プロローグ
星野蓮の朝は、いつだって完璧だ。
それは、彼の人生を管理するシステムが、
一分の隙もなく組み上げられていることを意味する。
窓の外は、東京の摩天楼。
雲一つない青空の下、
ガラス張りの高層マンションの最上階から見下ろす世界は、
整然としていて、彼の人生そのものだった。
遥か下に広がる街並みは、まるで精巧なジオラマのようだ。
彼の手中にある世界は、かくも美しく、そして容易い。
午前七時。
目覚まし時計のデジタル表示が切り替わる一秒前に、蓮の瞼は開く。
無意識に手を伸ばせば、枕元に置いたタブレットが指先に触れる。
寝室を出るまでに、彼はその日の国際市場の動き、
政府の新たな経済政策、そして自身が関わる全てのM&A案件の進捗を、
瞬時に頭の中でシミュレーションし終える。
専属のスタイリストが選んだイタリア最高峰の仕立てによるスーツに身を包む。
生地の光沢、カフスの重み、ネクタイの完璧なディンプル(くぼみ)
すべてが「星野蓮」というブランドを構成する要素だ。
テーブルに並ぶ朝食は、名門ホテルから派遣されたシェフが用意したもの。
完璧な温度のカフェラテと、焼き立てのクロワッサン。
香りまでが、計算され尽くした彼の日常の一部だ。
「おはようございます、蓮坊ちゃま。今朝も予定通りでございます。秘書課より、昨夜のご会合の資料をお送りさせていただいております。ご確認くださいませ。」
秘書の恭しい挨拶の電話に、蓮は軽く頷くだけで応じる。
蓮にとって、この一連の流れは呼吸と同じだ。
意識する必要すらない。
彼が発する一言よりも、その「無駄のなさ」こそが、
周囲に威圧感を与えることを、彼は生まれながらにして知っていた。
高級車に乗り込み、
星野グループ本社最上階のオフィスへと向かう。
オフィスでの蓮は、誰もが羨む「次期総帥」の顔を演じ切る。
戦略部門のエースとして、会議では的確な指示を出し、
難解な資料には鋭い修正を加える。
しかし、それは全て、最小限の労力で行われる。
(この程度の仕事、わざわざ頭を使うまでもない)
パソコンの画面には、複雑な財務データが並んでいるが、
彼の視線は常に斜め上、あるいは窓の外。
手元の資料をめくる指先は優雅だが、
その実、昨夜のバーでの出来事を思い出しているか、
夜の予定を組んでいるだけだ。
社員たちは、蓮のその「余裕」を「天才的才能」だと解釈する。
わずか数分の集中で、彼らは一日中悩む問題を解決してしまうのだから。
だが、蓮自身は知っている。
自分がしているのは、
父に与えられた課題を効率よく「片付けている」だけだと。
午後の長い会議も、彼は心の中では完全にシャットアウトしている。
瞳の奥は、常に退屈と虚無感に満ちていた。
仕事は遊びであり、遊びは仕事の延長線上にあった。
彼の人生に、熱狂も、真剣な努力も存在しない。
そして夜。
日が沈み、東京の街にネオンが輝き始めると、蓮の日常は一転する。
高級車から降り立ち、
向かう先は会員制のバーや、六本木のペントハウス。
そこには、彼の存在を求めて集まる無数の女性たちがいる。
モデル、女優の卵、駆け出しのデザイナー。
彼女たちは蓮の富と地位、
そして彼の完璧なルックスに魅了され、
その一挙手一投足に熱狂する。
バーの薄暗い照明のなか、
蓮はソファに深く沈み込み、グラスを傾ける。
彼の周囲は、いつも美しい女性たちで埋め尽くされている。
彼女たちは蓮の横顔を崇拝するように見つめ、
彼の軽妙なジョークに嬌声をあげる。
蓮はその夜の主役だ。
彼女たちの笑顔も、囁きも、全てが彼のためだけに存在する。
