第50話 補佐
「悠緋か、佐伯 桜か……救えるのは片方だけだ」
九重は、残酷な選択を二人に突きつける。
回避出来る術は……。
そう言葉が脳裏を過ぎる瞬間、伏見司令官の顔が目に浮かんだ。
机に描かれた式盤。その配置を見て麻緋は言った。
『目的は回避じゃねえって事か』
この状況を回避したとしても、解決には至らない。繰り返されるだけだ。
『手段は一つに限らない。それは勿論……回避以外の手段だ』
回避以外の……手段。
伏見司令官は……回避を捨てたんだ。
その意味をこの場で僕は実感する。
渾沌……この男は。
僕の目線が渾沌へと移る。
笑みを湛えた口元。
僕たちが苦難を乗り越えようとする度に、その思いを潰してくる。
陰湿な男だ。
自身がどんな状況に置かれようとも、回避出来る術を奴は持っている。それが神獣の力だ。
渾沌の笑みがはっきりと表れれば表れる程に、神獣が大きく暴れ回る。
少しでも動こうとすれば刃のような風が横切り、服を切り裂き、皮膚を掠めていく。
衝突スレスレの攻防戦だ。
九重の言葉に、麻緋も成介さんも反応を見せない。
痺れを切らしたかのように、九重は返答を急かした。
「麻緋! 早くしろっ! 神獣は佐伯 桜を得ている内は然程敵意を向けやしない。だが、それを奪おうとすれば、当然敵意は避けられない。奪おうとするなら、それ相応の供犠を与えなければ治まらねえぞ!」
九重の声に麻緋は顔を伏せた。
「奪う……? 与える……? 塔夜……お前は……」
麻緋は、伏せた顔をゆっくりと上げる。
この時僕は、伏見司令官の影響力を知った。
あの式盤……。
「俺に求める答えは、その選択肢だけしかねえのかよ?」
麻緋の足が動き、歩を踏み出した瞬間、風が麻緋の上着を切りつけた。
だが、麻緋が歩を踏み出した方向は、僕たちを囲むように見せる現象の方だ。
「おいっ……! 麻緋……! お前……!」
予想を反した麻緋の行動に、九重は驚きを隠せなかった。
それは僕も同じだった。
麻緋が神獣へと歩を踏み出したとほぼ同時に、成介さんもまた麻緋と同じ行動を取ったからだ。
『それ……成介に隠すなよ』
何が起こるか……あの式盤には表れていたんだ。
『回避手段とは、その場凌ぎの守りに過ぎない。それをお前にやらせるつもりはない。お前にしても、それは無意味だと思っているのではないか?』
……確かに、回避手段で来る奴に、回避で返しても無意味だ。
神獣の力を畏れ、供犠を捧げ続けるというのは当然、解決策なんかじゃない。
だから九重の言う事は、僕たちにとってあるべき問いにはならない。
その強大な力に守られる為に、媚び諂うようなやり方など……あって言い訳がないだろ。
僕も麻緋と成介さん同様、神獣がいる方へと歩を進めた。神獣の姿は捉えられないが……。
歩を進めれば進める度に、鋭い風が上着を引き裂いた。
呪符は手元に戻って来ない。
僕は呪符がなければ、術を使えない。
そう思いながらも僕は、呪文を口遊む。
「東に青……南に赤。西に白。北に黒。四色は四神を象り、四象を顕せ。中央には金を顕し、五色を象れば、五象を顕す。そして……」
僕は、神獣を見定めるように、強い目線を向ける。
前後左右はほぼ同時に来るが、上下の攻撃は間が開く……数にして四頭か。成程。
鬼祓いの儀、大儺。
鬼を祓う役目である儺人、方相氏、それに従う侲子は、黒の衣を纏って鬼を祓う。
大儺は後に追儺と名を変える。
『儺』を持つ者は、鬼を祓う者ではなく、鬼そのものと変わっていった。
ああ……そうだよ、それでいいんだ。
だから僕は、僕たちは。
闇の中で生きる事を決意したんだ。
僕は、引き裂かれた上着を脱ぎ捨てた。
威嚇するようにも風は強さを増し、体を切りつけてくる。
白いシャツに血が滲み、次第に赤く染めあげていく。
神獣の吠える声が地を揺らす程に強く響き、この地を更に恐怖で染め上げていくようだった。
だけど……。
「来っ……!」
麻緋の呼び声に僕は頷く。
手元に呪符がなくとも不安がないのは。
『俺は呪符を使うなとは言っていない、呪符だけに頼ろうとするなと言っているんだ』
僕は、自信を持った声で、はっきりと続ける。
「五象を補佐する五佐を顕せ」
カッと光が辺りを染める。闇を交えた四色の光が神獣の動きを阻むようにぐるりと円を描き、縦横斜めに線を描いた。
神獣の鳴き声が高音を響かせる。鋭く吹き抜けた風は変化して緩やかに流れ、新たに上がった朱色の炎が空を巡り、雨が降り出した。
木の根が地を這い始めると、神獣が走り回る音が止む。
渾沌……お前だけが特別だと思うなよ。
麻緋の正邪の紋様が天地にはっきりと浮かび上がり、吸い寄せられるように呪符が集められると、僕の手元に戻った。
僕と麻緋は目線を合わせ、体の向きを内側に戻した。
「出来たじゃねえか、来」
「ああ。一人でやるのも意味がないだろ?」
「はは。そうだな」
成介さんの合図を送るような目線に、僕と麻緋は同時に歩を踏み出した。
僕は、思いを掴むように呪符を持つ。
『俺にも頼れ。その為の相棒だ』