皇太子夫妻の歪んだ結婚 前編
婚姻の儀を滞りなく終えた小国皇太子夫妻は寝室で攻防を広げていた。
皇太子妃リーンは夫から逃げていた。
自分に手を伸ばす夫となった人物の手を受け入れる気はない。屈辱的な状況に納得いかない。
大国の姫と生まれた時点で政略結婚の覚悟はできていた。それでも許せないこともある。
「嫌。来ないで。なんで、どうして、おかしい」
諦めの悪い妻に夫は優しく諫める。
「いい加減、現実を受け入れろよ」
「私は貴方のお兄様と結婚したのよ。なんで入れ替わってるのよ!!」
「顔が同じだからいいだろう」
「中身が違うでしょう!?なんで貴方と夫婦にならないといけないのよ」
「婚姻したから」
リーンは盾代りに抱えた枕を思いっきり投げつける。
「なんで入れ替わってるのよ」
残念ながら枕は容赦なく振り落とされた。
「兄上が王位を継ぎたくないって」
「そんなの二人で解決しなさいよ。なんで私を巻き込むのよ!!」
「新たな門出を祝おうか」
数刻前に永遠の誓いを交わした相手にグラスを差し出されても、決して手をのばさない。グラスを叩き割らない自制心を褒めてほしいくらいだった。たとえグラスをみたすワインがリーンの好きな銘柄でも口にしたいと一切思えない。リーンの心の中に吹き荒れる嵐とは正反対の、ずっと穏やかな顔の夫を睨みつける。
「嫌よ。もう国に帰るわ。騙されて婚姻なんて耐えられない」
「同盟はどうする」
「痛み分けよ。婚約者が入れ替わってたなんて。戦争にならないように手を回すわ。このまま大人しく受け入れるなんて耐えられない」
「兄上は俺の婚約者が気に入ったんだよ。だからいいだろう?」
「よくないわ。嫌よ。こんなだまし討ち。それなら言えば良かったのよ。相談されれば破棄したわよ。離縁したところで縁談には困らないもの。騙されて婚姻なんて。誠意のない人間は嫌いなの」
「俺と夫婦の誓いを交わしただろうが」
「お兄様のふりして騙したのによく言うわ。私は貴方の妃になんてならないわ。離縁よ」
「リーンを迎えるために用意していた民たちが可哀想に」
リーンは自分の夫の双子の弟の言葉にさらに眉を顰めた。大国からの皇太子妃を迎え入れるために民が祭りの準備をしている光景を馬車の中から眺めていた。明日は皇太子夫妻の民へのお披露目の日。国民が二人のために街を飾りつけていた。リーンは民に恥じない立派な皇太子妃になるつもりだったが、自分を騙した男に一生を捧げるなんてごめんだ。でも民には関係なく、王族であるリーンは民のために生きることに不満はない。
馬車で通った道を飾り付けていた民を思い浮かべ、民の期待を裏切らずに穏便に離婚する方法を選ぶことにした。夫婦が床を共にしなければいい。体の相性が悪く子供ができなければ、やむを得ないと判断される。リーンは離婚されても困らない。国に帰ればいくらでも縁談はあり、たとえ一度目の婚姻に失敗しても、自分の能力や王家の後ろ盾を欲しがる家や男の存在を知っていた。
「出てって。1年間は公務はこなすわ。一切触れないで。妾でも側室でもいくらでも招けばいい」
妻からの侮蔑の籠った視線に、ルオは戸惑いながらも平静を必死に装う。
ルオとリーンは面識があった。
リーンは見聞を広めるために他国を留学して回っていた。小国にも1年ほど滞在し、共に時間を過ごしたのはルオにとって大事な思い出である。ルオは一度も侮蔑の視線を向けられることはなかった。ただルオはここで折れて諦めるわけにはいかない。国のためにも。自分のためにも。折れそうな心を隠して必死に平静を装う。
「冷静になれ。無理だ。俺はリーン以外を迎え入れる気はない」
「こんな状況で、よくもそんな言葉が言えるわね」
「俺はリーンが兄上を愛しているようには見えなかったけど」
「政略結婚に愛など必要ないわ。でも私には幸運なことに選択肢があった。私はオル様を選んだのよ」
「愛がないなら俺でいいだろうが」
「問題外よ」
「どっちもかわらない。なんで兄上を選んだんだよ」
世界で一番大きく力を持つ大国の姫のリーンに婚姻を申し込む男は多かった。父から婚約者候補とあてがわれた四人の中でルオの双子の兄のオルは一番平凡で力のない小さい国の皇子だった。
