第38話 黙示
「そういう役目……って……兄……それは勘違いだ」
……九重。
体勢は変えはしないが、口を閉ざす事のない九重に意志の強さを感じる。
志極まりて……か。
だが……。
彼にとってこの状況は戯れに過ぎない。
僕たちなど相手にもならないと、彼が醸し出す雰囲気が伝えている。
彼が九重へと肩越しにも目線を落とす中、僕は麻緋をちらりと見た。
……麻緋……。
麻緋は目を閉じたままだ。
九重を見守っているだけではない様子を感じる。
……妙に静かだ。
麻緋の様子も気にはなるが、彼の動きに目は離せない。
「なにが勘違いだっていうの。僕はね……塔夜。母さんが……泣きながら謝る声が子守唄だったんだ。子守唄ってさ……宥める為のものなのかな。この姿で生まれた僕が、恨みを募らせるのを恐れていたのかな。そんな憐れみ程、恨みを募らせるというのにね……ああ、でも。初めは分からなかったんだよね。なんでって疑問はあったけど、そんなものなんだと思っていた。気づいたのは塔夜……お前が生まれてからだよ」
「兄……そうじゃない……兄の言っている事は全部……」
「違うって? そうかな? だって子守唄がどういうものかって知ったのは、塔夜が生まれてからだよ? ああ、そうか。そうだね。違うって……塔夜」
「兄っ……!!」
彼の……笑みが……。
止まった。
ぞっとさせる程の冷ややかな表情に思わず息を飲む。
「お前とは全くの逆だったんだからな」
ピッと風が刃を立て、頬を掠めた。
「っ……!」
頬から血が流れる。
更に……ひっくり返されたか。
いや……ここまでの状況は揃えていた、か。
切り刻まれるような空気感を抑えようと腕を上げた瞬間、袖が切り裂かれた。
「動かない方がいいよ。白間 来……お前が紋様を手にしたからって、僕に敵うと思わない方がいい。お前も知っているように、僕の左目は現実に見えているものとは違うものが見える。傾覆しようとも、それが一時凌ぎにしかならない事くらい気づいているだろう?」
「ああ……そうだな」
僕はそっと腕を下ろし、彼を真っ直ぐに見る。
「僕たちが紋様を操れるように、あんたも操れる。どう操ればいいか……あんたの左目にはそれが見えている。どんなに僕が阻止しようとも、再び覆す事が出来るだろう」
「だけど……それだけじゃないよ?」
「分かってるさ……」
そう呟きながら、僕は溜息を漏らす。
「あんたの名前、思い出したよ。九重 蒼夜……その名前……随分と意味が込められているな」
「ああ。お陰で半分って訳だけどね」
「そうじゃなければ、あんた自身、その身を保つ事も出来なかっただろう。感謝するべきだ」
「あはは。冗談でしょ」
「冗談なんかじゃねえよ」
小さくも笑みを漏らす僕に、彼は眉を顰めた。
僕の目線は、既に彼ではなく、麻緋に向いている。
僕の目線を急いで追う彼に僕は言う。
「遅い」
目を閉じたままだった麻緋。
だが、声は出さずとも小さく口が動いていた。
九重が口を開き続けていたのも、彼の気をこっちに向けさせる為でもあっただろう。
麻緋の様子に気づいた時、渾沌の言葉が邪魔するように頭の中を掠めていたが。
『その紋様は……染まらなければならないものに染まる……それは貴方が重々お分かりのはずでしょう……!』
その是非を問えるものはここにはない。
『貴方は、その度に封印を解いていく……解かざるを得ない状況に追い込まれていると……お気づきになられているのでは?』
あるべきところは決まっている。
『全ての封印を解いた時……その格式も本当に跡を無くす事でしょうね……?』
僕は麻緋を信じている。
『その意味がお前の思っている事に合っているかどうか、頭を冷やして考えろ』
渾沌が言ったようにはならない。
もしもそうなってしまうとしたら、僕が止める。
「あんた……僕しか見えてなかっただろ。なんで渾沌を南に封じたか……あんたの死角を作る為だよ」
九重のいる中心に降り立った彼は、渾沌の祭祀者と言えるだろう。ならば南にその身は向く。
元とはいえ、社殿のあった場所に封じるとは……この為だったか。
気づくのが遅いと麻緋に言われそうだが……。まあ、間に合っただろ。
眼球のない左目に現実は見えない。麻緋と同時に彼へと近づいた僕だったが、それも足音を一つにする為だ。
例え左から音を捉えても、集中すべきは右目に見えている僕だ。
同時に近づいているとはいえ、死角に立つ麻緋は彼には見えない。
そして、麻緋は彼が現れてから一言も声を発していない。
左目に見えているものがこの状況であったなら気づいただろうが、それを彼が見るには条件を揃えなければならない。
麻緋の声がはっきりと流れ始めた。
「惜誦して以て憂愁を形に表し、発憤して以て思いを述べる。作すところ忠にして言う。蒼天を指して以て正と為さん……」
麻緋がゆっくりと目を開ける。
「五帝に命じて以て正を示させ、六神を戒め審問に加わらせる……そして、その正邪は」
藤堂家が担っているもの……それは。
「俺が決める」
天の裁量だ。