だが、彼はその女性たちの瞳の奥に、
自分自身の顔を見ている。
虚ろで、満足していない顔だ。
(また、勝っただけか。そして、また一人、俺に魅了されたふりをする女が増えただけか)
勝利の味が薄い。
成功が、あまりにも空虚だ。
彼が本当に望むのは、彼自身を見てくれる誰かだった。
地位や金ではなく、
彼が本気で何かを成し遂げる姿を、
純粋に応援してくれる誰か。
しかし、この「御曹司」という檻のなかでは、
そんな出会いはあり得ないことを知っている。
高級車に乗り込み、彼の日常を彩る次の場所へ向かう道中。
蓮はふと、窓ガラスに映る自分の顔を見た。
笑っている。
自信に満ちている。
だが、その瞳の奥には、まるで深海の底のような深い静寂があった。
彼は自分の虚ろな眼差しを認識している。
それが、この完璧な生活における唯一の「欠陥」だった。
彼の人生には、これまで「本気」がなかった。
父に与えられた課題を完璧にこなし、周囲の期待に応える。
それは彼の義務であり、遊びだった。
失敗する怖さも、誰かに心底から嫉妬するような熱さも、全てを知らない。
なぜなら、彼には常に巨大な「星野グループ」という
チートコードが背後にあったからだ。
「どうせ、何をやっても『御曹司だから』で片付けられる」
どれほど努力しても、どれほど知恵を絞っても、
結果は常にこの言葉に集約される。
彼の才能は、家柄という巨大な影に吸い込まれ、
彼自身のものとして輝くことはなかった。
そんな諦念と虚無感が、彼の内側を静かに蝕んでいた。
全てが手の内にある人生は、
完璧であるほどに退屈で仕方なかった。
蓮は、今日の予定表に載せられた、
新たなM&A案件の資料に目を落とす。
彼の人生は、また一つの「ゲーム」が始まることを、静かに待っていた。
そして彼は、そのゲームに、何の期待も抱いていなかった。
その頃、蓮が今いる豪華な夜の空間から、
ほんの数駅離れた場所。
新しい大きなビルの一室で、
桜庭優里もまた、
自分の人生を完璧に制御しようとしていた。
彼女が社長を務めるスタートアップ企業は、
急速に業界の注目を集めている。
優里は、二十代にして既に「次代の経営者」として名を馳せていた。
オフィスに差し込む深夜の蛍光灯の下、
優里は一人、キーボードを叩き続けている。
彼女の眼差しは鋭く、データやロジックに一切の妥協を許さない。
彼女の周りには、蓮の周囲に群がるような華やかさはない。
あるのは、真剣な努力と、知的な光だけ。
彼女は、誰よりも真面目で、
誰よりも強くあろうと努めていた。
優里の成功は、その並外れた能力と、
一切の感情を排した「冷徹な効率性」によって成り立っていた。
彼女の仕事ぶりは完璧で、社員たちからの信頼は厚い。
だが、優里がふと顔を上げた瞬間。
誰もいないオフィスの一角で、
彼女の表情から僅かに力が抜けた。
その瞳の奥には、蓮と同じような深い孤独が宿っていた。
彼女もまた、自分の人生のどこかに「欠落」があることを知っていた。
若くして背負った責任、誰も頼れないという重圧、
そして過去に負った心の傷。
それらは、彼女を「完璧な社長」という鎧の中に閉じ込めていた。
優里はそっと自分の胸に手を当て、
その感情に見て見ぬふりをする。
そしてすぐに、冷徹な社長の顔に戻っていった。
夜遊びを終えた蓮は、明け方の東京の街を愛車で走っていた。
車窓には、朝日を浴び始めた雑居ビル群が映る。
蓮の「虚像の完璧さ」と、優里の「真実の完璧さ」。
二人の人生が、歪んだ運命によって、
今、交差しようとしていた。




