第4話 伯強の禍
水が引いていく。
僕は、じっと一点を見据えた。
水に沈んだ奴らの姿が捉えられる。
「光と闇が回転する円の重なりが幾重かあるという……それが九重……お前だ」
地にうつ伏せになっている渾沌の直ぐ脇に、九重が立っている。
渾沌の意識は戻っていないようだ。
九重 塔夜……こいつは……。
水に沈んでいたのに全く濡れていない。
渾沌の力を抑えているのも九重の力か。
やはり……こいつ。
全ての力を出していなかったか……。
だが、それ程の呪力を持っていたなら、禁忌など犯す必要はなかっただろうが。
禁忌呪術を使った所為で呪力を引き出せなくなったとしても、引き換えにする程のものが麻緋に対してのものだったなら。
……何処まで悪人擬を貫き通すつもりだ。
坎為水……信念が問われるとはいえ、それがお前の信念だとでもいうのかよ。
「やっぱり知っているじゃねえか、白間」
「やっぱり……?」
どういう意味だと眉を顰める僕に、九重は復唱するように口を開いた。
「天の斡維は何処に繋がれ、両極は何処に置かれ、八つの柱は何処に当たるのか。だが、東南の柱だけは抜けている。『九重の天』の境界は何処に至り、何処まで続くという……」
そう言いながら九重は、こっちを向いたまま左目を覆う髪を掻き上げた。
だが、目は閉じたままだ。
禁忌を犯した代償で失った視力。
九重はそれを麻緋の式を見る為だと言ったが……。
どうやらそれは、呪力の制限ともまた違ったようだ。
「……覚悟は決まったか? 塔夜」
「ああ……決まったよ、麻緋」
九重は、左目をゆっくりと開けた。
その様をじっと見つめる麻緋は、真顔で呟く。
「……なんだ。それを見せるって事は、疾うに決まっていたって事か」
「他に……譲る訳にはいかねえもんだろ」
「生死ギリギリの選択だ。アレとなんら変わりはねえ」
そう言って麻緋は、不機嫌に顔を歪めた。
……九重。
驚きはしなかった。
予想通りの事だったからだ。
「塔夜さん……」
悠緋は目を背けるように顔を覆った。
見ていられないのも分かる。
渾沌との繋がりも、これで理解出来た。
九重の左目……視力どころか、眼球自体がない。
僕が呪いを掛けたと言い掛かりをつけて見せた、左目を封じる蜘蛛の巣のような痣。
あれは九重が自分でやった事だ。
おそらくは、渾沌に真意を隠す為の策だっただろう。
だからこそ、その術の解除が僕でなくてはならなかった。
そもそも……。
僕は、九重をじっと見つめる。
九重の右目が僕を捉え、口元にうっすらと笑みを見せた。
僕に解かせる為の、僕が解く事が出来るか試す為だった。
僕は、九重へと歩を進める。僕の腕を掴んで離さない悠緋は、目を閉じたまま僕について来た。
麻緋の脇を擦り抜けると同時に、麻緋も九重へと歩を進めた。
「……名代か。塔夜」
麻緋の言葉に九重は、ふっと苦笑を漏らした。
……名代って……。
神の名代になるには、片目である事が条件だ。
だが、それは生まれつき片目であるとは限らない。
その場合、名代となる為に傷をつけてでも片目にする。
そしてこれは……。
『アレとなんら変わりはねえ』
麻緋の言う通りだ。
「人身供犠の……代わりだろ。それもまた……禁忌だ」
僕の言葉に、悠緋がハッと息を詰まらせた。
やはり……桜か。
悠緋の体の震えが伝わってくる。
「名代だって……片目だけで済む話じゃなかっただろ。麻緋の言った通り、ギリギリの選択だ」
僕は、悠緋を気にしながらも言葉を続けた。
「片目を無くし、一つ目となる……それは常人とは違うと見分ける為でもあり、神と同等であると示す為でもあるという事を聞いた事がある。渾沌にしても両目がないというのは、より神に近しい者との証明だ。つまりは尸……神意を計らうに犠牲を供えても、ただその力の下に跪くだけの禍い回避……良く言えば『加護』だ。それでも『中央』に近づくにはまだ遠い。だがそもそも、近づくのが目的じゃない。加護なんか受けたところでどうでもいい。それは目的に達する手段に過ぎないという事だろ……目指すは中央そのもの……」
僕の言葉の先を九重が続ける。
「ああ。中央を軸に九天の重なりが回転する時、網目が重なって隙間が出来る……その隙間が中央を奪う瞬間ともなる。それがこの目にあるんだよ」
隙間……か。
「そう言えば九重……お前、僕の父を知っていたな」
「ああ。知っているよ……この左目を診て貰っていたからな……」
「お前の目を……父が……?」
……知らなかった。一体いつ……。
「この目を封じる方法を知っていたのは、お前の父親だけだった。だが……白間……お前があの呪符を使った時、それは継承されているんじゃないかと思ったよ。その確信は」
「あの時の蜘蛛の巣の痣……解除も出来るなら封印も可能だと?」
「ああ。だから白間……お前には継いで貰わねえと困るんだよ……」
……そういう事か。
「だから……封じてくれよ。白間……センセ?」