第32話 蜉蝣
九重の表情から、感情が溢れ出している。
これは確かに……分かり易い事だ。
『心を顔に出すな。相手の術に嵌り易くなる』
そうだ……怒りを露わにした時点で、もう相手の術に嵌っているんだ。
苛立ちをぶつけるように、九重は上着を脱ぎ捨てた。
ああ……なんか……以前の自分を見ているようで、微妙に腹が立つな……。
「勘違いするなよ、麻緋……俺はお前の立ち位置を失わせれば、それで満足なんだよ。現にどうだ? 今のお前は元の場所には帰れない。あれ程の立派な屋敷でも、そこに住まう者はいない。なにせ『罪人』の屋敷だからな。例え戻る事が出来たとしても、そこにあるのは幻想だけだろ。ああ……そうだな。丁度いいじゃないか。今もお前の屋敷には、お前の望む幻影で彩られている。そんな夢の中で永遠の眠りに落ちるのも本望じゃないか?」
なんか……負け惜しみにしか聞こえねえな……。
麻緋の心を揺さぶるつもりだったろうが、麻緋はあの幻影に縋る程、感傷的じゃない。あれを手掛かりだと言えるくらいなんだから。
成介さんが盟神探湯を行った事で、正邪の見極めは済んでいる。
罪人だと濡れ衣を着せた事は、僕たちだけではなく、いずれ表立って明らかにも出来る事だろう。
九重は、地に足を強く踏み付けた。
ドンッと地が揺れ、僕たちの足場を失わせようとする。
「来!」
「分かっている!」
幻影術だ。実際には、何も起きていない。
だが、目に映る光景は僕を攻撃してくる。
下手に動けば、自ら穴に落ちる。自ら瓦礫の下敷きになる事だろう。
分かってはいても中々に断ち切れず、真っ直ぐに飛び込んでくる幻影に、飲まれそうになる。
視覚攻撃は、明らかに心を潰してくる。目に見えるものが、反射的動作を要求してくる事に苛立つ。
「チッ……!」
襲い来る幻影に、つい、咄嗟に避けようとしてしまう、防ごうとしてしまう。
なんとか断ち切らないと……。このままでは、無駄な労力だ。
執念深いだけあって、幻影も執拗に追いかけてくる。
心にも体にも負荷を与えてくる。
これじゃあ……自滅してしまう。
「来!!」
麻緋の声が、現実を誘導する。
無駄な……労力……。
ふと、麻緋の運転が思い出された。
あまりにも負荷が掛かる事に、僕は叫んだ。
『心臓が持たねえだろーがっ!!』
『お前が勝手に騒いでるだけだろーがっ!』
ああそうか……。
『どれ程の負荷を与えたと思ってんだよ……? 下手したら気絶するぞ』
『じゃあ、その負荷に耐えられたなら、大丈夫だな』
まさか、麻緋のあの運転が、耐性になるとは思わなかった……。
ははっと心の中で、僕は苦笑する。
だけど……助かった。
現実と幻影とじゃ、差があり過ぎるに決まってんだろ。
現実を見ろ。
耳を澄ませて、周囲の音を聞き分けるんだ。
僕は、目を閉じ、呼吸を整えると目を開けた。
あれは……。
九重の後ろの方で、何かがキラリと光ったのが見えた。
……僕の家があった方だ。
胸元に仕舞ってある、麻緋から受け取った呪符が、僕に鼓動を与えてくる。
その鼓動に同調するように光が点滅した。
僕は、そっと胸元に手を触れる。
その瞬間。
バリバリと地を突き破って、光の柱が空へと伸びた。
「なっ……?」
驚いたのは、九重だけだ。
僕は、光の柱へと向かって呪符を投げる。
無数に広がる呪符は、まるで木の葉のように舞い、光の柱は幹となって呪符を纏った。
これは幻影じゃない。幻影を断とうとしたって無駄だ。現実に起きている事なんだから。
……まだ生きている。まだ奪われていない。
ゴーストタウン……。
強ち悪い意味でもないようだ。
光の柱に纏った呪符がゆらゆらと揺れ、影を作る。蜉蝣のようなその影は、人の姿を浮かばせるようだった。
「渡さねえよ……九重、お前にも……勿論、あの男にも奪わせやしない」
僕は、人影を操るように指を動かし、九重の周りを影で囲んだ。
「チッ……! 麻緋の家に行った時に、あの呪符を奪っておくんだったな」
「無理だよ……お前にもあの男にも、あの呪符を奪えない。あの呪符が目覚める前には、見えもしなかっただろうしな。例え奪えたとしても、お前には使えはしない……」
ゆっくりと九重に向かって歩を進めながら、僕は言った。
「禁忌を犯した者は、呪符を使えない。お前たちは、その禁忌を犯しているんだからな」
影が九重に絡み付き、僕には光が纏う。
僕は、呪符に指を向け、配置を命じるように動かした。
「両儀四象八爻。乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」
僕は、更に言葉を続ける。
「震・離・兌・乾・巽・坎・艮・坤」
天地に呪符が広がり、円を描く。そして、呪符が互いに掛け合わせるように天から地へ、地から天へと光を交えた。
ぐるりと光が九重の周りを回り、左目へと光を当てる。
「くっ……」
左目を押さえる九重の手に、僕はそっと手を伸ばしながら言った。
「一変して二、二変して四、三変して八……陰陽消長。天地位を定め、山沢気を通じ、雷風相薄り、水火相射ず……往を数うるは順にして、来を知るは……逆だ」