表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
皇太子夫妻の歪んだ結婚   作者: 夕鈴
おまけ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/33

皇太子夫妻の日常2前編

小国民には祈りを捧げることが流行していた。

妊娠により視察に顔を見せなくなった麗しの皇太子妃殿下のために民達は神に祈りを捧げていた。

雪の日に盛大なラッパの音が鳴り響いた。新たな皇族の誕生の知らせだった。

皇太子夫妻の御子の誕生に民達は神に感謝の祈りを捧げた。

雪の中宮殿の前に行き祈りを捧げる者もいた。

宮殿に集まる民の前に皇帝陛下が現れ、母子共に健康なことと民への感謝を告げた。

皇太子妃は疲労のため休んでいることを告げ、いずれ披露の場を設けることを発表した。

母子共に健康の報せに民達はさらに感謝の祈りを捧げていた。民達に皇太子夫妻の名前で酒と肉と菓子が下賜された。皇太子夫妻の御子の誕生に盛大な祭りがはじまった。

テト達は産後はしばらく動けなくなるリーンに頼まれていた。自分達のために祈りを捧げてくれた民へのお礼を用意してほしいと。テト達は雪の中、各家に皇太子夫妻からの贈り物を届けて回った。

皇帝に御子の誕生後の民達への挨拶を頼み下賜する物を手配したのはリーンだった。皇帝は民のことなど頭になく義娘の傍を離れない我が子に苦笑した。色々あったがしっかりした妃をもらい、うまく付き合っている息子に当分は好きにさせることにした。



無事に出産を終えたリーンは体力がつき、2日間眠っていた。

ルオはリーンの出産に備えて公務を前倒しで終わらせていた。そのため寝室から追い出されずに付き添うことを許されていた。


リーンが目を覚ますと、ルオが赤子を抱いていた。

リーンの髪色とルオの瞳の色を受け継ぎ、イナが興奮するほど顔立ちがリーンにそっくりな男の子だった。


「体は大丈夫か?」

「うん。大丈夫。だるいだけ」


リーンはイナに支えられゆっくりと起き上がり赤子を抱いた。


「ルオに似てないね」


産後倒れたリーンは我が子をじっくり見るのは初めてだった。


「将来モテるだろうな。絶対に可愛いから女の子として育てたいな。浚われないように警備を厳重にしないと。いや、ずっと俺の手元に置いておけばいいか・・。せっかくだから改築して執務室を一緒にするか。そしたら二人共俺が守れる」


幸せそうな顔で赤子の頬を突っつき冗談を言うルオにリーンは笑った。ルオが本気とはリーンは気付いていなかった。産まれてからルオの顔がずっとニヤケていたことも、おかしいことを呟いていたこともリーンだけが知らなかった。


「家臣達から苦情がくるわ」

「言わせないよ。名前どうするか」


名前の候補はいくつか絞っていた。二人で話して産まれてから決めることにしていた。リーンは一番辛い時に傍にいてくれた兄の顔を思い出した。


「ラディル。お兄様が考えてくれたけど、変人になったりしないかな」


リーンの兄王子は変わっていた。世界で一番大きく力のある国の王子が身分を隠して研究者として小国に単身で滞在していた。研究に目がない自由奔放とリーンは言っているが、ルオは妹を心配して滞在しているように見えていた。ルオは兄王子の研究に狂った姿を知らないので、リーンが言うほど変人には見えなかった。ルオの兄に比べればマトモにさえ見えていた。


「ラディルか。いいな。俺は義兄上のようになるならいいと思う。」

「ルオはお兄様が大好きね。きっとそろそろ旅立つわ。ラディルの伯父様は自由な変人よ。妹より研究第一だもの。」

「元気に育ってくれればいいよ。ラディルは俺が見るからリーンは診察だな」


相変わらず過保護な夫にリーンは笑って従った。

診察を受けながら自分が眠っている間の2日間の話を聞いて苦笑していた。ルオがずっとラディルの世話をしていた。乳母にもほとんど預けなかったらしい。ラディルを抱いて公務する姿を想像して笑っていた。イナはリーン達の話を聞きながらルオなら本気でやりかねないと知っていたが何も言わなかった。リーンに余計な心労をかけたくなかった。


