暴風雨の騒乱
社内の空気が少し落ち着いたある週末、
社員の親睦イベントとしてボウリング大会が開かれた。
会場は会社から少し離れたボウリング場。
もちろん開催を決めたのは優里ではない。
活発な社員たちが自発的に決めたのだ。
普段はスーツ姿で背筋を伸ばすメンバーが、
今日はラフなシャツに着替え、
肩肘張らない顔で集まっている。
社員たちは相変わらず楽しそうに軽口を叩き、
周りの空気を和ませている。
蓮は遊び慣れている。
ボールを構え、フォームを決め、
ピンを弾き飛ばす様子は、少し見違えるほど格好良かった。
何度もストライクを出し、チームは歓声を上げる。
彼の「みせる」振る舞いは自然で、
場の盛り上げ役として完璧にハマる。
一方で、優里は静かに観戦していた。
ボウリング場の喧騒が苦手なのか、
彼女は隅の席で穏やかな笑みを浮かべている。
歓声に照れて唇を噛む仕草が、
普段のビジネスでの冷静さとはまるで違う。
蓮はそれを見て、
自分のなかの見立てが少しずつ変わり始める。
ゲームの間に社員たちがはなしかける。
「優里さん、投げてみない? 」
優里は少し顔を上げ、首を振る。
「私は……ゆっくり見てます。みんなが楽しそうだから」
(…めっちゃ、おっとり系なんじゃねぇかよ)
蓮は普段の仕事の冷徹な優里とはかけ離れたその姿に、
胸がギュッと締め付けられたのを感じた。
ボーリング大会が終わった頃、
精算の段取りで少し手間取る。
優里は細かな計算が苦手で、伝票の合算にとまどっている。
彼女が数字を一つずつチェックして眉を寄せていると、
蓮がすっと前に出て電卓を叩き始めた。
「合算はこうだよ。ここの割り勘は人数で割り、飲み物分は別でこうやって……」
優里は肩をすくめて笑った。
「理系ダメで、数字を見ると頭がクラクラするんです。昔から苦手で……」
蓮はふと驚いた。
普段の仕事ぶりや芯の強さからは想像もつかない告白だ。
彼は優しく微笑んで、会計をさっさとまとめた。
「子どもの頃、医者になりたかったんです。でも理科がどうしてもダメで。結局、文系に行ったんです」
優里の声は少しだけ遠く、子ども時代の残像を携えていた。
蓮は目を向ける。
「医者になりたかったんだ」
「人の役に立つ仕事がしたかった。けれど、理系が向いてなくて……文系に逃げたみたいなもので」
優里は少しだけ笑ったが、
その笑顔には複雑な響きがあった。
蓮は胸がぎゅっと締め付けられた。
表の強さの裏にある、幼い頃の夢と挫折。
彼女の不器用さが、より愛おしく思えた。
会場の外に出ると、空が急に暗くなった。
ポツリ、ポツリと雨粒が落ち、
すぐに本降りになり始める。
傘を持ってきていない人がちらほらと顔を曇らせる。
優里は一瞬戸惑ったように立ち止まる。
「一緒にこっちに…!」
「一人で帰りますよ」
「ダメだ。女の子をここで一人で帰らせるわけにはいかない」
優里は一瞬だけ渋ったが、
やがて仕方なさそうにうなずいた。
「じゃあ、一緒に……」
ふたりは走り出した。
(…ぬぉぉぉ、唐突のめっちゃ青春じゃねーかぁ!!!)
