第9話 顔のない面
僕が全てを失う前に、既に失っている者がいた。
同じような境遇だ。
目の前で息を引き取っていくのを、何も出来ずに看取る事に、どれ程の悔しさと悲しみを抱いた事か。
闇に落とされ、全てが見えなくなる程に……全てに目を背けたくなる程に。
苦しみと悲しみを吐き出す九重の声が、闇夜を誘うようにも響く。
刻々と陽が落ちていく空の色に同調していく。
黒に……染まる。染まっていく。
正しいとは言えない……闇の色だ。
ああ……同じだ。
自分の無力さと後悔は、吐き出す声が大きくなればなる程に自身に響かせ、返ってくる。
それが更に深い闇を作っていくんだ。
その闇に抗うにも、襲いくる孤独感が諦めを促し、降伏させる。
だけど……九重と僕との明らかな違いは。
その時に現れた者によって変わるんだと……思った。
『一度……儀を交わした名代に力は望めません。ですので……その儀の継続は停滞を示すというもの……それでは先には進めません』
……渾沌。
座敷に潜んでいたのか……。
『なんだ……お前……? それ……血……親父の……』
九重の様子からして、渾沌と会うのはこの時が初めてのようだ。
僕と九重との明らかな違い……。
苦しみと悲しみが渦巻く絶望の中、現れた者がどう手を差し伸べてきたかが明暗を分けた。
ああ……この明暗は。
光を闇で閉ざすのと、闇の中に光がある事の違いだ。
もう何も見たくないと閉じた目に光はなかった。
だけど……再び開いた目には光があったんだ。
それがその時、目に捉える事の出来ない光であっても……明るいと、目で捉えられるものだけが光とは限らない。
僕にとっての光は……。
渾沌の纏う白いフード付きのコートは血に染まり、次第に黒ずんでいく。
そっとフードを下ろして見せる顔は、面で隠していた。それは、顔のない面だった。
今の渾沌と……逆になっている。
顔を隠す、顔のない面から、顔がない事を、顔があるように幻影で隠す……。
『……お前……舞人……? いや……舞人など……その面……何処で……なんで……お前がそれを持っている?』
九重が疑問を口にしながらも問う事に、僕は眉を顰めた。
舞人はもう……? その面……?
『ああ……貴方……』
笑みが混ざった声に、僕が訝しげに思った事が、渾沌にとっての目的にもなっていた事に気づく。
混乱しているのだろう、凍りついたような九重の目は、渾沌を見て離れない。
血に濡れた渾沌の手が、九重の頬へとゆっくりと伸びた。
九重には……。
そう思ってしまう度に胸が苦しくなる。九重にとってはもう『今更』であるのだろうが。
だからこそ、僕にこの真実を見せるのだろう。
成介さんと初めて会った時の僕と、渾沌に初めて会った時の九重が同時に浮かび上がる。
僕に伝えた彼らの声が耳に聞こえてくるようだ。今もはっきりと伝えられているように。
「僕たちと共に闘ってくれませんか」
「俺にも頼れ」
成介さん……麻緋。
九重の頬に血が移る。まるで染め上げるようにも触れる渾沌の手が、見定めるように触れ続ける。
『……悪くないですね』
そう呟いて、クスリと漏らす笑み。
白羽の矢が……九重に立った。
『……お前……誰……なんで……こんな……』
『ああ……理解出来ませんか……? そうですね……ならばもう……始めてしまいましょうか』
『始める……? 何を……だ……』
状況を把握するものが一気に流れ込んでくる事に、混乱は避けられない。
理解する程に情報の処理速度は速く、それが動作を鈍くする。
危険を察知していても避けられない。
もっと深く深くと、真実を掴みたくなる。
それは、より多くの情報を相手に求めるからだ。
九重の顔に触れ続ける渾沌の指が、左目に沈む。
『あ……あ……』
『大丈夫……心配はいりません。貴方もお父上と同じではないですか……』
九重の目は……渾沌が潰したのか。
止めるにしても既往だ。
過去は変えられない。
掴む事など出来ないと分かっていても、僕の手は阻止しようと踠くように動いてしまう。
……幻影。
それでもこれは……嘘偽りのない幻影だ。
渾沌は、九重の目から流れる血をそっと拭うと、顔のない面を外した。
露わになる顔は、感情を溢れさせる。
口元には笑みを浮かばせ、目は冷ややかにも状況を捉えている。
九重 塔夜……彼の力を見定めるようにだ。
『お前……』
九重は、面を外した渾沌の手をグッと掴んだ。
『この面を……返せ』
『ええ……お返ししましょう……』
渾沌は、掴まれていないもう片方の手に面を持ち変える。
『但し……貴方が役割を担って頂けるのであれば……ですが』
楽しみを待ち構えているようにクスリと笑みを漏らす渾沌は、面を九重の顔へ被せた。
九重が何を感じたのか、或いは何が見えたのか。
恐怖さえ感じさせる叫びが僕の耳を貫くようだ。
周囲の音、全てを掻き消してしまう程の叫びの中でも、渾沌の静かにゆっくりと流れる声がはっきりと耳に届く。
『ねえ……? 『名代』』