***


ラディルの乳母の名はスサナ。

乳母を決めるには一悶着あった。


リーンのお腹が大きくなった頃、皇后陛下より多忙なリーンの代わりに自分が育てると話されたがリーンは丁重に断った。オルのように育つことは避けたかった。皇后陛下の申し出を断ってすぐに急遽乳母の選定が行われた。

乳母さえ決まれば皇后陛下に再度提案されることはないとリーンは考えた。

乳母の選定はイナに任された。候補者の中からイナの厳しい審査を通ったのが男爵夫人のスサナだった。スサナは武術に優れていた。そして、一番気に入られた理由がリーンを慕っていることだった。


ただスサナは最初からリーンを慕っていたわけではなかった。

時は遡り、オルが訪問する前で体調も安定していた頃の話である。

リーンにはやりたいことがあった。兄の新種の茶葉の研究が形になった頃栽培する場所を探していた。

スサナの夫が治める男爵領は宮殿から遠く小国では困窮している領地だった。

土地を抱えてもうまく利用されていない男爵領に目をつけた。ルオに計画していることを相談し必死に頼み1週間だけ視察に行くことを許してもらった。

ルオは身重のリーンに離宮で過ごしてほしかったがおねだりに負けた。ルオは必死に公務を調整して、リーンの視察に同行した。


***


男爵夫妻に案内され何も特色のない男爵領を見て、リーンはルオに計画を実行したいと願った。ルオはリーンの願いに快く頷いた。

男爵夫妻は突然の皇太子の提案に困惑した。

費用は皇家で負担するため茶葉の栽培と学び舎の建設の提案だった。


「恐れながらなぜうちに?」

「広大な土地と領民を見て決めました。最初の1年は税も取りません。上手くいけば3年目から男爵家の事業としてお任せします。ただ上手くいくまではうちの者に指揮を任させてください。もちろん利益は男爵家に還元させていただきます」

「他の家もあるでしょうに」


下手に出ることをやめたルオは静かに男爵を見た。

ルオの雰囲気が冷たくなり、リーンは柔らかな笑みを浮かべて手を握った。ルオは自分の手を握り微笑むリーンに優しく微笑み返し、男爵に向きなおった。

領地経営がうまくいっていないから介入せざるを得ないと言うのはやめた。


「妃がここを気に入った。それ以上の理由は必要か?」


男爵は皇太子が妃を寵愛していることを知っていた。男爵領にはありがたい話だったので詮索をやめて受けることにした。

大国なら王家の提案に疑問も口に出さず実行する。王家の命令は絶対である。王家はどんな結果でも最後まで責任を持つ。また王族の優秀さは知れ渡っているので、民にも信頼されていた。

ルオに反論しようとした男爵を笑みを浮かべながらリーンは冷めた瞳で見つめていた。男爵は善良そうだが、浅はかな人と認識した。リーンにとって人材の質の悪さは悩みの一つだった。小国で話が通じるのは宰相だけだった。



男爵夫人はリーンと直接の面識はなかった。色白で華奢で苦労など何も知らない姫と思っていた。ルオに寄り添い、微笑む姿はお飾りの妃にしか見えなかった。

離宮からほとんどでないリーンに不満をもつ者もいた。リーンは視察や夜会に参加するが、女性貴族のお茶会には、参加しない。大国では王族はお茶会を主催するが、わざわざ他家を訪ねて参加する風習はなかった。


ルオは離縁騒動からリーンだけで貴族の屋敷を訪ねる許可は出さなかった。他の男が近づく隙を与えることも令嬢達にリーンが不愉快な思いをさせられるのも嫌だった。ルオの思惑を知らない一部の女性貴族は大国の姫は自分達を見下し相手にする気がないと思っていた。男爵夫人のスサナもその一人だった。


男爵夫人は皇太子からの提案はありがたかった。ただ男爵領を選んだ理由が妃の我儘なのは気に入らなかった。男爵が了承したので、皇族相手に不満も言えないので剣を振ることにした。

