嘘の笑顔と、本当の鼓動
……誰も知らない彼女の孤独に、俺は惹かれてしまった。
その週末。
蓮は晴人に呼び出され、
居酒屋のカウンターに並んで酒を酌み交わしていた。
「で、どうだ?入社してから」
「……まあ、なんとかやってる」
生ビールの泡を眺めながら答えると、
晴人はにやりと口角を上げる。
「“なんとか”って顔じゃねえな。お前、少しは楽しくなってきたんだろ?」
「別に……」
曖昧に濁すと、晴人はグラスを置き、唐突に切り込んできた。
「優里のこと、気になってんだろ」
「ゴホッゴホッ……!な、なんでそう思うんだよ」
思わず飲んでいたビールを吹き出しそうになった。
「分かりやすいんだよ、お前。昔から顔に出るタイプだからな」
晴人はわざとらしく溜め息をつき、声を落とした。
「でもよ、あんま舞い上がるなよ。あの子は社長だ。男の扱いに慣れてる。仕事柄、いろんなやつを転がしてきたんだ」
「……転がす?」
「悪い意味じゃなくてもさ、投資家も取引先も、みんなあの子のペースに乗せられる。昔も、ちょっと噂があったしな」
蓮の胸がずしりと重くなる。
頭に浮かんだのは、
距離が近く、心臓が早鐘を打っていたあの瞬間。
(あれも……ただの“仕事柄の距離感”だったのか?俺だけが勝手に勘違いしてたのか?)
グラスを握る指に力が入る。
「お前は昔から、女に対して単純だからな。気をつけろよ」
そう言って晴人は笑ったが、蓮にはその笑みが妙に冷たく映った。
帰り道。
夜風にあたりながら、蓮は歩き続けた。
(俺は……どうしたいんだ?)
優里に惹かれている自分を、認めたくない。
けれど否定すればするほど、彼女の姿が脳裏に浮かんで離れない。
笑った顔。
真剣に資料を指さす横顔。
(俺は……騙されてるのか? それとも、ただの勘違いか?)
(優里の本当の顔はどっちなんだ……)
(危険だ……でも、どうしても気になる)
心の中でせめぎ合う感情が、蓮を追い詰めていった。
蓮は、自分のデスクに腰を下ろしたまま、
視線を泳がせていた。
朝からどうにも落ち着かない。
「なぁ、知ってる? うちの桜庭社長、昔けっこうモテてたんだってよ」
ふと隣の島から漏れてきた社員たちの雑談に、
思わず耳がそばだつ。
蓮は手元の資料をめくるふりをしながら、
全神経をその会話に集中させた。
「大学時代、他社の御曹司とも噂あったし、いまでも外部のパーティーに呼ばれること多いらしいよ」
「やっぱり見た目もいいし、経営力あるしなぁ。そりゃ声もかかるだろ」
御曹司? パーティー?
蓮の心臓が一瞬、嫌な音を立てた。
昨日、晴人に「優里ってモテるらしいぞ」と
聞かされた時の言葉が蘇る。
やっぱりそういう女だったのかよ。
男の前では笑顔を振りまいて、利用して……。
なのに俺ばっかりドキドキして、馬鹿みたいじゃねえか。
胸の奥にざらつく感情がこみ上げ、
無意識にペンを強く握りしめていた。
その夜、蓮と晴人は酒場にいた。
蓮はジョッキを乱暴に置き、苛立ちを隠さなかった。
「なぁ晴人、お前あの話どこで仕入れたんだよ。桜庭がモテるってやつ」
「へぇ? あぁ、取引先とか大学時代の知り合いとかから普通に聞いたけど」
「くそっ……俺ですら知らねえのに」
「お前さぁ、桜庭さんのこと気にしすぎ。興味ないならムキにならねえだろ?」
図星を突かれ、蓮は言葉に詰まる。
ジョッキの泡を見つめながら、
胸の奥で認めたくない感情が渦巻いていた。
(俺が桜庭に惹かれてる? ……冗談じゃねえ。)
(どうせあいつはモテ女で、男を手玉に取る計算高い女だ。)
(俺は遊んできた。恋なんか本気でしたことねぇ。だから、このざわつきも全部錯覚だ。)
そう自分に言い聞かせる。
だが、優里の真剣な眼差しや、