オルはリーンの前に跪いて「精一杯努力する。民のために私を選んでほしい。自分は力もなく平凡な男だ。ただ君に誠意のないことは決してしない。だから選んでほしい」と言った。
他の男は自国の権威や愛の言葉を囁くがリーンには嘘にしか聞こえなかった。リーンと婚姻すれば大国の後ろ盾が手に入り、選ばれるために必死になる気持ちもわかっていた。ただ一番後ろ盾がほしいだろう小国の皇子であるオルはリーンに一度懇願しただけ。他の王子のようにリーンに付き纏うことも邪魔することもなかった。リーンの国の王宮で遊びもせずに学ぶ姿に好感が持てた。偶然会っても挨拶をするだけだったがオルの言葉に嘘はなく、一番印象が良かった。
「候補の中で一番誠意を感じたからよ。民のために立派な皇帝になろうとする姿勢も好感を持てたわ」
「俺だって立派な皇帝を目指すよ。誠意にかけることはしない」
どんなに真剣な顔と言葉を向けられても、とんでもないだまし討ちを仕掛けた相手の言葉は信じられない。リーンの中で何かが壊れた音がした。人とは良い意味でも悪い意味でもかわる者。目の前の相手は後者だった。
「ただ間違いだった。人の心は単純じゃないの。離縁の時まで民のために公務は果たす。公務以外で私の目の前に現れないで。顔も見たくないわ」
ルオはリーンの嫌悪の視線と冷たい声と言葉に固まった。
リーンは動かなくなった夫から顔をそむけ、足早に寝室から出て行き、侍女の部屋に向かう。
侍女のイナは扉を開き足早に入ってきたリーンに驚く。初夜を迎えるため準備を整えたので主の部屋は人払いをされていた。
「姫様?」
「イナ、私はこれからここで過ごすわ」
イナは個人の部屋を与えられていたが、決して広い部屋ではない。
「長椅子借りるね。おやすみ」
イナは主が言い出したら聞かないことを知っている。疲れているだろう主の言葉に頷いた。
イナとリーンの付き合いは長い。長椅子で眠る見たことがないほど荒れている主を見ながら、明日は簡易のベッドを部屋に入れようと決め、リーンに毛布をかけ、頭に枕を差し込み眠りやすいように整える。
リーンは一度怒れば長いが短気ではない。穏やかな気性のリーンが初夜に夫婦喧嘩をするなど相当なことがあったと察しても、夜着に乱れはなく怪我もないので何も聞かずに、気持ち良さそうに眠る主をしばらく眺め、自身もベッドに入り目を閉じた。
***
皇太子夫婦のために離宮が用意されていた。リーンは嫁ぐ前より皇帝陛下から離宮を与えるので皇太子夫婦の好きにしていいと言われていた。そのため離宮の中に足を運ぶことが許されるのはリーンの許した者だけにしてほしいとオルに頼み了承を得ていた。離宮に足を踏み入れるのはリーンの忠臣とオルの腹心だけだったので夫婦が別に過ごしても噂にならなかった。
リーンはイナの用意した食事を食べ、ルオが会議に行く時間に離宮の夫婦の部屋に戻る。
家臣に命じて自分の荷物を夫婦の部屋から自分の執務室に移動させる。警備の都合上、社交以外はリーンは離宮で過ごせるための環境が整えられていた。大国の姫であり国王の愛娘リーンが暗殺されれば戦争の火種になる。リーンは自分の価値はわかっているので周りを精鋭の忠臣で固めている。
ルオは会議が終わり、離宮の夫婦の部屋に戻るとリーンの姿はなく荷物が移動されていた。妻の怒りが納まることを願うしかなかった。
公務の時間なのでリーンはドレスを纏う。そしてイナがリーンの頼みで急遽用意した花がたくさん詰まった花籠を両手で抱えている。大国では姫が荷物を持つことはない。
「姫様、本気なんですよね?」
「当然よ」
イナはリーンの花籠を持つことを諦めて静かに後ろに控えた。
ルオは馬車の前で待っていると大きな花籠を抱えて現れたリーンに固まる。パレードに花籠は必要ない。それでも、これ以上リーンの機嫌を損なうわけにはいけないので好きにさせた。
「持つよ」
人目のある場所のためリーンは笑顔を作り、不自然に見えないようにゆっくりと首を横に振って拒否する。ルオの手を取る気はなかった。顔も見たくなく、隣の席にも座りたくなかったが、公務なので我慢する。
リーンは馬車に乗り、花籠を膝の上に抱えて、笑顔で民達に花を配り、ルオに一度も視線を向けない。