雨は勢いを増し、二人は傘も持たずにずぶ濡れになっていく。
水滴が顔を打ち、髪が頬に張り付く。
優里の薄手の服は雨に濡れて肌に沿い、
透けた部分ができてしまう。
蓮はまずいと慌て、
すぐに自分のジャケットを脱いで彼女の肩にかけた。
彼のジャケットは大きく、
優里の濡れた姿をさっと覆い隠す。
「寒いだろ? これで我慢して」
優里は一瞬恥ずかしそうに顔を伏せる。
「ありがとうございます」
二人の間に言葉はいらなかった。
「俺の家、近いんだ。 俺のところで着替えていけ。すぐに乾かせる」
蓮の口調は自然だが、その提案に優里は少し驚いた。
彼女は警戒心を見せるが、体の震えが止まらないのが分かる。
「大丈夫です。すぐ帰りますから」
「いいから、頼む」
蓮は強く言った。
相手を守る決意が伝わる。
結局、二人は蓮の住む高級タワーマンションへ向かった。
彼女をちらりと見る。
濡れた髪からは水滴がしたたり、彼女の頬は少し赤かった。
タワーマンションのロビーは落ち着いた照明で暖かく、
コンシェルジュが優雅に挨拶をする。
エレベーターで上がると、蓮は急いで部屋に案内し、
毛布やタオルを準備した。
優里は黙って脱いだジャケットの下を気にしながら、
着替えを始める。
蓮は一歩離れて待っている。
互いに距離を保ちつつ、
どこか永遠にも似た張りつめた時間が静かに流れる。
「ここまで来るの、申し訳ないです」
優里が静かに言う。
声にはまだ震えがある。
「来てくれていい。無理をしてほしくないだけだ」
蓮は短く答え、タオルと乾いたシャツを手渡した。
優里はお礼を言い、素早く着替える。
「あ、あの、星野さん…」
「なんだ?どうした?」
優里が着替えを終えて部屋に戻ってきた姿は、
まるで蓮の服に「着られている」ようだった。
袖は優里の指先まで完全に隠れ、
襟元は広く、
だぶだぶのシャツは優里の身体を
すっぽりと包み込んでいた。
普段の冷徹で隙のない優里とはかけ離れた、
無防備な姿だった。
蓮の体格は優里よりも遥かに大きく、
特に蓮の身長が優里より30センチほども高かったため、
その差は歴然だった。
蓮は優里のその姿を見た瞬間、
全身に電流が走ったような衝撃を受けた。
普段の仕事で見せる、
鉄壁の「女王」の顔はどこにもなく、
そこにいるのは、
自分の服に埋もれている「か弱い女性」だった。
「くっ…」
蓮の顔は一瞬で真っ赤になり、
その美貌が苦悶の表情で歪んだ。
それは、蓮の心の防御が一瞬で崩壊した証拠だった。
(なんだ…この生き物は。あの優里が、俺の服のなかに…! ぶかぶかだ。袖から手が出てない! 可愛い…可愛すぎるだろう! いつもの生意気さはどこへ行ったんだ!?)
蓮は心のなかで「ギャップ萌え」という
初めての感情に悶絶した。
優里が風邪をひかないかという心配と、
今すぐ抱きしめたいという衝動が戦い、
蓮は椅子に座ったまま、必死にうめき声を漏らすのだった。
服を替えた彼女は、
少しだけ楽になった顔をしてソファに座り、
深呼吸をした。
「ありがとう。星野さん……」
そのとき、二人の目が合う。言葉は少ない。
だが、会話を重ねた日々、守った一瞬一瞬、
そして今の共有された経験が、
二人の距離を確実に縮めていた。
外の雨はいつしか静かになり、
窓の向こうには街灯がにじむ。
蓮は優里のそばに座り、ふと呟いた。
「無理するな。頼れよ。俺でよければ、頼ってくれ」
優里は小さく笑って、でも真剣な顔で答えた。
「そうする。ありがとう、星野さん」
その夜、二人は言葉少なに過ごした。
恋の告白ではなく、
互いの信頼と理解が静かに深まった時間だった。
蓮は「お風呂沸かしてくるよ」と言い残して、
慌てて立ち上がった。
足取りは早いが、
頭のなかは全く別のテンポでぐるぐる回っている。
扉を閉めた瞬間、
静寂がドアの向こう側へと押し流され、
部屋の空気が一気に自分だけのものになった。
(…なんだよあれ、ずるいだろ!)
声を出したくなる。
だが声に出せば優里を驚かせる。
(さりげなくシャツ渡したけど、彼シャツってあれだろ? 可愛すぎんだろぉぉぉ……!)
