第七話 先代魔王の記憶
奇跡的な偶然から始まったティータとの共同生活は不思議なものだった。
この家はまるで夢の箱庭である。
朝は夜明けとともに目を覚まし、野生のフルーツや畑の作物で朝食。
そのあとは畑の世話や、近くの小川で釣りをする傍ら、ふんだんに実っている野イチゴやあけび、さらに山百合の球根などを収穫。
小川の水はそのまま飲めるほどに澄んで美味しく、地味豊かな畑の作物は、まるで高級料亭の食材のようにうまい。
「こんな美味しい水、カフェでも飲んだことないわ!」
滴るばかりの自然の恵みに、幼いころに学校行事で行った林間学校を思い出して、葉月は大はしゃぎであった。
そんな葉月をティータが生温かい目でプルプルしていたのは言うまでもない。
「――――それにしてもティータのお父さんとお母さんも、よくこんな場所見つけたよねえ」
「まあ、誰にも見つかりそうにない場所を探していたらここになった、とは言っていたな」
魔族にも人間族にも居場所のない二人が暮らせる場所といえば、人跡未踏の秘境くらいしかなかった。
父は楽しそうにそう話してくれたものだ。
それでも愛する妻のために努力すること、そして二人がともにいられることがたまらなく幸せであった、と。
「でも、いくら深い樹海だからといっても、こんな素敵な場所がどうして人跡未踏なのかしら?」
葉月は野生のグミを頬張りながら首をかしげた。
これだけ水や資源に恵まれた環境なら、人の生活圏に浸食されないはずがない。
少なくとも、狩人や樵など少数の人間くらいは出入りしてしかるべきだ。
「確かに樹海がみな、こんな場所であればそうであろうな」
クスクスと笑みを漏らしてティータは、葉月の反応を窺う。
「……他の場所は違うの?」
「違うどころではない。本来の樹海は特殊な魔獣や食虫植物が君臨する魔境で、自殺志願者以外は近づかぬよ。妾たちが悠長に暮らしていられるのは父上が張った結界があるからにすぎぬ」
「にわかには信じられない話ね……」
まるでここはイーハトーブのような理想的な空間であった。
自給自足が可能で、どこまでも水と空気は美味しく、美しい小鳥の鳴き声に耳を澄ませては朝の訪れを知る。
いまや家族同然の大切な人間となったティータと二人きりで営む晴耕雨読の日々は、葉月に遠く忘れかけていた安らぎとは何なのかを思い出させた。
いつまでもこの時の止まった桃源郷でまどろんでいたい――――そう葉月に思わせるほどに。
「魔獣のなかには上級魔族に匹敵するものもいる。そうそうこんな秘奥までやってくるものもおるまい」
そう言いつつもティータの言葉はいつもの精彩を欠いていた。
いったいいつまでこの安らぎの箱庭で暮らせるのか。
この世に永遠なものなど何一つないことを、ティータはよく承知していた。
「よくそんなところまで来たわね。前から気になってたんだけど、どうしてティータのご両親はこんなところまでやってきたの?」
葉月の暮らしていた日本では、田舎に畑を買ってスローライフを送ろうとする脱サラ組が数多く存在した。
残念ながら御防人から逃げ続けなければならなかった葉月の家族は、むしろ人混みに紛れるように都市部で生活することがほとんどであったが、漠然と田舎暮らしにあこがれる気持ちは葉月自身もわからないではなかった。
てっきりティータの両親も、そうした世捨て人の類であると考えていたのだが――。
「話しておらなんだか? 父上と母上は駆け落ちカップルじゃ」
「ええええええっ!」
駆け落ち……祝福されぬ二人の恋人が、手に手をとって逃避行へと走るロマンスを思って葉月は顔を赤らめた。
ぼっちではあったが、実は恋バナに興味津々な葉月であった。
「なにゆえ父上と母上が駆け落ちすると、葉月が顔を赤くするのだ?」
「ふえええっ? あの、その、なんというか後学のために聞かせてもらいたいというかっ!」
どうして他人の恋愛なのに、これほど気になってしまうのか。
乙女心は複雑怪奇である。
