第1話 始まりはいつも0から
「ゲホッゲホッゲホッ……おぇ」
息を吹き返すかのように咳き込み、喉に残っていた水を不快感とともに全て吐き出す。咽せすぎて、せり上がってきた胃液を唾と一緒に吐き出した。
「きもちわるっ……」
込み上げてくる吐き気に顔をしかめ、口元に手をやる。そんな時にある事に気付いた。
「あれ?」
めいいっぱい、酸素を吸い込み吐き出す。肺の中が酸素で満たされ、満杯になり限界を迎え吐き出した。
「……苦しくない」
息が吸える。思う存分、息を吸って吐ける。あの窒息感も、圧迫感もない。ただ呼吸ができるという周知の事実に、喜びを感じたのは初めてだ。何度も何度も、確かめるように呼吸を行う。
「感触もある」
ペタペタと濡れた手で頭から足まで順番に触る。髪の毛は水で濡れ、手に張り付いた。頰も同じく。胸や胴を触れても、固い感触があるだけで通り抜けるような事はない。足に限っては、きちんと付け根から生えている。半透明でもないし、見えないパーツもない。
「は、はは……」
地面に倒れ、空を見上げる。ビショビショになった服が背中に張り付くが、気にならない。青く澄み切った空がどこまでも続き、一匹の鳥が羽ばたいていた。
「あははははははははははっ!!!」
溢れ出る感情を耐えることができず歓喜の声が辺りに響き渡る。
「死ぬかと思ったあああぁぁぁっ!?!?」
仰向けのまま顔に手をやり、叫ぶ。笑っても、歓声を上げても、この喜悦が収まらない。
「生きてる、俺生きてるっ!」
足はちゃんとあるし、呼吸はできるし死んでない。あの薄暗い川底の奥ではなく、日差しが暖かく照らす川辺にいる。
「生きてる……っ」
生命の尊さを、生きてることの素晴らしさを心の底から噛みしめる。ひとしきり、一人で静かに生きることを噛み締めた後、深く息を吐いた。
「眩しい」
広大な青空に浮かぶまん丸な太陽の日差しが木々の隙間から差し込み、少し眩しい。日差しを遮ろうと、腕を空へ伸ばすが力が入りきらず、地面に落ちた。
「……よかった」
生命を脅かされるあの緊迫感も、焦りも恐怖もない。生きているという事実に安堵し、しばらくはなにもしたくない。
「溺死だけは御免だな」
俺は死んでいた。あの意識が奪われた瞬間、少なくとも俺は死んでいた。仮死状態っていうのかな?あんな苦しみを味わうのは二度と御免だ。
「ここは、どこだ?」
流れが比較的穏やかになった川が目の前を流れている。ちらりと川の流れてくる方を見ると、かなり遠くに朧げだが、滝があるのが見えた。遠目から見てあの大きさという事は、近くで見れば実際は、かなり巨大な滝だろう。
「よく、生きてたな俺」
おそらくあの滝の上から落ちてきたわけだが。丈夫に産んでくれてありがとう、母さん。
「早く抜け出したいんだが……」
大分流されたみたいだが、依然として場所は変わらず森の中。が、川に落ちる前にいた場所よりは大分、外側に来たのではないだろうか。薄暗いのに変わりはないが、なんとゆうか、不気味さが薄れたように感じる。
「わからねぇ」
しかしスマホもなければ、見知った場所でもないわけで。森に関する専門的な知識などないため、どう行けば、この森から脱出出来るのかなど見当もつかない。川の流れる方へ向かえば、なんとかなるかもしれないが……。
「まぁ、いいや」
今は生きているという事実に喜べばいい。湿った川辺ね上で大の字を描く。服の中に水分が染み込んでくるが、ずぶ濡れ状態の今、そんなことは今更だ。
ガサッ
「っ!?」
そんな気の抜けた状態だったからだろう。この危険な状況下でも、なにかが近づいているのに気づかなかったのは。草木を踏み分ける音が聞こえ、飛び跳ねるように起き上がった。
「あ、起きたんだね。気分はどう?平気?」
しかし、俺の予測を裏切って現れたのは人間の少女だった。雪原のように白い髪。その髪に呼応するかのように肌も白い。その肌は、モデルが涎を垂らして妬みそうなほど、傷一つなく、きめ細やかだ。まん丸な栗鼠を彷彿させる瞳は、翡翠石のように鮮やか。敵意が感じられない人物の出現に、ほっと肩をなでおろし
「……えっ?」
ある一部分が目に留まり、愕然とした。
「あ、怪しい人じゃないよ。君を助けた命の恩人ってやつかな?」
「まじでか……」
少女がなにか言っているが、俺はそれどころじゃない。少女の見た目は、いわゆる美少女に分類されるだろう。いつもの俺なら、眼福だとかなんだとか言っていたかもしれんが、そんな余裕は今の俺からは消え去っていた。
「エルフ……?」
俺の問いに答えるかのように、少女の長い耳がピクピクと動いていた。
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少女に連れられ、森を抜け出した俺は現在、辺り一面が緑色の草原のど真ん中にいた。ただ、念願の森から抜け出す事は出来たが、安心はできていない。森を抜けた事による安堵が4割、目の前の謎の少女による不安が3割。
「もうね、君を見つけた時はビックリしたよ」
そして、残る恐怖3割が俺の感情を占めている。その理由は、少女の見た目と今、騎乗している移動用の生物のせいだ。
「流木みたいにプカプカ浮いて流されてたからね。最初は死体かと思ったもん」
内心、ビクビクしながら騎乗しているのはコモドオオトカゲも、ビックリなサイズの大蜥蜴。馬並みの大きさに恐竜のような顔。強靭そうな二本の足で、直立している姿はまさに怪物。
「あ、あぁ」
馬?のような役割を果たす蜥蜴のような生物の上に跨り、少女の腰に手を回して振り落とされないようしっかりと力を入れる。女の子の腰に触れられていると思えば役得だろうが、今は恐怖でそれどころじゃない。
ーーー俺、食われないよな?
