第二話 学園の女神
――――私立桃稜高校内で彼女の名を知らぬものはいないだろう。
まだ入学して数ヶ月しか経っていないが、おそらくは近在の高校にまで彼女の名は鳴り響いているに違いなかった。
九重 葉月
それが桃稜高校の女神と呼ばれる彼女の名前だった。
腰まで届こうかという漆黒の濡れたように艶やかな長髪。
そして白磁のビスクドールのような、硬質の光沢あるなめらかな白い肌
形のよい眉に、切れ長でやや釣り目がちな瞳が、なんとも神秘的で近寄りがたい気品を与えている。
手足は日本人であることを疑ってしまうほどに伸びやかで、しかも手折れてしまいそうに細かった。
身長はようやく百五十センチに届く程度で、同年代の女子高生の中ではやや小柄な部類に入るだろう。
神が与えたとしか思えぬ黄金率で構成された彼女の美貌は、もはや枯れ果てた老教師ですら、動悸にいささかの負担を強いるほどのものであった。
――――唯一の瑕があるとすれば、母性の象徴にやや隆起が欠けるということだろうか
うっかり彼女の聞こえるところでそう発言したクラスメイトが、翌日から不登校に陥ったという都市伝説があるので、今では間違ってもそんなことを言う命知らずはいはしないのだが。
ともかく桃稜の女神は、入学早々むくつけき男どもから朝な夕なに猛烈な欲望の押し売りを受けたわけだが、一ヶ月もしないうちにそれは沈静化することになる。
ひとつには、彼女が男たちからの告白を眉ひとつ動かさず一刀両断に斬り捨てたからであり、そしてもうひとつは彼女がおそらくは全校男子にも並ぶものがない武勇の持ち主であることが知れわたったためであった。
桃稜高校は進学校であると同時に、スポーツ競技に力を入れている。
私立である以上必然的な営利目的の宣伝効果を狙ったものだが、特待生のなかには実績をあげた自分を特別視する輩が少なからず存在するものだ。
女神に手ひどく振られ逆上のあまり彼女を押し倒そうとした男も、そうした特待生の一人であった。
問題なのは、彼が柔道部で全国大会の常連であったことである。
その彼が、ほとんど手も足も出ぬままに投げられ、打たれ、締め落とされたという事実は、彼女をして一種の不可触領域の主とした。
すなわち、誰の手にも触れられぬ高嶺の花となったのである。
もっともその後の中間テストで、彼女の名が最上段に輝いていたことを考えれば、遠からずそうなっていたことは明らかであったのだが。
――――かくいうオレ、金木当麻もそんな彼女を遠くから見つめている人間のひとりである。
とはいえ高校デビューしてはっちゃけた級友のように、彼女に対する恋慕が高じて目が追ってしまうというわけではない。
とてもではないが彼女とごく平凡な自分が釣り合うとも思えないし、実際に彼女と付き合ったりしたらメリットよりもデメリットが大きすぎて学校にいられなくなるのは確実であるからだ。
花は手折るものではなく愛でるものだと先人はいったらしいが、まさに箴言とういうべきだろう。
そんな平凡なオレが、いまだ彼女に執着するのには理由がある。
彼女から人間なら誰もがあるべき、気を感じないというのがその理由だった。
真言宗至岸寺二十八代住職の息子……拝み屋でもある父の血を引いたせいか、オレには幼いころから人の気が見えるのだ。
もちろん頭のおかしいかわいそうな人扱いを受けるのはごめんなので、学校の友人たちには内緒である。
人は誰しもが、魂を根源として気を外部に発している。
その気は人によって様々だ。あるものは強く、あるものは弱く、あるものは霊に蝕まれ、あるものは神仏の加護を受けていたりもするのだが、こと女神に関してはこの常識が当てはまらない。
ほんの毛筋ほどの気も感じないのである。
これは今まで死人以外には感じたことのない現象だった。
彼女が死人であるはずもないのだが、生きている気もまた感じることができないのはなぜだ?
そうしてオレはあることに思い至った。
彼女もまたオレの父が生業としているような拝み屋の一人なのではないか?
