第52話 一念通天
「では……準備が整ったところで、始めましょうか」
準備……? 始める……何を……。
僕は、成介さんの動きに目を見張る。
成介さんは、渾沌が吐き出した塊に手を向け、それ自体に触れる事なく動かしていく。
塊が弾けるように割れると、煙のように白い靄がゆらゆらと立ちのぼり始めた。
『成介は本物なんだ』
……麻緋が言っていた通りだ。
僕が描く呪符、字図符は呪力を簡略化したものであり、呪符がその全てを担う。
神の血を引く神子である、覡。
一つ一つ丁寧に動く指が、簡略化しない細やかさを感じさせる。
ものの動きは全てその指の動きに従い、思い描くものが現実に映し出されていく。
呪符は思い描く理想そのもの……。
成介さん自身から発せられる呪力は、まさに理想そのものだ。
……凄い。
麻緋の家で遠目にその力を見た時に、成介さんの力の大きさを実感したが……呪力を発する動きを間近で見るのは初めてだ。
何かを描きとるように動いた指。浮き上がった白い靄が姿を象った。
「……お兄様」
……桜だ。
白銀の長い髪の少女。その姿に神秘的なものを感じる。
成介さん同様、強い呪力の持ち主だったと聞いていたのもあったが、現れたその姿を見て真実味が更に増す。
歳の割に落ち着いた雰囲気は、穏やかながらも強さを感じさせた。
巫女……か。
桜を目にした悠緋は、咄嗟に麻緋の腕をグッと掴み、強張った表情を見せる。震える体が、何かを訴え掛けるようではあったが、声を発する事はなかった。罪悪感を抱えている悠緋には、声を出す事が出来ないのだろう。
『桜が人身供犠になったのは……僕の所為なんだ』
どういった経緯があったのかは、これから明らかになる事だろうが……。
麻緋は、悠緋を落ち着かせるように、ポンと軽く頭に手を乗せた。
そして、麻緋は成介さんに目線を向けると、互いに目を合わせ、頷き合う。
ああ……成介さんにも分かっているんだ。悠緋を信じてくれている。
罪を犯したと自分を責めていた僕に、成介さんはそれは違うと直ぐに否定して、僕が僕を信じられるようにする事はなかった。
何もかもを信じられなくなっていた僕に、それが真実だと告げても、あの時の僕には受け入れる事は出来なかっただろう。
行動を共にしていく内に、僕自身が僕自身の事に気づいていく。
それでよかったんだ。
僕自身が気づかない限り、誰に何を言われようとも受け入れられる、心の余裕などなかったのだから。
そして、信じていてくれた事が、僕にとって大きな力となったんだ。
「お兄様……」
申し訳なさそうにも俯く桜に、成介さんが近づく。
「桜……」
成介さんの宥めるような優しい声に、桜の目から涙が零れ落ちた。
「ごめんなさい……お兄様。お兄様の言いつけを守らなかったから……桜は……不覚でした」
桜の言葉に、成介さんは違うと首を振る。
「不覚であったのは僕の方です。迎えに行くと言いながら、行く事が出来なかった……随分と待った事でしょう」
「いいえ。待つ事は辛くはありませんでした。ただ……雨が……その場で待つ事を許しませんでした。不穏を感じ、お兄様に何かあったのかと、そう思ってしまったのです。ですが……その雨は、家路を辿る事も許しませんでした……そして、強さを増す雨に方向が分からなくなったのです。わたしは道に迷い、惑わされてしまったのです……焦りが焦りを生んでしまった……」
「その事に僕は気づくべきでした。待たせている事に気を置いていたにも拘らず、待っていてくれるだろうと桜に負わせたのですから。それでも桜……」
成介さんの手が、桜の頭をそっと撫でる。
「ここまで留まっていてくれた事……待ち続けていてくれた事……流石は佐伯家の巫女ですね」
そして、にっこりと笑みを見せながら続けた言葉に、僕は胸が熱くなった。
「桜……よく出来ました」
あ……。
『来。よく出来ました』
さっき言ったあの言葉。
まるで子供扱いだと、不機嫌な顔をした僕だったが。
僕にそう言ったのは、その言葉が彼にとって口癖のようになっていたのだと思った。
歳の離れた妹……親代わりでもあった事だろう。
成介さんの両手が、桜を包み込むように伸ばされる。
「迎えに来るのが遅くなりました……」
果たせなかった思いが、今、果たされる。
だけど、実体のない霊体は、その手に感触を与える事はなかっただろう。
それでも……。
嬉しそうに笑顔を見せる桜は、その手に包まれてゆっくりと消えていく。
キラキラと柔らかな光が、成介さんの周りを戯れるように回った。
まるで……桜の花びらが舞うように、儚くも美しく……。
目を閉じた彼の頬に、一雫の涙が伝った。
僅かにも震える声が静かに、それでも安堵を示すように穏やかに流れた。
僕は、切なくも苦しくて、その言葉を聞きながらも空を仰いだ。
「帰りますよ……桜」