第1話 険難
「来」
麻緋の呼び声に、僕は深く頷く。
拘束した渾沌を連れ、既に崩壊しているが、収監所があった場所に僕たちは来ていた。
だが……。
「なんでお前がここにいるんだよ?」
僕は、横目に九重を見ながら不満げに言った。
「なんだよ? ついて来るなって事なら、俺を見逃すという事か?」
「誰が見逃すかよ、立ち位置の問題だ。僕に並ぶな」
「あの……白間さん……塔夜さんは」
悠緋が九重を庇おうとする。
「言うなって言ってんだろ、悠緋」
「だけど……」
「まだ……言うな」
真剣な顔で静かに言う九重に、悠緋は口を噤んだ。
悠緋と九重が同じ考えを持って行動を共にしていたのは、途中で気づいた事だが……。
兄である麻緋よりも……九重を頼ったという事に複雑な心境を抱えてしまう。
そうせざるを得ない何かがあったというのも、桜の事や麻緋の呪力に干渉してしまう事だったろうが……。
……言うな、か。
皮肉な奴だが、案外、九重なりに筋は通しているのかもしれないな。
麻緋に対抗心を持っているのも、劣等感だけが理由ではないだろう。
そもそもこいつ……。
麻緋が受ける事になったあの呪いの威力は相当なものだった。
麻緋だから抑えられた……麻緋だから抑えられる。そう見通していたならば中々の策士だが、九重が僕たちの前に現れてからの奴の呪力は、あの呪いの威力には及ばない。
九重は全力を出していない……そう思えた。
もしくは、出せなくなったのか。
はっきりした事はまだ分からないが、こいつ……。
「なんだよ? 白間」
僕の目線が気に入らない九重は、不機嫌に顔を歪める。
「……いや」
「ふん……期待すんなよ。別に釈明なんかしねえし」
「だったら……」
「あ?」
僕は、瓦礫の山を見上げる麻緋へと目線を戻しながら九重に言った。
「実力で証明しろよ。お前、覇者なんだろ」
「白間……お前な……」
「禁忌呪術を使った理由は、そこにあるんじゃないのかよ?」
「知るかっ」
九重は苛立ちを交えた声をあげるが、おそらく図星だろう。前髪で隠した左目にそっと手を触れる仕草が、そう答えている。
「追い込まれる状態になければ……使わねえだろ。自分の一部を失うとなれば尚の事だ」
瓦礫の山を見つめながら、麻緋は呟くように九重にそう言った。
「……なあ……塔夜」
麻緋は、肩越しにゆっくりと九重を振り向く。
「お前……だったんだよな」
「何の話だ? 麻緋。ああ……再確認か。必要な事とは思えないが、まあいいだろう。前に言った通り、四方を潰して回ったのは俺だ」
「……そうか」
何を考えているのか‥…‥淡々とした静かな声だった。
……麻緋……?
不思議にも思えたが、そう深く考えはしなかった。
麻緋は、意識を失ったまま地に寝転がる渾沌へと目線を落とし、その場に屈む。
そして、渾沌を中心に円が描かれ始めた。
正邪の紋様だ。渾沌を見定めるようにぐるりと回る。
次第に円が広がり始めると、僕たちは円から押し出されるようにも後方に下がった。
だが、九重だけはその場を動く事なく、渾沌と共に円に飲み込まれていく。
「塔夜さん……」
九重を心配する悠緋だが、麻緋の力に干渉してしまう事を自覚している悠緋は、円に近づく事はせず、僕よりも円から下がった位置にいる。
祈るようにも手を組み合わせる悠緋は、ギュッと目を閉じた。
正邪の紋様が四色に色を変えながら光を弾けさせ、闇に溶け込むように消えていく。
……これは……。
紋様が消えた訳じゃない……染まった色は黒……だ。
麻緋と悠緋は目に捉えられるのに、渾沌と九重の姿が見えない。
だが……これは……。
『この世を白と黒で分けるならば、ここは黒です。正義を主張する気はありませんが、白が正しいとも限りません。勿論、黒が間違っているとも言いません。そもそも、白が正しくて、黒が間違っていると決められるものではないでしょう』
成介さんと渾沌が言っていた言葉が、葛藤するようにも反復する。
『その紋様は……染まらなければならないものに染まる……それは貴方が重々お分かりのはずでしょう』
染まらなければ……ならないもの……。
僕が息を飲むと同時に、悠緋が頭を抱えてしゃがみ込んだ。
バリッと鈍くも大きな音を響かせ、地面が大きく割れる。
地割れは全壊していた収監所へと向かい、大きな穴を空けると瓦礫を飲み込んでいく。
瓦礫が全て飲み込まれた後、しんと静まり返ったが、それは一瞬の事でその穴から大きく水が噴き上がった。
勢いよく噴き上がる水が風を作り、僕の服を揺らすと胸ポケットに仕舞っていた呪符がするりと抜ける。
目の前に揺らぐ呪符を、僕は手にした。
……やはり……。
「白間……さん……」
呪符が何を示したか気になるのだろうが、不安を膨らませている悠緋には、この現象を見ても気づくものはある事だろう。
「……水は流れて溢れてやまず……その信念が問われる事になるよ」
僕は、呪符を悠緋に見えるように向けて言葉を続けた。
「坎為水……だ」