時折見せる疲れた表情を思い出すと、胸が勝手に熱くなる。
「……クソッ!」
蓮は夜空に向かって吐き捨てた。
その声は、自分自身への苛立ちでもあった。
一方その夜、優里は自宅のマンションに帰り着いた。
広めの部屋に明かりを点け、
スーツを脱いでソファに沈み込む。
テーブルの上にはコンビニの袋。
カロリー表示の小さいサラダチキンと、
インスタントの味噌汁。
「はぁ……今日も日付変わるギリギリだったなぁ……」
優里は自宅の机に向かい、資料をまとめていた。
メールの山に目を通しながら、
サラダチキンをかじる。
彼女の頭のなかにあるのは、恋でも男でもない。
ひたすら仕事と、部下への責任。
スマホには未読のメッセージが並ぶが、
全部仕事関係。
眠る前に、全部返さなければならない。
ふと窓の外を見る。
街の灯りの向こうに、遠く誰かの笑い声が響いてくる。
「……いいなぁ」
小さく呟いたその声には、
誰にも見せない寂しさが滲んでいた。
翌日。
朝のオフィスはまだ空調の冷気が強く残り、
窓の外に残る朝日がガラスに反射して眩しかった。
蓮は少し早めに出社したつもりだったが、
すでに執務室の一角には小さな人だかりができていた。
「みんな、はやいんだな……」
中心にいるのは優里。
いつものように背筋を伸ばし、
白いブラウスの袖を少し折り返して、
社員たちに何かを説明している。
それだけで絵になってしまうのが悔しい。
彼女の周囲に集まっているのは若い男性社員ばかりだった。
誰もが熱心にうなずき、メモを取り、
時折冗談めかした言葉を投げかけている。
そして、優里がふわっと笑顔を返すと、
空気がわずかに和んだ。
その笑顔。
昨日、俺に向けてくれたときと、どこが違うんだ?
いや、もしかして同じじゃないのか。
俺だけが特別だなんて、思い上がりだったのかもしれない。
胸の奥が、きゅうっと苦しくなる。
この感覚が嫉妬だとすぐにわかるのに、
認めるのはあまりに惨めだった。
その日、蓮は優里から直接仕事の説明を受けていた。
会議室で資料を渡され、彼女が冷静に話を進める。
「星野さん、ここの進行管理は任せます。ただし期限は厳守でお願いします」
「わかった」
蓮は軽く返事をしたが、内心は全然別のことで騒がしい。
(こいつ……どの口で真面目ぶってんだ? モテモテで、男を振り回してんだろ。)
(でも、こうやって俺に説明してる時は妙に真剣で……いや、騙されるな俺!)
心臓が跳ねた瞬間、すぐに自分にブレーキをかける。
昨日の社員の雑談と晴人の言葉が
頭のなかでこだまするたび、余計に心が掻き乱された。
午前の会議。
プロジェクターの光が白いスクリーンに映し出され、
優里は資料を示しながら進行していた。
「この部分は、若手チームがまとめてくれたデータですね。特に山下くん、助かりました」
名指しされた男性社員が少し照れ笑いをし、
周囲の空気が和やかになる。
蓮はその瞬間、
口のなかが砂を噛むように乾くのを感じた。
(……なぜだ。)
(ただの労いの言葉だろう。社長として当然の振る舞いじゃないか。)
頭ではそう理解しているのに、
心のどこかで「贔屓なんじゃないか」と囁く声がやまない。
優里が笑顔で山下と何か短く言葉を交わすたびに、
蓮の胸は妙な熱を帯びていった。
昨日の晴人の言葉がまた蘇る。
どこからそんな話を仕入れてくるのか。
自分は優里のことをほとんど知らないのに、
晴人は噂を軽々と口にする。
それがまた悔しかった。
休憩スペースに戻った蓮は、
コーヒーを淹れながらちらりと視線を送った。
優里はソファに腰掛け、山下と笑顔で資料を見ている。
距離が近い。
肩が少し触れそうで、息が詰まる。
(……なんだよ。やっぱり噂は本当なのか? ああいうのを、男は勘違いするんだ。俺だって…)