リーンは晩餐から戻る途中に剣を振る男爵夫人を目に止めて静かに見ていた。その頃ルオは男爵の接待を受けていた。リーンはルオの先に休んでほしいという好意に甘えて中座した。

男爵夫人は訓練中は誰も近づかないようにと命じていた。

視線と慣れない気配を感じ剣を突きつけた相手に目を見張った。護衛騎士はリーンに動くなと視線で訴えられて動かなかった。ただ剣先がこれ以上進むなら斬り落とすために剣に手をかけていた。


「妃殿下!?」


男爵夫人は慌てて剣を引いた。お飾りでも皇太子妃殿下に剣を向けたのはまずい。動揺している男爵夫人にリーンは声をかけた。


「申しわけありません。訓練の様子を声もかけずに見ていた私に非があります。謝罪は不要です。邪魔をしてすみませんでした。」


リーンは礼してその場を去った。このことをルオに知られたらまずかった。今は男爵夫妻とはうまくお付き合いしなければいけないので揉め事は起こしたくなかった。呆れる護衛騎士を連れて部屋に戻ることにした。


「姫様」

「他言無用よ。やりたいことがあるの。それに危険はなかったでしょ?」


リーンは動揺する気持ちを隠して微笑みかけた。護衛騎士は目的のためなら手段を選ばないリーンに苦笑した。男爵夫人に殺気はなく、反射で剣を向けたことはわかった。迷いもなく信頼した顔で見つめる主にため息をこぼした。


「次は報告しますよ。俺じゃなかったら斬ってます」


リーンは頷いて部屋に戻った。今回は運が良かった。傍にいたのが兄から与えられた騎士でなければ、リーンの判断を仰がずに斬っていた。

護衛騎士に送られ部屋に入り、眠る支度を整えても眠れなかった。留学中に騎士や王族の剣の手合わせはよく見学していた。ただ剣を向けられたのは初めてだった。



ルオは接待から解放され寝室に行くとリーンがいなかった。

部屋を探すとバルコニーでぼんやり夜空を見上げていた。


「リーン、起きてたのか?」


リーンはルオの声に驚いて、ごまかすように抱きついた。自分の夫が時々鋭いことは知っていた。


「お帰りなさい。湯たんぽがないと眠れないの」


ルオは冷たい体に自分を待っていたリーンに喜ぶか一言言うか悩んだ。ただ甘えるリーンを見て、理性が負けそうだった。


「ただいま。体が冷たいから湯あみしようか。」

「湯たんぽがあるからいい。もう休む?」


じっと見つめて、自分に抱きつく腕に力をこめた妻にルオは優しく笑った。

リーンを抱き上げて休むことにした。リーンに一緒に寝てほしいと言葉に出して願われるのは珍しい。いつもリーンは仕事優先でルオの邪魔はしない。ルオが何度仕事のことは気にしないでと言っても駄目だった。

リーンはルオから離れたくなかった。夫の胸に耳をあて、大好きな心臓の音を聴いていた。ルオの腕の中で徐々に体が温まり、頭を撫でる優しい手に力が抜けて、目を閉じた。

ルオはいつもよりも甘えるリーンに顔が崩れていた。男爵領にいる間はできるだけ傍にいようと決めた。リーンと別行動の視察は予定を詰めて、早めに切り上げることにした。ルオの中では身重で慣れない環境で過ごす妻の傍にいることが最優先だった。ずっと一緒にいたくても明日からの視察は危険なのでリーンは連れていけなかった。腕の中でぐっすり眠るリーンを見つめルオも目を閉じた。


***

翌朝、男爵夫人は上機嫌なルオと穏やかなリーンを見て困惑した。男爵にリーンに剣を向けたことは話せなかった。食事の席でも話題は男爵領のことだった。男爵夫人は自分の不敬を皇太子が知らないのか、妃殿下への無礼を気にしていないのかわからなかった。