「陸に上げた時はピクリともしなかったけど、生きててよかったよ」
「えっ、と助けてくれてありがとう?」
「なんで、疑問形なのさっ!」
ーーー殺されるかもしれない、と思っているからです。
なにが面白いのか、カラカラと笑い出す少女。できるものなら、今の俺の状況も一緒に笑い飛ばしてやりたいが、意思に反して頰はヒクつき、歪な笑みが浮かび上がる。誰か、この状況を説明してくれ。馬並みの蜥蜴に、耳の長い少女。俺は、今どこにいるんだ?秘境の地、ぐん○にでも迷い込んだのか?
「私が偶然寄りかかったから、よかったものの。なんで溺れてたの?」
「知らない狼に突進食らって、落とされたんだよ」
内心に秘めた恐怖心を悟られないよう、できるだけ平静を装う。……震えてないよな、声。
「しかも結構川の流れが早くて。陸に上がろうにも上がれなくてな」
目を覚ましたら見知らぬ森の中にいて、動揺しながらも辺りを探索していたら、いきなり草陰から出てきた黒い毛並みの狼に突進されて、川へドボン。それから後は、知っての通り。溺死する寸前まで溺れていたというわけだ。
「突進されたのってもしかして、黒い毛並みの狼?」
「知ってんのか?」
「うん。私があの森に行く原因になったのがその狼なんだ。本来ならもっと北に生息してるはずなんだけど、最近、あの森で目撃情報が多発しててね」
川に突き落とされたことを恨めばいいのか。少女をこの森に来させる要因になってくれたのを感謝すればいいのか。……いや、感覚が麻痺してんな俺。あれは、恨むわ。俺が助かったのも運が良かっただけで、溺死一歩手前だったのだ。あの狼は、絶対許さん。
「でも、武装もしてない一般人をガルムが見逃すなんて、珍しいね」
「ガルム?」
「あの狼の名前なんだけど、執心深い怪物で有名なんだよ」
「なら、運が良かったんだな、俺」
その運がいつ尽きてしまうかと戦々恐々としているが。
「今こうして生きていられるのも、運が良いってことかな」
「でも、油断しちゃダメだよ。酸欠で溺れてたから、もしかしたら後遺症が残っているかもしれない。体の方は大丈夫?」
「いや、なんでか知らんが逆に元気が有り余ってるくらいだ。体が軽い」
鉛のように重たかった体が、今は羽毛のように軽い。気だるかった気分も心なしか、スッキリして爽やかな気分だ。ただ、大蜥蜴に騎乗しているため、若干の手足の震えがあるが。
「回復魔法を使ったからそれかもしれないね」
「回復ま、ほう?」
なんか、聞き捨てならない言葉が聞こえたんだけど。
「むっ、信じてない?こう見えても、回復魔法の使い手なんだよ、私」
「い、いや信じてる信じてないとかじゃなくて。……魔法なんてあるのか?」
「んー、溺れたせいか記憶が混濁してるのかな。意識は、平気?はっきりしてる?」
少女が優しげな瞳で俺の身を心配してくる。やめてくれ。そんな優しい瞳で俺を見ないでくれ。俺は正常……のはずだ。
「大丈夫……のはず」
記憶が混濁してる可能性もなくはないが、現代社会で育った俺の記憶が正しければ、魔法は空想だと記憶している。
「本当に?」
「意識ははっきりしてるつもりだ」
「この国の名前、言える?」
「日本だろ?」
緑で生い茂った広大な平原が広がり、地平線が見えるが流石に他国に出た覚えはない。思い出せる最後の記憶は、学校帰りの電車で睡魔に負けて寝てしまったのを覚えている。それで、目を覚ましたらあの森にいたんだが……。なんという、ファンタスティックッ!