思考の途中で、無意識に拳を握りしめていた。
嫉妬を隠すために口を引き結ぶが、
内心のざわめきはどうにも収まらない。
その頃の優里の心中は蓮の思考とは真逆だった。
笑顔を作りながらも、内心は焦っていた。
資料の数字を見てもうまく頭に入ってこない。
山下に寄り添うようにしているのも、
単に画面が見づらかったから。
(どうしてこんな時に限って緊張するのかな……。やっぱり私は、人前で自然に振る舞うのが苦手)
恋愛の経験なんて一度もない。
異性に微笑みかけるだけで、
「どう思われるんだろう」と胸がざわつく。
けれど、社長として弱い姿は見せられない。
だから必死に笑顔を貼り付けているだけだった。
そんなことを、蓮はもちろん知らない。
夕方。
一日の仕事が終わりに近づき、
社員たちが次々と帰宅していく。
オフィスに残ったのは、優里と蓮の二人だけだった。
静けさが広がり、外の街灯が窓に映り込む。
優里は書類を整理しながら、ふと蓮を見やった。
「今日、がんばってましたね。最初の資料作り、だいぶ良くなってました」
不意の言葉に、蓮は胸が跳ねた。
だが同時に、昼間の光景が頭をよぎる。
(……本当に、俺のことを見て言ってるのか? それとも誰にでも同じように声をかけるのか?)
言葉にできない疑念が胸を渦巻く。
けれど、優里の声色には偽りが感じられなかった。
その優しさに触れるたびに、蓮の心はまた揺さぶられる。
嫉妬と疑念と、得体の知れない温かさのはざまで、
彼はひとり翻弄され続けていた。
「……桜庭さんってさ、いつもあんな感じなの?」
「…どんな感じ?」
「いや、その……社員に囲まれて、楽しそうに話してるっていうか」
我ながら嫌味っぽい言い方だと思う。
だが優里は首を傾げ、少しだけ困ったように笑った。
「そう見えますか? 私、本当は、人に囲まれるの苦手なんですよ」
「え?」
思わず顔を向ける。
冗談じゃなかった。
優里の表情は、ほんの少し影を落としている。
「社長だから、笑顔でいないとって思うだけです。……でも、正直ああいう時は緊張で頭が真っ白になる」
その告白に、蓮は言葉を失った。
昼間のあの完璧な笑顔が、必死に作られたものだったなんて。
胸の奥がざわめきながらも、どこか温かいものに包まれる。
優里が小さな咳をした。
「まだ本調子じゃないんじゃないのか?」
「……気づいてたんですね」
「そりゃ、見てりゃわかるさ」
強がりのように笑ったが、心の奥底では違っていた。
ただ心配で、ただ気になって仕方がなかったのだ。
優里は一瞬だけ視線を落とし、そして小さく呟いた。
「ありがとうございます、気遣ってくれて」
その声があまりに素直で、蓮の胸に深く響いた。
同時に、危険な感覚が芽生える。
(……やっぱり危ない女だ)
(自分を惑わせる。気を抜いたら簡単に心を持っていかれそうだ。)
だからこそ、必死に自分に言い聞かせる。
(俺がドキドキしてるのは錯覚だ。桜庭優里はモテる女で、男を翻弄するタイプなんだ。そうだろ?)
そう決めつけることでしか、心の揺れを抑えられなかった。
「……じゃあ、私そろそろ帰るから、また明日」
そう口にした瞬間、ふわりと風が吹いた。
優里の髪が揺れ、微かに香るシャンプーの匂いが蓮を包む。
胸が跳ねる。
息が詰まる。
(…やっぱり、危ない)
そう思うのに。
優里から目が離せなかった。
彼女の横顔を見つめながら、蓮は心のなかで必死に繰り返す。
(ダメだ。俺はもう二度と本気になんてならない。なのに……なのに、どうして)
否定すればするほど、惹かれていく。
その矛盾に気づきながらも、
答えを出せないまま蓮は初めての感情に飲み込まれていった。




