第8話 苦境の選択
九重は座敷を出ると、境内へと歩を進めて行った。
参拝客が多い。随分と親しまれているようだ。
九重はちらりとその様子を横目で見ると、特に気にする様子もなく、更に歩を進めて行った。
拝殿へ向かう参拝道を逆に行く。
何処に向かうのだろう。父親の話を聞きながらも、何やらずっと考えているようだったが……。思うところがあるという事か。
……あ……。
九重は気づいていたのだろうか。不穏の原因がなんであるかという事を。
だからこそ、覚悟を決めるのが早かったのだろうか。
いや……それより以前に既に決まっていた覚悟であったのか。
互いがその姿を視界に入れる事はなかったが……。
他の参拝客とは明らかに異質な、顔を隠すように深くフードを被った男。
九重は、大勢の参拝客を間に、渾沌と擦れ違っていた。
この時、二人はどの程度の繋がりであったのだろうか。この時に繋がりはあったのだろうか。
少なくとも渾沌の方は、九重を知っていた。知っていたからこそ、目的を持ってここに来たんだ。
九重が何処に向かったのか、それはこの時点で知る事は出来ず、間が抜けていた。
そしてその後、陽が落ちた頃に戻って来た九重は、惨状を目にする事となった。
『……親……父……』
何者かと争った様子だった。酷い荒らされようの座敷で、九重の父親は血まみれで倒れていた。
誰が、という事は直ぐに察した。
初めから渾沌は、九重を狙っていた。この神社の者を狙っていたんだ。
神の代わりともされる名代。
その命は……人の手によって奪われる。
人の命を奪う事で、自身の力を得る……それが渾沌のやり方だ。
『親父っ……! 何があった? おいっ……! しっかりしてくれ……!』
『塔……夜』
片目をうっすらと開け、九重の腕をそっと掴む。
……この光景は……。
父の最期と重なり、胸に痛みが走った。
『万象の伯は……名代を通じて……平穏を……人の世に……不穏は常……だからこそ……私のような存在がある……』
『分かった……分かったから……もう喋らなくていい……医者を呼ぶから』
『医者……か。そうだな……西に……白間という医者がいる……」
……父を知っていたのは、九重の父親だったんだ。
『分かった。今すぐそこに連れて行く。親父……それまで……』
抱き抱えようとする九重の腕を拒むように手を動かすと、父親は首を横に振った。
『親父……? なんだよ……なんでだよ……!』
出血の量からしても……これでは近くに医者がいたとしても処置が間に合わない。
この状態で話せる事が奇跡だ。
それを九重の父親は分かっている。
『塔夜……己が口にした言葉をもう忘れたのか……? 私にしても同じ思いだ。理解して貰わなければ困る……私から言えば、お前が自身の体以上に失うものがあったとしても……だろう?』
『……っ!!』
『それが……覚悟ではないのか。ならば……僅かでも揺らぐ事なく覚悟しろ、塔夜』
痛みや苦しさを押し潰し、ふっと見せる笑みに強さを感じる。
『……親父……俺は……』
『白間に……伝えてくれ……東南の地が……傾いたと……』
っ……!!
東南の地が……傾いた……。
その言葉にぞくっと背筋に悪寒が走る。
九重が……東南。
そうか……だから……。
天の斡維は何処に繋がれ、両極は何処に置かれ、八つの柱は何処に当たるのか。だが、東南の柱だけは抜けている。『九重の天』の境界は何処に至り、何処まで続くという……。
『この地が傾いたという事は……西北は既に欺かれている』
『西北が欺かれているって……西北って収監所の事か? じゃあ、それってまさか……』
『秋明の身に……何かあったという事だ。おそらく……家族もな……』
無実の罪を被せられ、収監されたのはこの時……。
『……確かに……麻緋の家に行ってみたが、人の気配がなかった。呼んでも返事がない。まさか……麻緋も……』
……麻緋の家に行っていたのか。
麻緋を心配していたんだな……。
それなのに……あんな裏切り……意に反していようとも、そうせざるを得なかった心情は、複雑に入り組んでいる。
『正邪の紋様を持った当主には……及びはしないだろう。欺けるはずがない。生まれ持っての力なら尚更、奪う事など出来はしない。だが……長子の手が届かない内に事が起きたか……或いは回避を阻むような事が起きたか……阻まれているなら……白間に……白間なら……』
九重に触れる手が力を失い、だらりと落ちる。
『親父っ……!!』
僕は……僕たちは、失うという事にどれ程の苦しみと悲しみを与えられるのだろう。
そして、それ以上の苦しみを死を以って与えられ、その苦しみや悲しみの中で告げる言葉は。
遺された者に対して希望を託すんだ。
お前は生きろと背中を押すように。
『『志極まる有りて旁無し』これでは浮かばれないが……浮かばれないからこそ、留まれ……だからこそ……お前のような存在がある』