第44話 カタルシス
麻緋の胸に広がった痣が、雫が落ちるように地へと流れていく。
地に移ったその痣は生きているように蠢き、地を這う。
痣は麻緋の体を中心に、新たな紋様を描き始めた。
「それが『共感』って言うんだよ」
麻緋の体から痣が離れると、麻緋が目を開ける。
「白間……」
無表情ながらも蒼夜の不愉快な感情が伝わってくる。
だが、それは僕も同じだ。
無表情で、淡々とした口調で僕は言う。
「お前……僕が立ち上がる事が出来たのは、僕と麻緋の力だけだと思っているのか?」
僕は、目線をゆっくりと蒼夜の足元に向ける。
「 お前が仕掛けたなら、気づくべきだったはずだ。僕がお前と普通に話していた事を……な。僕は苦痛を我慢していた訳じゃない。共感ってな……二つに限らないんだよ。そしてそれは数を増していく」
僕の目線を追う蒼夜の表情が険しくなった。
「……塔夜……お前」
「兄……俺が兄にとって邪魔になるって言うなら」
地に伏せていた塔夜は、ゴロリと転がり仰向けになる。
「もう遠慮はしねえよ」
そう言って塔夜は、仰向けになった体勢で両手で地を叩いた。
「っ……!」
地に広がった紋様が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、蒼夜の足に絡み付く。逃れようと動けば動く程、体に纏わり付き、足を縺れさせる。地に引っ張られるように、蒼夜は仰向けに倒れた。
反対に塔夜は起き上がり、片膝を付くと、蒼夜を覗き込むように見つめた。
「……ごめんな。兄」
「塔……夜っ……!」
「俺は……」
塔夜は、自分の左目にそっと手を触れた。
塔夜の仕草に、蒼夜が口にした言葉が思い浮かぶ。
『だって治る訳がないでしょ。失ったものが元通りになる事なんかね。例え元に戻ったとしてもさ……』
『元が壊れていたんじゃ、戻ったって不都合なだけだろ? 元通りに治してくれなんて、誰が言う?』
「俺は戻りたいと思っていた。元通りにってな……」
「そうだよな……お前は僕のように元が壊れていない。ねえ……白間。僕がお前の父親に言ったって事……もう一度言ってくれないかな」
「……言ってどうなる」
「……なんだ。気づいたのか」
「ああ」
蒼夜は、ふうっと息をつくと天を仰ぎながら、自身で言ったその言葉を口にした。
「『視力が落ちていくと同時に、右目とは違うものが見える。暗い闇の中に広がる、紋様のような光が』……か。前髪で左目を隠していたんだけどね、見れば直ぐに分かる事だろ。元々、左目がないって事は。だからこの左目に、視力なんて初めからないんだよ。ただ、ないものをあるようにってね……有耶無耶にも出来る神の力だって……そんなもんだろ……」
「兄……」
悲痛な表情の塔夜に、蒼夜は即座に答える。
「勘違いするなよ、塔夜。お前を羨んだ事なんか一度だってない。勿論……恨んだ事はあってもね? それは今も……だ」
「今は尚更だろ、兄」
蜘蛛の巣に絡め取られ、身動きを封じられた蒼夜だが、ゆっくりとも顔を麻緋へと向ける。
蒼夜の目線は感じているだろう、だが麻緋は目を開けながらも蒼夜へと目を向ける事はなかった。
蒼夜は深く息をつくと、再び口を開く。
「天帝……中心というだけあって周りを囲むものが力を維持させる。供犠なんてなくてもね……変わる事のないその位置が、当たり前であってそれが自然……か」
呟くように言った蒼夜のその声は、僅かにも震えていた。
「ねえ……塔夜。お前は知っていたんだろう? 生まれつき名代……だけど僕には何も見えなかった。大きな期待が不審に変わる……不審感が大きくなる前に僕の左目に光が見えたんだ……はは。そうだよ。それこそ紋様のように描かれた光だよ。お前が僕に見せていたんだと気づいたのは、周囲が僕の力を疑う事がなくなってからだ。片目が条件の名代に、意味なんかないと心底思ったよ。だから……馬鹿だと思った。名代に仕立て上げられ、持っているものを失う事が誇りになる、なんて事がね……馬鹿馬鹿しくて笑えたよ」
蒼夜に絡みついた蜘蛛の巣のような紋様が、蒼夜の胸元に刻まれていく。
足掻きもしない事に多少の疑念はあったが、麻緋の胸に浮かんだ痣が蒼夜に移った事で力が抑えられているのだろう。
天を仰ぎながら、蒼夜は話を続ける。
「初めから持っているものを捨てる気持ちなんか分かりたくもないけど……それを捨てさせるのが人の手によって、だなんて、尚更に理解出来ないよ。神の力を乞う為に人が人から奪い、捧げる……藤堂 麻緋……聞いているんだろ。答えもしないのは呆れているからか? それもそうだよね……」
蒼夜は苦笑すると、一人言葉を続けた。
「『自分の呪力以外のものを呪力として使う……外部からの呪力を術者が利用し、それを自身の力として術を使い、術の成功を絶対的なものにする。足りない呪力を他のもので補おうとするこの呪術は、三流がよく使う手』……だったかな?」
顔のない本体が、フードで顔を隠す理由……。
天を見つめながら呟いた蒼夜の言葉に、塔夜は悲しげに目を閉じた。
「まったく……その通りだよ」