第24話 下弦死覇
「乾為天上爻 亢龍有悔」
ドオンッと大きな音を立て、龍蛇が地に落ちた。
面が割れ、露わになる渾沌の顔を僕はじっと見る。
両目のない、その顔を。
……何かがおかしい。
妙な違和感に、僕は警戒する。
身動きをピタリと止めた渾沌は、微動だにしない。
顔を見せていた月が雲に隠れ、次第に視界が暗くなっていく。
ビュウッと吹き抜けた強風で舞った土埃を遮ろうと、咄嗟に顔を覆った。
……しまった。
顔を腕で覆った瞬間に、ぐらりと目眩を起こすような鈍い感覚が体を襲う。
うっすらとも月の光が僅かにも照らし始める頃、僕は方向感覚を失っていた。
目の前にいたはずの渾沌の姿が捉えられない。
ぐるりと辺りを見回したが、それが返って状況を悪化させた。
建物はおろか、薙ぎ倒された木々も粉々に散り、目印となるものが何一つない。
平坦な地に飲み込まれてしまった……。
何処に目を向けても変化のない、だだっ広い土地が目に映るだけだ。
暗闇に目が慣れているとはいえ、月が顔を出しては顔を隠し、その光の有無が、うっすらと見えた風景も次の瞬間には消えてしまったかのように視界を奪う。
だが……この何もない地で何処に隠れたという……?
辺りを見回せば見回す程に、自分が今、どの辺りにいるのかと混乱する。僕は、しっかりしろと自分に喝を入れた。
それでもぼんやりとする頭に、焦りが混ざる。
焦れば焦る程に、目に捉えるべきものを見失っていく。
ギャアギャアと獣の不気味に響く鳴き声が耳元で響き、思考を麻痺させるようだ。
奴の幻術なのか、あちこちに火の玉のように燃え上がる炎が浮かんでは消える。
それをつい、目で追ってしまう僕は、孤立感に術を失う。
……渾沌。
あいつの様子は明らかに以前とは違っていた。
饒舌な程に回る口も動かす事はなく、一つも言葉を発しなかった。
奴が手に入れたという力は、確かに一つや二つじゃない。
あの龍蛇も、その中の一つにしか過ぎないという事だ。
……確かに。
龍蛇を落としても、奴の顔には両目がないままだった。
それこそが、奴が龍蛇以外の力をまだ持っているという証だ。
一つの事に気を取られ過ぎた。
「……クソッ……ミスっちまったか」
さっきの違和感は……それだ。
一体を倒したところで奴にはまだ……他にも打つ手がある。
多くの犠牲を奴は生んだのだから……。
焦る心を落ち着かせようと、僕は大きく息を吸う。
当たり前だと思っているものに疑問など持つ事はない。
疑問を持たない事は、追い求める事もせず、そこにただ馴染んでいく。
渾沌の染めたこの地の闇。
その色に……染まっていってしまう。染められてしまう。
このままでは……。
……東。
ふっと浮かんだ言葉に。
『来!』
麻緋の声が聞こえた気がした。
僕は、ハッとして振り向く。
……そうだ。
『向こうが東だ、来。常に方向を示し続ける。見失ったらあれを見ろ』
「は……はは。麻緋の奴……あれを見ろって……そういう事かよ」
正邪の紋様を生まれながらに持つ天才。
麻緋は……。
「よう、来。俺を見てホッとした顔してんじゃねえよ。そんなに自分の力が信じられなかったか?」
ははっと揶揄うようにも笑う麻緋に、僕は呆れたようにも苦笑する。
幾重にも張り巡らされた網が天空に広がっている。
その網には、鬼獣が絡め取られていた。
何体もの……鬼獣がだ。
赤い尾を持った虎、三つの頭を持った鳥、九つの尾の狐、亀の身に鳥の頭、蛇の尾を持ち翼の生えた魚……全ての鬼獣は、当然と見慣れてきたものの姿がチグハグに繋がれ明らかに奇怪だ。
そして……なによりも奇怪なのは、人の貌を持ってはいるが、両目も……口もない渾沌だ。
言葉を発さなかったのは……これか。
麻緋が渾沌に言った言葉が、ここに示されているようだ。
『お前を掴もうとする度に、お前は何かを捨てていく。いや……元に戻っていく、といった方が正しいか。人とは掛け離れた存在に……な』
また一つ……捨てたという事か。
網から逃れようと踠く奴らだが、力を吐き出そうとする度に網が強く縛りつけて押さえ込み、吐き出せない。
その周りを緩やかに、目を光らせながら麻緋の影蛇が回っていた。
龍蛇にバラバラに引き裂かれた影蛇だが……消滅した訳じゃなかったのか。
陽が沈むと月が顔を出す。それは当たり前と言える事ではあるが、だからといって、西に沈んだ陽が月に変わった訳じゃない。
陽が沈むと陽と同じように月が東に顔を出し始め、同じように西に沈む。そしてその位置は周期的に東にズレていく。
昇るも沈むも東から西だが、見える月の姿によって、月の位置の時間が……変わる。
今は真夜中だ。
真夜中に浮かぶ月は今、東にある。
東半分が光る……下弦の月だ。
ああ……そうか、あの式盤……。
「渾沌……お前にとって俺たちが鬼であるならば、祭祀で祓う事は出来ない。何故なら」
麻緋の手が、張り巡らされた網を掴み取るように天空に向く。
カッと光が弾ける中、麻緋の声がはっきりと響いた。
「偽の神にそんな力はねえんだよ」