(身長差ありすぎてシャツよりももはやワンピース状態だし…)
頭のなかで何度もリピートされるイメージは、
さっきの雨の中で彼女が
自分のジャケットにぎゅっと包まれていた姿。
濡れた髪、頬に残る水の粒、
驚いたように伏せた目。
無防備で、妙に似合っていた。
胸の奥で、これまで感じたことのない
ざわつきが大きくなっていくのがわかった。
自分のなかの「俺様」部分が、
きゅっと縮こまり、
かわりに何か別のものが膨らんでいる。
(これって……なんだ? 嫉妬? それとも、守りたいってやつか? いつの間にか、こんなに胸が騒ぐようになるなんて)
理屈で考えようとしても、言葉はすぐに溶けていく。
代わりに、感情が口を利く。
可愛い、危なっかしい、守らなきゃ、
でも下手に出ても彼女を疲れさせるだけ。
矛盾がぐるぐると絡まる。
蓮は深呼吸をした。
自分はこれまで「俺が中心」に生きてきた。
金で解決できないことなどないと思っていた。
だが、目の前にいるのは
金でも肩書きでも
解決できない人間らしさだった。
優里の疲れた笑顔、その脆さ。
そんなものに動かされる自分を、
認めたくないわけではないが、
認めるには照れ臭すぎる。
「……落ち着けよ、俺。先に風呂、風呂」
自分に言い聞かせ、蓮はわざと大きめの声で呟いた。
少し気分を切り替えようという意図だ。
だが足取りは依然そわそわしている。
お湯の音が妙に落ち着く。
熱のある湯けむりが小さな安心を与えてくれる。
湯を張りながら、
彼は自分なりの段取りを考える。
バスタオルは二枚、替えのシャツ一枚、
温かい飲み物用にマグカップ。
濡れた服を置くためのビニール袋も用意した。
誰かを家に泊める、
というだけで必要になる気遣いがあるものだ。
細部に気を配る自分が、
少しずつ落ち着きを取り戻す。
ふと、扉越しに小さな声が聞こえた。
「星野さん……?」
気づけば優里は立ち上がって、
ドアの前に来ていたらしい。
蓮は慌てて返事をする。
「お、終わった。今戻る。ちょっと待っててくれ」
扉を開けると、優里は少し顔色が戻っていた。
「ありがとうございます……星野さん、無理させてすみません。迷惑かけちゃって」
優里の声は、いつものように柔らかいが、
その端に申し訳なさが滲んでいた。
蓮は一瞬、言葉を詰まらせた。
(…なにが、迷惑なんだ…?)
「迷惑なんかじゃない。とにかく、入って。早く温まって」
優里は小さく笑い、うなずいた。
「星野さん、本当にありがとう。今日は……すみません」
「いいんだよ」
蓮は短く答え、
ドアの向こうで湯気を見つめる。
優里が安心して体を休められるように、
自分は黙ってそばにいる
それで十分だと感じた。
蓮の内側にあった
「可愛い」「ずるい」みたいな感情は、
少し形を変えた。
守りたいという気持ちが、
照れややさぐれを越えて、
静かな決意へと変わってゆく。
扉の前で、蓮はそっと目を閉じた。
彼はまだ多くを知らない。
だが今夜だけは、目の前にいる人を守る。
小さな行為で、少しでも心を軽くする。
そう誓って、蓮は湯気の向こう側の音に耳を澄ませた。
蓮は扉の向こうにいる優里を想像しながら、
ふと気づいてしまった。
(…このまま泊まってくれる可能性、あるんじゃないか?)