ルオは男爵と共に視察に出かけた。

ルオはリーンが貧民が多く整備されていない不衛生な場所に行くことは許さなかった。リーンは確認してほしいことをルオに頼み笑顔で送りだした。

リーンは男爵夫人の接待を受けていた。お茶を飲みながらリーンは男爵夫人を見つめた。断られるとわかっていても提案することにした。


「男爵夫人、もしよければ夫に会わないように男爵領を案内していただけませんか?」

「妃殿下が足を運ぶべきものはありません」


返ってきた答えは予想外だった。

リーンは将来の皇后である。目を背けていいものはない。ルオがリーンの体を心配しているのは知っている。ただリーンはルオだけに背負わせて、優しい世界にいるつもりはなかった。時には自分の目で見て判断しないといけないこともある。リーンは微笑んだ。


「構いません。民の暮らしが知りたいのです。もし殿下に見つかれば私が取りなします」


男爵夫人はリーンの申し出に呆れた。遊びに行きたいと我儘を言っているように見えた。

でも綺麗な世界しか知らない皇太子妃が現実を知ってどうなるか知りたかった。汚れた簡素な服を渡すと躊躇うことなく着替えたリーンに驚きつつも出かけることにした。

リーンは男爵夫人と共に男爵領の貧民街を歩いていた。貧民街を案内してもらえるとは思わなかったリーンにとっては嬉しい誤算だった。

リーンは異臭が漂い、やせ細った人々が座りこんでいる様子に一瞬目を見張った。男爵領がここまでひどい状況とは思っていなかった。

男爵夫人は動じず、静かな様子で民を見る様子に妃は民の様子に何も思わないのかと思っていた。


しばらく歩くとやせ細った少年がリーンの服を掴んだ。物乞いの少年にリーンは視線を合わせた。


「お仕事をお願いできる?」

「ご飯」

「うん。上手に出来たら報酬をあげる」


リーンは少年に銅貨を渡し、買えるだけパンを買ってくるように頼んだ。

少年がパンを買って戻ってきたので、一口だけちぎって口に含んだ。男爵夫人が目を見張ったのは気にしなかった。


「残りを食べてくれる?」


少年はリーンからパンを受け取り食べはじめた。リーンは少年がたくさん買ってきたパンを全部一口だけ食べた。


「これあげる。貴方のおかげでたくさん食べれたわ。これは報酬よ。ありがとう」


リーンは少年の頭を撫でて残りのパンと報酬のお菓子を持たせて立ち去ろうとすると違う子供に服を掴まれた。少年の様子を見ていた子供達だった。


「男爵夫人、この辺りに鍋と火元を貸してくれる場所はありませんか?」


薄汚れた子供を入れられる場所は思い当たらなかった。男爵夫人の様子でリーンは知らないことを察した。


「お仕事をお願いしてもいい?」


頷く子供達を連れて、リーンは買い物をすることにした。炊き出しや施しが悪いこととは思わない。ただそれは一時的で何も解決しないことを知っていた。民には仕事をすることを覚えて欲しかった。

子供達には仕事を任せて対価を渡すことにした。ただ治安も悪いのでお金を渡し襲われることは避けたいので、対価に食料を渡すことにした。

この現状を知って動かない男爵家への不満は心に留めた。


リーンは子供達に広い場所に案内してほしいと頼み広場に着いた。リーンは自分に付いてきた子供達にそれぞれ買い物を頼んだ。お金を渡して逃げるならそれでも良かった。お金を渡した子供達が全員買い物を済ませてお釣りを返しに来たので笑みを浮かべた。厳しい環境でも綺麗な心を持っている。この国の未来は明るい。この子達とならきっと大国を目指せるとニコニコしながら一緒に食事の準備をした。