「うーん。どうやら、脳に重大なダメージを負ってしまったようだね」
憐れみの視線が少女から送られてくる。
「頭のおかしな奴扱いはやめて貰おうか」
「自分の名前は言える?」
「名前は神埼来夢。高校二年生で、B型の水瓶座」
「所々、よく分からない説明があったけど、とりあえず自分の事については覚えてるみたいだね。で、この国の名前は?」
「ジャパン」
「……これは診てもらわないといけないみたいだね」
その言葉とともに少女が大蜥蜴に付けられた手綱を巧みに操ると、大蜥蜴の走る速度が上がった。
「いやいや、ちょっと待って!?」
誤解だから、誤解!?
「脳のダメージは早く診てもらわないと後遺症が残るかもしれないから、急がないと!」
待って待って、振動が大きくて振り落とされそうだから!俺、そんな女慣れしてないから君に抱きついてるわけじゃなくて、腕を回してるだけなんですけど!?
「お、落ちる落ちる落ちる!?」
役得だ、とか考える暇もなく少女にギュッと抱きつく。
「もっと抱きつかないと、危ないよ!」
俺は、女慣れしてねーんだよ!?
「怪我人に振動は一番与えてはいけないって知ってます!?」
「やっぱり、まだどこか痛いの!?」
驚いた顔で少女が振り向く。普通の少女の動作に過ぎないその行動は、普通の少女でない人間が行うと凶器になる。少女の人より長い耳が俺の目を突き刺した。
「めええええええええええええっ!?!?」
瞳を突き刺す痛みに、腕の力が緩み、大蜥蜴の背から放り出される。俺の体がフワリと宙を浮き、束の間の浮遊感が俺を包み込んだ。
「あっ」
少女の気の抜けた声が遠くで聞こえる。
「ぐぼるぶっ!?」
声を聞き届けたのちに落下。凄まじい衝撃が体を襲い、変な声が漏れ出る。石ころのように転がり、口内を切り、肌を切り、数回地面をバウンドしたところで、ようやく止まった。
「あぁっ!?」
少女が悲鳴をあげる。俺の手足は痙攣し、陸に打ち上げられた魚のように、地面に横たわる。
「し…死ぬっ」
「ご、ごめんね!今すぐ、助ける!」
いや、病院へ連れてってくれませんか。これ絶対に骨折れてる。ボキッて聞こえた。ボキッて聞こえちゃったから。
「び、病院へ……」
大蜥蜴から飛び降り、こちらへ向かってくる少女に震える腕を伸ばして助けを求める。
「治すから、安心してっ」
「いや…これ、は無理で、しょ」
息も絶え絶えに、言葉を述べる。少女はそんな俺の意見を否定するかのように、俺の目の前で膝を地につけ、腕を突き出した。
「【天使の慈愛よ神の寵愛を此の者に】」
ーー妄言癖の空想少女か。
やはり、危ない奴だったか。いきなり意味不明な呪文を唱え始めた少女に、諦めに近い感情が芽生えた。しかし次の瞬間、そんな俺の思いを裏切るかのようなことが起きた。
「は?」
少女の周囲に優しい光が集まり、少女と同じように、暖かな光が俺を包み込んだ。癒していく。
「……ファンタジー?」
鈍痛が調和され、痛みが消えた。肌を切り流れていた血も、光に包まれるやいなやみるみるうちに消えていく。
「痛くない」
数分と経たない内に、俺の体から傷が消えた。目を瞬かせ、驚愕する。信じられないモノを見た。体の調子を確かめるように、腕を動かし立ち上がる。拳を握ったり開いたり。
ーー痛みはない。
「ふーっ、よかった。間に合って」
少女が額から流れる汗を手の甲で拭った。常識では考えられない現象に、足場が崩れるような感覚を味わい、くらりとした。
「……どういうことだ?」
信じられない、信じることができない。
「ここはどこだ?」
常識、奇跡、未知、恐怖。
「ど、どうしたの?」
知らない、分からないという事実に動悸が激しくなる。フラフラとした足取りで大蜥蜴に近づき、寄りかかる。大蜥蜴の体は、やっぱり血が通っているかのように温かい。
「うわっぷ」
大蜥蜴が俺の頰を舐める。思いのほか柔らかな舌が、頰を撫でて涎がべったりとついた。
「は、はは……っ」
未知との遭遇に、理性が飲み込まれそうになる。一旦、落ち着こうと空を見上げ
「……まじかー」
もう何度目かになるか分からない、未知の生物が空にいた。
「……ドラゴン」
太陽の光を反射させ、鈍色に輝く黒い鱗を持つドラゴンが広大な青空を飛んでいた。