イナはリーンが夫に触れられたくないために考えた策を複雑な気持ちを隠して笑顔を浮かべて見守る。リーンが嫌悪する人物は初めてだった。パレードは無事に終わり、民達は花を振舞い美しい笑顔でずっと手を振る麗しの皇太子妃殿下を歓迎した。
ルオはリーンの美しさに見惚れながらも、一切視線を向けず、笑顔で拒絶する仕草に心が折れそうだった。
パレードは逃れても、夜会でのエスコートを避けるすべはなかった。
皇太子妃が夫がいるのに他の者のエスコートを受けられない。リーンは公務と割り切り、ルオのエスコートを受け社交をこなす。大国の姫は本心を隠して、笑顔を纏うことは得意である。柔らかな笑みを浮かべていたリーンの心の中で嵐が吹き荒れていたことに気づいている人物はいなかった。
夜会での役目を終えたリーンは疲れを理由に早めに切り上げる。
ルオには自分のことは気にせず最後までお楽しみくださいと慈愛に満ちた笑みを浮かべて立ち去る。はたから見れば、仲睦まじい皇太子夫婦の光景を酒の肴に夜が更けていった。ただルオだけはリーンが全く自分を見ていないことに気付いていた。
皇太子夫妻の婚姻の儀は表面的には滞りなく全てを終えた。
リーンとルオは公務以外で顔を合わせることはなかった。リーンは執務室とイナの部屋で生活していた。
ルオが探してもリーンは決して姿を見せない。リーンは気配に聡く、逃げることが得意である。リーンの出身の大国の王族は暗殺者から逃げ方を徹底的に教え込まれる。大国の王族は優秀であり、大国の力を削ぎたい他国が暗殺者を送り込むのは日常茶飯事だった。
***
リーンに避けられすれ違いの生活を送っているルオは途方にくれていた。
ルオは婿入りして国を離れているはずだった。リーンの婚姻前にルオの島国への婿入りが決まっていた。双子の王子に王位争いをすすめる動きがあり余計な争いを生まないためにルオの婿入りの準備が整えられた。ルオはリーンが初恋でも自分の役割をわかっていた。まさか旅立つ前日に最後の別れに来た兄に一服盛られると思っていなかった。目覚めた時には、すでに兄は島国に旅立っていた。双子皇子はそっくりで、入れ替わることもよくあった。見分けられる者は幼馴染の護衛騎士だけ。
兄のベッドで目覚めたルオは慌てて、人払いをして父に報告した。それはリーンを迎える前日の事だった。
大国との婚儀は他国から来賓も多く、延期はできない。二人に残された選択肢は限られていた。穏便に婚儀を終わらせる方法は一つだけ。この日からルオがオルになった。
婚儀は儀式まではほとんど言葉を交わさないしきたりだった。ルオは花嫁衣装を身に纏った美しいリーンを見た瞬間に胸の鼓動が速くなり、赤面するのを必死で耐えた。ルオは自分が彼女の隣にたてるとは思っていなかった。婿入りが決まった時、美しいリーンを見れずに旅立つことは心残りだったが、未練を断ち切るためなら丁度いいかと考え直していた。念願の花嫁姿のリーンを前に、彼女を手に入れられるなら入れ替わりも悪くないとさえ思ってしまった。皇帝は国さえ荒れなければ双子のどちらが皇位につこうと構わなかった。無事に婚儀が終わり二人は安心していた。
ただ誤算があった。
ルオが寝室に訪れると、夜着を纏ったリーンが礼をした。
「誠心誠意お仕え致します。オル様、末永くよろしくお願いいたします」
「歓迎するよ。こちらこそよろしく」
リーンは違和感を感じて顔をあげる。夫の頬にそっと手をあててじっと見つめた。自分を見つめて動かないリーンに察したルオが口づけようとさらに顔を近づけると、勢いよく突き飛ばされた。ルオの伸ばす手をリーンは迷いなく振り払った。目の前にいる人物は夫になるはずだったオルではなく弟のルオだった。
ルオはリーンの激しい拒絶にばれていることを悟った。初夜を迎える準備が整えられた状況で、リーンが拒絶する理由など他になかった。
自分達を見分けるリーンに驚きを隠して、説得しようとしたが、リーンはルオに説得されるような人間ではなかった。
言葉を交わすほど戸惑いの顔から嫌悪の顔に変わっていきルオの知らないリーンだった。
