第38話 助けを呼ぶ声は届かない
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――神聖ギブリール王国の東に広がる辺境区域”ジャハール大砂漠”。
赤い砂丘が何処までも続くその砂漠地帯は”血の海”とも呼ばれ、灼熱の気温と乾燥した大地にこれまで多くの旅人や冒険者たちが挑戦し、命を枯らしていった危険な場所だった。
しかし、そんな灼熱の砂漠地帯も夜になれば気温が下がり、肌寒い風が辺りに吹いてゆく。
ジャハール大砂漠の主要都市であるパサートの街は、暑さの落ち着く夜が一番栄える時間帯だった。
今日も済んだ夜空に昇る丸い月の下、街中に何処までも続く商店街”夜市”が賑わいを見せている。
街郊外へ目を向けると、そこには岩を削られてできた巨大な神殿がそびえ、奥には岩造りの堅牢な城塞が築かれていた。
高くそびえた城の最上階に位置する大部屋――
そこは、この街の最有力者しか入れないという”禁断の部屋”であり、この街を仕切るクライスライヴ教団教主、クライスト・コルドバンの”お楽しみ部屋”でもあった。
ゴポポッ……ゴボッ……
部屋の中に響くのは、水音。
広い居間には豪奢な家具やテーブル、床には赤い絨毯が引かれ、天井には煌びやかなシャンデリアが明るい光を放っている。
そしてシャンデリアの真下に置かれていたのは、金魚鉢のような形をした、巨大なガラスの水槽。
並々と水が注がれた水槽の中に入っていたのは――白い水着を着た、一人の女性だった。
しかも奇妙なことに、彼女は水槽の中を悠々と泳いでいる訳では無く、苦しい表情で必死にガラスの水槽を手で叩き、助けを求めていた。
女性は溺れていたのだ。
しかも彼女の足には鉄球の付いた枷が付けられ、浮上してこれないように細工されていた。
女性は息ができず、もがきながら必死に助けを求めるが、外に居る者は誰一人として動かず、ただ眺めるだけ。
「……死の恐怖を前に、苦しみながらも懸命に生に縋ろうともがく女性は、なんと美しいのでしょう」
――部屋の中央、水槽の前に置かれた皮のソファーの上でくつろぐ一人の男が、優しい声で呟くようにそう言った。
「生への渇望、死への抗い。それは人間を人間たらしめる純粋な行為であり、無垢であり美しい。……だが同時に、痛ましくもあります」
溺れる女性の姿を鑑賞し悦に浸るその男は、白地に金の刺繍が施された豪華な修道着をまとい、脚を組み、手にグラスワインを抱えていた。
ゴボゴボッ………コポッ……
やがて、水槽に入れられた女性は力尽きてしまったのか、だたりと腕を垂らし、水槽の中で動かなくなってしまう。
鑑賞していた男は、ワイングラスをテーブルに置き、パチンと指を鳴らした。
すると、ガラスの水槽の周りに居た男たちが水槽を力尽くで押し上げ、その場にひっくり返す。
ザバァッ!
本来、このパサートの街で水は貴重品であり、無駄にすることは許されない大切な飲み水だった。
しかし、大切にされているはずの水が、部屋中の床へ盛大にぶちまけられる。
「うっ……ごほっ! ごほっ!………」
流れ出る水と共に水槽から転がり出た女性は、どうにか息を吹き返し、水を吐いて咳き込む。
ソファに座っていた男は立ち上がると、ずぶ濡れな彼女へ近付き、顎に手を添えくいと持ち上げながら、視線を合わせて言った。
「だが何故です? 何故、そこまでして苦痛に縋ろうとするのですか? 『我が国の最高指導者である女神を崇拝する』と、ただ一言証言さえすれば、すぐにでもその苦痛から解放して差し上げるものを……」
男は、優しい声で甘く誘惑するようにそう言った。
しかし女性は、咳き込みながら言葉を返す。
「こほっ、こほっ……あ、あなたからいくら言われようと……私はそんな勧誘に乗るつもりはありませんっ!」
「………ちっ、強情な女め」
女性の返答に対し、男はそれまでの優しい口調から一変して舌打ちし、顔をしかめてそう吐き捨てたが、すぐに穏やかな顔に戻って言う。
「しかし、いずれお前にも分かるようになるでしょう。我が国の女神がいかに全知全能であるかということを」
そこまで言ったところで、唐突に部屋の扉がノックされた。
「何だ?」
「Sクラス冒険者が一人、奴隷用の獣人を複数連れて砦前に来ています。名はマスダンク・クロフォード。主教様と面会したいと申していますが」
「ああ、彼か。お通ししなさい。我々の大切なお客様だ」
「はっ!」
扉向こうで足音が遠退いてゆく。
「さて、私は客人を出迎えなくてはなりません。戻るまでに部屋を綺麗にしておきなさい。……お前は私の最愛の奴隷です。我が教へ入信し、このクライスト・コルドバンに身も心も捧げると言うのなら、女神マセラティス様に誓って必ず、お前を救いの道へと導いてあげましょう」
「……な、何度誘ったところで答えは変わりません。私は入信なんてしません!」
主教クライストの勧誘に対し、女性は頑なに首を横に振り続ける。
ずぶ濡れになって座り込む彼女は、格好が水着ということもあり、マーメイドのように妖艶な魅力を放っていた。クライストはそのむっちりとした太ももや胸元の谷間を食い入るように眺め、高ぶる欲情を押さえ込むようにゴクリと唾を飲み込む。
「……ふふ、その豊満でそそられる体……いつか必ず、私のものにしてやりますよ」
そう小声でそう呟きながら、クライストはお付きの部下たちと共に部屋を出た。
ガチャリと扉に掛けられる錠の音。格子のはめられた窓から入り込む月明かりが、部屋に格子状の影を落とす。
(……あれからもう一ヶ月、こんなはしたない格好で拷問紛いの勧誘を受け続けて……一体いつまで、こんなことを続けないといけないのかしら?)
囚われの姫は陰鬱な表情の顔を上げ、光を失った目で虚空を見つめる。
(ああ、琴音や渚は今頃何をしているのかしら……武之さんも、無事なのかしら……)
「……神様、お願いです。もう一度みんなと合わせて――」
誰も居ない部屋の中で手を組んだ囚われの姫――神凪美雪は、静かに祈り続けていた。