「後学になるかどうかはわからないが……」
自分を置いて逝ってしまった両親の姿を、ティータは脳裏に懐かしく思い描いて語りだした。
「父上が母上と出会ったのは、とある都市の攻防戦後のことであったという。当時父上は不在の魔王に代わるべく、配下の兵とともに人間の都市を襲っていた。母はその都市に取り残された人間の国王の娘であった」
ちょっと待て。
「ええっ? まさかティータのお父さんって、徴がないために裏切られたっていう魔王の息子だったりするの?」
「妾にも葉月と同じく魔王の血が流れていると言ったであろ? 先代魔王クロノスが妾の父じゃ」
「そんなに近い血だなんて聞いてないよ?」
魔王の血の濃さでいえば葉月など傍系も傍系、いったい何十代前の祖先かわかりはしない。
てっきりティータもそうした先祖に魔王がいる程度に勝手に思い込んでいたのである。
「待って、いろいろ待って。少し考えさせて――――確かその魔王って、味方に戦場で裏切られて行方不明になってたんじゃ……」
「うむ、実は樹海の奥深くに隠れ住んでいたというわけじゃな」
「いや、そんな簡単に言わないでよ!」
仮にも一国の王がそれでいいのか?
ティータに対する性教育でも十分にアブノーマルさを感じさせる父親ではあるが、そもそもの根っこの部分からぶっ飛んでいたらしい。
「当初母上は見せしめに処刑される予定であったそうじゃ。さもあろう、憎い人間の国王の娘を捕まえられたのじゃからな。しかし母上は知っていた。自分が父に嵌められたのだということに」
「どういうこと?」
「何、単純なことよ。母上よりも後妻の子が可愛かった国王は、合法的に母上を抹殺することにしたのじゃ。そのために前線視察と偽って魔族の侵攻する都市に母上を送り込んだ」
「……最低……」
現代でも継母による先妻の子の虐待は珍しい話ではないが、仮にも国王が娘を合法的に暗殺しようとするなど、到底感情的に認めることはできなかった。
葉月の記憶には、身を呈して葉月を守った亡き両親の背中が焼きついている。
親という生き物は子供のために、身体を張るのが当たり前だと、ごく自然に葉月は理解していたのだった。
「父上にとっては得難い捕虜じゃった。徴がないばかりに部下の忠誠を得られない父上は、母上の存在を梃子に求心力を高めるつもりで、軟禁していた母上にあった。そのたった一目で――二人は恋に落ちた」
父を失い、受け継ぐべき徴を受け継げなかったばかりに同族から疎外された魔王と、人間族の英雄ではあっても、父として夫としては最低な部類の男の娘――――ともに誰にも理解されぬ孤独を抱いたもの同士のシンパシーを感じたのか。
本能の命じるままに、魔王は娘の大きく張りのある胸を揉みしだいていた。
指が沈み込むほど柔らかく、それでいて弾力に満ちた胸の感触に、魔王はたちまち夢中となった。
この世にはこれほど感動的で素晴らしいものがあったのか。
「私の感動を返せえええええええええええええ!」
感動のプロポーズがどうして、ただのセクハラになった!どうしてこなた! どうしてこなた!
葉月が壁を殴りつけ絶叫してしまったのは当然であろう。
初対面の女性に一目ぼれをすることと、胸を揉むことがどうしてもイコールで結びつかないのだから。
「……二人の恋物語で一番感動的なシーンだと思うのじゃが」
「せっかくの感動シーンが、突然吉本新喜劇にされた気分だわよ!」
この話のどこにティータの琴線に触れる部分があるのか、小一時間問い詰めたいところだが、その元凶がティータの父親にあることを葉月は確信した。
「母上も、父上の情熱的な求愛に思わず心を蕩けさせられたらしいのだが」
「母親もかいっ! こんちくしょう!」
夫婦そろっての変態だった。
もしかしてこの世界の性風俗としては、これで正しいのではないか、と葉月は考えて慌てて首を振った。
それを認めてしまっては、葉月の人として大事な何かが永久に失われてしまう気がした。