初夜の時に寝室から出て行き公務以外で姿を見せない妻に途方にくれていた。ルオの記憶の中のリーンは惜しみない笑顔と親しみのこもった視線をむけていた。嫌悪や侮蔑の顔など見たことがなかった。公務では仲睦まじい皇太子夫婦を演じるのに、リーンの瞳が自分をうつさない事実が心をえぐっていた。事情を知っている護衛騎士は主の肩をそっと叩く。なんでもそつなくこなす主の情けない顔は、婚礼前まで一度も見たことがなかった。
「殿下、生きてます?」
「どうすればいいかわからない。兄上はなんでこんな」
現実逃避しようとするルオに護衛騎士は気まずい顔で口を開く。
「可愛い弟の初恋を叶えるためでしょうか。それに殿下の婿入りした国は果物の宝庫。そして名産品は殿下の好物でしたね」
「いくらでも取り寄せればよかっただろうに」
「もぎたてが一番ですから」
兄の我儘に弟は呆れてため息さえ出なかった。オルは要領のよい人間だったが時々突拍子もないことをする。自分に一服盛る前に相談してほしかった。自分が頷かないとわかったから強硬手段に出たんだろう。リーンに無責任なことを言った兄を殴りたかった。リーンは誠意を感じたから兄を選んだと言った。ただ兄のしたことは誠意のカケラもない。リーンと婚姻できるなんて幸運な立場だったルオの兄への不満が止まらなかった。なにより、
「兄上に誠意を感じて、良い皇帝を目指すと信じて嫁いできたリーンが気の毒すぎる」
「殿下は被害者なのに。正直に話すのはいかがですか?」
「兄上が食べ物を選んで国を出たと?信じないだろうが」
ルオがそんな事情を聞かされたらバカにされてると思う自信がある。弟でさえ受け入れられないのに、大国の姫のリーンは尚更だろう。
「どうですかね。リーン様が留学されていた頃が懐かしいですね。二人でノートを並べて政策について楽しそうに語られて」
「あの頃は幸せだった。惜しみない笑顔が向けられていた」
「誠意を示すしかないですよ。せっかく初恋を手に入れる機会に恵まれたんです。頑張ってください」
無責任な友人の言葉にルオは頭を抱える。ルオは用がなければリーンの執務室に入れない。
また執務以外のことを話せば、容赦なく執務室から追い出される。リーンの護衛騎士の忠誠はリーンにあり、ルオの命令は聞かない。
悩んだルオは扉の前に控える騎士にリーンへの手紙と贈り物を預けた。
贈り物は夕方には夫婦の部屋に開封されずに送り返されていた。それでも毎日手紙と贈り物を護衛騎士に預ける。
試しに視察で見つけた花を一輪添えると、花だけは送り返されなかった。どんどん部屋に受け取られない贈り物がたまり時間だけが過ぎていった。
リーンはルオの行動に混乱していた。
最初は謝罪の手紙だった。しばらくすると食事の誘い。はては、視察の感想など送られてくる手紙の内容は様々だったが全く意図がわからない。
物で懐柔される気はないリーンは贈り物を決して受け取らない。ただ手紙と一緒に添えられた処理のされていない花が枯れてしまうのは惜しくて、花だけは手に取った。
リーンの執務室の花瓶に花が日に日に増えていく。花はルオが公務で留守な日にも届けられる。天気に関係なく、どんな日も。
「姫様、いつまで避け続けるんですか?」
花の香りをかいでいる主に侍従が声をかけた。
「離縁できるまで」
「俺には忙しいのに毎日姫様に贈り物を続ける殿下が誠意のない方には見えません」
「家臣に用意させているだけでしょ? 物で懐柔される気はないわ」
「姫様の知る殿下は」
「時間の無駄よ。私の見る目がなかったのよ」
「花を気に入っているのに、お礼も言わないのはどうなんですか?」
「頼んでないもの。でも花に罪はないわ」
リーンは窓から見えるルオの姿をそっと見た。リーンの知るルオという友人は人を騙すような人間ではない。でも、婚約者にも友人にも裏切られたリーンの傷は深かった。
何も言わずに消えた婚約者。兄と入れ替わった友人。この国ではオルが本当はルオと知る人間がほとんどいないことに気付いていた。リーンの友人はいなくなった。
事情があるなら相談してくれれば、手を回した。だまし討ちするほど自分が信用されていないことが悲しかった。リーンの手元にある丁寧に棘を落とされた薔薇が、荒れた心を慰めてくれる気がした。