男爵夫人はリーンの行動をただ見ていた。

食事をおえた子供がリーンに近づいた。


「お姉ちゃん、お母さんにも持っていっていい?」

「いいわ。よく働いてくれてありがとう。これはお給金。御苦労さま。とても助かったわ」


リーンは少女の頭を優しく撫でて、別で用意していた果物とパンと飴を渡した。


「お姉ちゃん、またお仕事くれる?」

「明日のお昼にここで待ってるわ。お仕事がしたい子がいれば連れてきて。大人も子供も歓迎よ」

「うん。」


リーンは他の子供達にも同じ話をして手を振って別れた。そろそろ帰らないとルオ達が戻る時間だった。

男爵夫人は我儘で気まぐれな皇太子妃の行動の意図が掴めなかった。

リーンは自分を不愉快な目で見ている男爵夫人にわざわざ説明するつもりはなかった。


***

男爵邸にもどり、湯あみをして着替えたリーンは報告書を読んでいた。子供達と食事の準備をしている間にイナに情報収集を任せていた。しばらくすると馴染みの商人に会いにいかせた侍従も帰ってきた。侍従から書類を受け取り、明日からのことを考えていた。


ルオは視察から帰り、部屋に戻るとリーンが真剣に書類を読んでいた。気配に聡い妻が自分に気付かないことは嬉しくてたまらなかった。ルオの護衛騎士がいればリーンは気付いた。ただ部屋にいるのはルオだけだった。


書類から顔をあげるといつの間に夫が隣に座っていたことに目を丸くした。


「おかえりなさい。声を掛けてくれればいいのに」

「ただいま。俺の妻の美しさに見惚れた」


ゆっくりと髪を一房とり口づけ笑みを浮かべ、ふざけているルオにリーンは笑った。


「ルオ、欲しい物があるんだけど」


ルオの目が輝いた。リーンから贈り物をねだられたのは初めてだった。


「なんでも贈るよ」


リーンは男爵領の廃墟の広大な屋敷の契約書をルオに見せた。


「別荘が欲しいなら新しい物を建てさせるよ」


極上の笑みを浮かべて散財しようとする夫に笑みを返し、貧民についてまとめられた報告書を渡した。


「家もなく食事もほとんど取れない民が多い。ここは男爵領で一番大きい屋敷なの。ここを貧民の救護所にする。民達に綺麗にしてもらって給金を支払う。いずれ学び舎の建設も貧民達をできるだけ使ってもらうわ。このまま放っておけばいずれ疫病がおこるわ。」


残念ながら仕事の話だった。ルオはがっかりしたがリーンの申し出は必要なことだった。


「男爵の許可は取ったから早めに動き出すか。確かにこの領は放置できない。税が納められてるから気付かなかったけど、ここまで酷いとは。二人でゆっくりしたいのに仕事になったな」


リーンはもともと仕事のつもりだった。ただルオは休みのつもりで来たことを思い出した。リーンの代わりに視察を引き受けて、接待もこなしている。不満な顔をするルオに笑いかけた。


「私はルオといつもより一緒にいられるから嬉しい。それで充分」


ルオはリーンを抱き寄せ、書類にサインをした。リーンの差し出す書類に躊躇いもなくサインをする夫が心配だったが余計なことは言わなかった。


「ルオ、契約は侍従に任せるから最後の日にこの邸を見に行ってもいい?」


ルオは行かせたくなかった。ただ小首を傾げて自分を見る妻のお願いには弱かった。


「少しだけで俺と一緒ならな」


嬉しそうに笑ったリーンに口づけて二人の世界に浸ることにした。

リーンも欲しい物は手に入り、手配はおえたのでルオとの時間を楽しむことにした。


***

翌日も皇太子夫妻は別行動だった。

リーンの早く事業を始めたいという希望を叶えるためにルオが動き出した。リーンは腹心の侍従を貸し出しルオを笑顔で見送り、昨日の簡素な服とローブを着て外出する準備をした。男爵夫人には口止めをお願いすると、同行を希望し驚いたが時間がないので了承し、広場に向かった。

侍従に頼んで呼んだ隣の領に商会を構える馴染みの商人を見つけて手を振った。


「突然ごめん。助かったわ」

「リーンの頼みだからな。旦那の名前でやるんだろう?」


この商人とはリーンが留学中に知り合い嫁いでからは頻繁に手紙でやりとりをしていた。いつも情報を売ってくれるリーンの心強い味方である。この商人が構える商会は医療や植物等に精通していた。茶葉の流通はこの商会に任せるつもりだった。テト達は別の分野で動いており、今回は手を借りられなかった。テト達には茶葉の流通に他の商会を使うことは話して了承を得てあった。