それもオレのような未熟者には気を読ませぬほどに高レベルの。
もしもそうであるならば、彼女の見せた常識外の武力も納得できるものがある。
拝み屋である父の明らかに常軌を逸した化物のような身体能力を、オレは現実として知っているからだ。
もしもそうであるならば…………。
彼女がこちらがわの人間であるというのならば、せめて友達になりたい。
あわよくばその先にも………という欲望が全くなかったとは言わないが、かつて生まれもってしまった力のゆえに自ら望んで孤立を選んでいたオレのそれは本心だった。
幼い少年期、異能というのはそれだけで排斥の理由となる。小学生時代のオレは引きこもり寸前のぼっちであった。
もしも彼女の孤独をオレが癒せるのなら……。それがどれほど身の程知らずな思いかをそのときのオレに知る由もなかった。
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「まったく……迷惑な話ね………」
長い梅雨も明け、夏らしい晴天が容赦のない日差しを浴びせかける屋上で、女神は心底嫌そうに口の端を歪めていた。美人が不機嫌であるというのはこれほどにも重圧を覚えるものか。
小心者のオレは頭を抱えたくなった。
なけなしの勇気を出して、小心者のオレが女神に問いかけたのにはある理由がある。
――――それを目にしたのは偶然だった。
何の気なしにいつものように彼女を眺めていたオレは、彼女が傷ついた野良犬を、無造作に治癒するのを目撃したのである。
数年前から桃稜高校を訪れているその野良犬は、マーブルという呼び名で主に女生徒たちにエサをもらっていたらしいのだが、その日はどうやら近所の悪童に、手ひどく痛めつけられてしまったらしかった。
意外なことに、彼女もまたマーブルを可愛がる女生徒の一人であったようだ。
彼女がわずかな呪言と小指の先を斬って、自らの血を触媒として術式を組み上げたのが、オレにははっきりとわかった。
やはり彼女は術者だったのである。
「……友達になれないかな? もしも君が隠している力のことを気にしているのなら……」
他人には見えないものを見、他人には触れられないものに触れる。
そうした異能を見せる人間は、例外なく日常という生活からは疎外される運命にあるのであった。
実家が拝み屋であるオレは、特にそれが顕著に現れたと言ってよい。もっとも妹がうまくやっているところを見ると、性格によるところも大きいのだろう。
わざわざ地元から電車で一時間もかかる、この桃稜高校を受験したのはそのためだ。
彼女はうまく隠しているが、級友に溶け込めず孤立しているのはその異能にあることを、そのときオレは信じて疑わなかった。
異能者同士、傷をなめあうのには抵抗があるだろうが、少なくとも理解しあうことはできる。そのはずだ。
「…………忘れなさい、金木君」
「え……?」
間抜けな声を出す暇もあらばこそ、ほんの一瞬の瞬きする間さえない間にオレは女神に背後から首を絞められていた。
スリーパーホールドという奴だ。まあ、せっかく密着しているのにあまり胸の感触が感じられないのはご愛嬌だろうか?
「今、貴方とてつもなく不愉快なことを考えなかったかしら……? このまま絞め殺したくなったのだけど」
「ぐふう……落ちる! それ以上締めたらマジで落ちるぅぅぅ!」
こころもち首を締め上げる力が強まったような気がした。否、はっきりと強まっている。
必死にもがいてはみるものの、女神の腕はまるで万力で固定されたかのように微動だにしない。
とうていか細い女神の腕に出せる力ではない。絶対に隠された異能の力であるはずだった。
「いいこと……? 異能同士がわかりあえるなんて思わないで。私と貴方とでは住む世界が違うのよ」
老成したような諦観、あるいは底を伺い知ることすらできないほど深い絶望を声にしたらこんな声になるだろうか?
少なくとも彼女の口調からは、オレの甘い見込みなどが立ち入ることを許さない全き拒絶が感じられた。
いったいどんな経験をすれば、高校一年程度の少女がこれほどの闇を抱えていられるものなのか、オレには想像もつかない。
「次に同じことを言ってきたら殺すから」
そう言って女神がとどめを刺すように、頚動脈を圧迫する。
頸動脈の血流をとめられて、急速に目の前が暗くなっていくのがわかった。
彼女の視線に紛うことなき本物の殺気が宿っているのが、霞んでいく視界にもはっきりと確認できる。
…………冗談じゃない、見かけによらないにもほどがあるだろ…………。
可憐な外見から庇護欲をそそられたのが間違いだったのか……そんな後悔と、それでもわずかに残り続ける憐憫を自覚しながらオレの意識は闇へと落ちた。
「……差別されるだけならまだいい、でも追われるものに馴れ合うほどの余裕はないの。……まあ、……全くうれしくない、とは言わないけど」
立ち去る女神が自嘲するかのように嗤いながら、そんな言葉をこぼしたのも知らずに…………。
同時進行で
「辺境に追放された第五王子ですが、なぜか兄たちの未亡人がおしかけてきます」
「幕末最強の剣士が仲間に裏切られて異世界に転生したら、人類は竜の侵略で滅亡しかけてました」
を連載しています。
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