現実味が急に重くなる。
外では依然として暴風雨の警報音が
テレビの隅で踊っている。
こんななかで彼女を放って帰すのは無責任だろう。
いや、それ以前に帰したくない。
そういう下心を蓮は必死に抑えつけるが、
胸のなかの何かがじわじわと嬉しく疼いた。
「ま、まずい……泊るなんて想定してねぇし、グッズが無い」
自分に言い訳しているうちに、
部屋のなかを何度も行ったり来たり。
動けば動くほど、落ち着かない。
そのとき、扉の向こうから静かな声。
「星野さん、お風呂ありがとうございました」
蓮は思わず扉の前で固まる。
振り向くと、髪はまだ湿っていて、
浴室の蒸気が微かに彼女の周囲に残っている。
胸の奥がぎゅっとなり、
同時に顔の筋肉が緩んで勝手に笑みが出る。
「ぐぬぅ、かわいい…」
理性は「落ち着け」と言うが、
全身が彼女の存在に反応して勝手に言葉を紡ぐ。
(…俺が俺じゃなかったら襲ってたくらいだったぞ……)
馬鹿だとわかっているけれど、知らないふりもできない。
優里は申し訳なさそうに視線をそらす。
その瞬間、蓮の頭にアイディアが閃いた。
自分の“とっておき”を出すチャンスだ。
普段は自己顕示のために磨いている
ナルシストグッズ。
だが今は、役に立つ。
「化粧水とか、使うよな? 俺のとっておきコレクション、貸してあげるよ」
蓮は棚を開ける。
なかにはブランドのスキンケアが
几帳面に並んでいる。
箱入りのフェイスマスク、
トナー、クリーム、
香りのいいボディローション。
どれも高級そうで、
普段の自分を自慢するための“証拠”そのものだ。
「……え、ほんとに?」
優里の瞳が一瞬輝く。
申し訳なさと驚きが混じった、
子どもみたいな笑顔だ。
(俺のナルシスト、たまには役に立ったか!)
内心でガッツポーズを取りつつ、
蓮は一つずつ取り出して彼女に手渡す。
使い方を説明するふりをして、
必要以上に真剣に見せるのが癖だ。
「まずトナーで軽く拭いてから、このマスクを十分ほど。乾燥しやすいならクリームを薄く馴染ませて……」
優里は頷きながら、器用に手を動かす。
蓮はその仕草を凝視してしまい、胸がぎゅっとなる。
「すみません、こんな迷惑かけて」
彼女は、すぐに帰ろうとする素振りを見せた。
蓮の内心がまた拳を握る。
(この雨の中、帰すかよ。無理だろ……!)
つい、心の声が外に漏れたように出てしまう。
「この雨の中で帰るんか!? 無理だ、帰すわけないだろ」
優里は目を丸くして一瞬止まる。
照れと戸惑いが混ざった表情がたまらない。
「泊まるにしても、お泊まりとかしたことないからグッズねぇし……」
蓮はあわてて言い訳がましく続ける。
ゆっくりでもいいから、彼女を安心させたいだけだ。
「下にコンビニあるけど、行く? 住人は専用ドアから入れるから、濡れたままでも大丈夫だし」
優里の顔がふっと明るくなる。
ふたりは慌ただしく準備をして、
マンションの下の入り口へと向かう。
専用ドアの扉は住民証でピッと鳴り、
コンビニのドアが静かに開く。
ぴょんと子供みたいに小さく声を出して、
「うわぁぁ……」と目を輝かせる。
普段の彼女とは別人のようだった。
その瞬間、蓮は胸に暖かさが広がるのを感じた。
商品の明かりが柔らかく二人を包む。
優里ははしゃぐように目を輝かせて、
子どものように商品の前で立ち止まる。
「見て見て、こんなのもあるの?」
「ねぇ、これ美味しそう!」
彼女の声は無邪気で、
普段のビジネスライクな口調とは全く違う。
そのギャップに蓮は心のなかで小さく笑う。
「まったく、かわいい…な…」
蓮は自然と頭をなでようとしていた。
その瞬間、優里とがっっり目が合った。
「こ、このキャラクターが、な!」
蓮は慌ててペットボトルのキャップにつけられた
景品のキャラクターをみせる。
(あっぶねぇ…)
蓮はお泊まりの“備品”を淡々とカゴに入れる。
そして優里が好みそうな甘いスナックも。
会計を済ませ、
外をみると雨はまだ地面を叩いていた。
夜のエレベーターのなか、二人きりの狭い空間。
蓮はふと思う。
(…この人といると、妙に落ち着くな)
守る、というよりも、
一緒にいること自体がすごく自然だ。
マンションの廊下を二人で歩く。
外の暴風の音は遠く、
部屋のドアを閉めた瞬間、静けさが二人を包んだ。
蓮は呼吸を整えて、ふと素直になってみる。
「無理するなよ。俺でよければ、これからも頼れ」
優里はじっと蓮を見て、小さくうなずいた。
目には信頼と、少しだけ安堵が浮かんでいる。
外の台風情報がテレビの小さな文字で流れている。
だが今夜は、その喧騒が二人の間にある
静かな温もりを邪魔することはできなかった。