「うん。救護院を作るから今日からその指揮をお願い。護衛の手配も任せる。領収書は後で私に送って。」


商人は丸投げするリーンに笑った。貧民にすぐに仕事を与えたいから力を貸してほしいと昨日頼まれ、翌日動き出す行動力は自分の部下達に見習わせたかった。了承の返事がもらえる前提で腹心の侍従を使いに出す所も。リーンは信頼する商人にしか丸投げしない。商人の世界でリーンに丸投げされるのは一流の証と囁かれていることはリーンは知らなかった。


リーンは広場に集まる貧民に近づいた。


「これから皆さんにお仕事をお願いします。皇太子殿下が救護院を作ります。その準備をお願いします。住む家のない方は屋敷に家族で住んでもらっても構いません。その分給金から少し引かせてもらいます。暴力や盗み等の犯罪行為は処罰します。お仕事をする気があるなら子供も女性も受け入れます。しっかり働くなら食事も用意しますよ。嫌になったら出て行ってもらっても構いません。」


「怖い?」


皇族の命令で動くことに怯える子供の声にリーンは優しい笑みを浮かべた。


「皇太子殿下は優しいのできちんと働く子は褒めてくれますよ。ただ意地悪する子には怖いお妃様が怒るかもしれません」

「お姉ちゃんも一緒?」

「お姉ちゃんはお仕事があるからずっと一緒にはいられないわ。でも皇太子殿下を優しくて頼れる方だとよく知ってるの。貴方達が幸せに暮らすために力を尽くしてくれる立派な方よ」


リーンは貧民達の質問に丁寧に答えた。商人達はこれが皇太子妃殿下とは誰も思わないだろうと苦笑して見守っていた。一部の貴族が流したリーンの悪い噂も耳に入っていた。


質問もなくなり、リーンは貧民達と廃墟の屋敷を目指した。

貧民には、商人の部下の指示に従うように話し、商人と打ち合わせを進めた。

今後の詳細の話を終えて、数日後に皇太子夫妻として様子を見にくることも話した。商人はルオと面識があったのでリーンが動いていることはルオに極秘と察した。リーンがお飾りの妃になりたいことを商人は知っていたが残念ながらリーンの有能さは隠せていないことは聞かれないので教えなかった。

日が暮れたので商人達に後は任せて、リーンは帰ることにした。ルオよりも早く帰らなければいけなかった。

男爵夫人は皇太子妃の行動が理解できなかった。


「妃殿下、伺っても?」

「ここでは目立ちますので屋敷でお願いします」


簡素な服を着ているリーンが妃殿下と呼ばれることは避けたかった。民の皇族のイメージを崩すのは許されない。

男爵邸に戻り、体を拭いて着替えたリーンはお茶を飲みながら男爵夫人に付き合うことにした。


「なぜこのようなことを」


リーンが急遽救護院を作った理由がわからないことにため息を我慢して笑顔を作った。


「民が不自由な生活をしているからです。民が豊かな生活を送れるように支援するのが皇族の務めです」

「本当は家が動かなければならなかったと」

「否定はしません。ですが無い袖は振れません。私達にも非があるので責める気はありません」


男爵夫妻は最低限の役割を果たしていた。リーンにとっては小国の貴族や領主の頼りなさはどこも変わらなかった。大国の王子は無能と評価するだろう。ただ文化と教育や環境の違いもあり、挿げ替えられる人材もいなかった。皇太子妃のリーンは見捨てることはできないので子供達の成長に期待をかけることにした。


「大国の姫様は私達が無能と?」


無能と思っても言えなかった。男爵夫人に嫌われていることは気付いていた。ただリーンは揉め事を起こす気はなかった。皇族に敵意を隠せないのは貴族として致命的であるが今回だけは見逃すことにした。イナの目が怖いのは気づかないフリをした。イナはリーンが望まないことは絶対にしないので、何か言うつもりはなかった。それにイナの様子に気付くのはリーンの家臣だけである。小国の貴族は鈍いのでイナの些細な変化には気付かなかった。


