたまま、君が壊れていくのは見たくなかった」
その言葉が、胸に深く刺さる。
(あの日の優里の冷たさは、本心ではなかった?)
(だとしたら、自分は……。)
蓮は頭を抱え、
深い暗闇に沈んでいくのを感じた。