「とんでもありません。私は無力ですが貴方は違います。貴方はいざという時に民を守る剣になるでしょう。」


リーンに他に褒められることは見つからなかった。


「女が剣とバカにされますか?」


他国には女性騎士もいるが小国ではいなかった。


「私の侍女も武術の心得があります。守られる立場になっても驕らず鍛える姿は尊敬します」

「妃殿下には縁のないものでしょう。私などでよければお教えしましょうか?」


男爵夫人が何に苛立っているかわからなかった。挑発されているのでせっかくなので受けることにした。


「よろしくお願いいたします」


リーンは簡素なシャツとスボンを借りて、庭園に向かった。


「どうぞ、どこからでも」


剣を渡され、構える男爵夫人を見てリーンは穏やかな顔を浮かべながら内心戸惑っていた。

教えるって最初から手合わせ・・・?

リーンに手合わせの経験はなかった。

リーンが悩んでいると剣の交わる音がして目の前には護衛騎士の背中があった。

男爵夫人は目を見張った。二人の男が拘束された様子をリーンは静かに見ていた。

視察から戻りリーンを探しにきたルオは目の前の光景に固まった。身重の妻が剣を持ち、男が拘束されていた。沈黙の中、一番先に動いたのはリーンだった。夫に向かってにっこりと笑った。


「ルー様、お帰りなさい。」


愛しい妻の声に我に返ったルオはリーンに笑い返し、剣を取り上げ護衛に渡した。この場は男爵夫妻と護衛騎士が納めるので、ルオの最優先はリーンと判断し、抱き上げて部屋に向かった。ルオの護衛騎士が固まる男爵夫妻を放置し、指揮をとった。ルオがキレないうちにことを納めなければならなかった。殺気に固まる男達を睨みつけ、尋問を始めることにした。



部屋に戻りソファに座り自分を抱きしめて動かない夫にリーンは体を預けていた。二人っきりで慣れた熱に包まれリーンはふぅっと息を吐いた。緊張が抜けて手が震えた。冷たい殺気を向けられたのは初めてだった。あの場で皇族が取り乱すのは許されないので必死に平静を装った。

ルオはリーンが怖がりなことは知っていた。ただ大国の王族は公的な場で取り乱したりしない。怖がる妻を慰めることにした。


「警備が甘かった。ごめんな。無事で良かったよ」


優しい夫の声にリーンは力なく笑った。


「大丈夫。情けないね。私も剣を覚えようかな」


ルオは強がっている妻の震える手を握った。


「必要ない。リーンは俺に守られるのが役目だから」


リーンは逃げることと暗殺方法は教育されたが戦うことはできない。人の急所は知っていても無防備でない相手には使えない。寝室で夫の殺し方は嫁ぐ前に教えられていた。ルオに抱きしめられてしばらくすると震えは止まった。護衛騎士もルオもいる。怖いことはないと自身に言い聞かせた。


「男爵家を責めないで。私の騎士がいれば命に危険はない。」

「注意はするよ。屋敷に不法侵入者を招くのは・・。なんで剣を持っていたの?」

「男爵夫人が好意で剣を教えてくださるって」


ルオの眉間に皺が寄った。


「まさか、身重なことを知らないのか・・」

「領地のことで精一杯よ。それに了承したのは私よ。怖い顔はやめて。もしこの件で夫人を裁くなら引っ越すわ」


ルオは恐ろしい言葉に、怒りを抑えることにした。イナの部屋にリーンが引っ越せば帰ってくる保障はない。あの冷たい生活は二度とごめんだった。これからやることを思えば男爵夫妻と揉めることはできなかった。次はないと心の中で呟きながら。


「もう離れないからな」


抱きしめる腕に力が籠った。

ルオの視察予定は今日で終わりだった。リーンは不機嫌な夫の機嫌を直すことに専念することにした。ルオが時々冷酷になることは知っていた。いつもなら口を出さない。ただ今回は段取りが狂うので止めなければいけなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