第60話:僕がちょっと大人になった日
教室に着くと、真っ先に走り寄ってきたのは、男友達ではない。
「カケルくんっ!」
「あ、い……」
睨まれた。
「り、リンちゃん、おはよう」
「おはよ。それよりもさ、ハチコちゃんとモップちゃんは? カンタは? カメさんは?」
あまりに前のめりな井上さんに僕は身を引きながらも、首を横に振った。
「……こんなに早くに戻るなんて思ってなかったな……」
僕の机によりかかる井上さんに、僕も頷いた。
「思ったより、早かったよね」
「もっと長くても良かったのに。もっとハッチといろんな話したかったなぁ……」
残念がる井上さんの声だが、死にそうなほどのしょげ方ではない。
心の底からの『残念だ』という、そんな顔。
きっとこうなる現実も想像していたに違いない。
それに井上さんとハチミツとの絆は薄れていない。むしろ強くなってるぐらいだ。
「……もっとしゃべりたかったね」
僕が言うと、井上さんはちょっと悩んだ顔をした。
「でも昨日たくさん遊べたし、こうなることは決まってたし」
眉毛をハの字にしながら笑う井上さんは、どんな表情でもキラキラしてる。
それを僕に向けているから、陽キャのイケメンがこちらを睨んでる。
……けど、井上さんより、怖くないや。
そんな女子カーストでも上位の彼女だ。
あっという間に女友人が囲み始める。
これは、辛い。
想定外です!!!!
「ちょっと松岡くんといつ仲良くなったの、リン?」
「夏休み、楽しかったね、カケルッピ」
僕に満面の笑みで話しかけないで、井上さん!!!!
「え、うそ、マジ!?」
「ついに、リンに春が来たか!」
騒ぐ女子たちに、僕は戸惑うばかり。
僕が一生懸命距離をあけてきたのに、簡単に踏み入って、さらに踏み荒らして、……もう、逃げられないっ……!!!
「ちょ、ちょっと、い」
井上さんの目つきが鋭い。
「り、リンちゃん、ちょ、言い方……」
「カケルッピ、別に夏休み一緒に遊んだだけじゃん」
「えー、どこいって遊んだの? リン、ずっとバイトだったじゃん」
「そんなの、ひ・み・つ!」
あーやめて。その言い方やめて。
井上さんの言う秘密は、秘密基地のこと。
だけど、相手はもっと深読みしそうな言い回し。
絶対これ、僕を巻き込んでからかってる。間違いない。本当に迷惑。
僕、本当にノミの心臓になのに、こんなに女子のいい匂いに囲まれたら……。
ああ、わかった。
今日で僕、死ぬんだ……
この絶望にまみれた僕に、救世主が!!!!!
「ちょ……カッケ、なんで女子に囲まれてんだよ……」
茫然自失となるのは、友人の拓也だ。
「拓也! 助けてっ」
「は? オレ、お前と友だちやめる」
「なんで?」
「同じ隠キャだと思ってたのに、夏休みデビューしやがって!」
僕の後ろが拓也の席なのだが、さも怒ってますという風に、どさりと腰を下ろした。
その態度に、僕が焦り戸惑っていると、リンちゃんが拓也に声を掛ける。
「拓也くん、カケルくんってカッケって呼ばれてるんだ」
「……え、あ、そうだけど……」
「じゃ、あたしもそう呼ぼう」
井上さんが言い出すと、他の女子までそう呼び出す始末。
さらに拓也も巻き込まれての会話に、拓也の鼻の下が伸びだした。
どうせ、お前はこう言う奴だって知ってたよ。
でもこれはリンちゃんの策略だ。
まんまと引っかかった拓也は上機嫌。
ふと井上さんと目が合った。
瞬きに見せかけて、ウィンクしてくる。
僕はそれに大げさにため息をついて、しょうがないと笑ってみせた。
こんな顔ができるのも、井上さんだけかもしれない。
それもこれも、みんなの出来事があったからだ────
つまらないホームルームが始まり、担任の適当な話のあと、体育館で始業式となる。
だらだらと向かう僕たちに、教師たちの「しっかり歩けー」という声が聞こえてくる。
なんとなく横に来た井上さんを見下ろしながら、こうして歩くのが少し緊張しなくなっている自分がいることに驚いた。
「リンちゃん、」
「なに?」
「ちょっと、付き合ってよ」
「……え?」
僕は井上さんの手首をつかむと、するりと階段の角に隠れた。
そして、すぐ奥にある非常階段の扉に向かうと、静かに開けて滑り込んだ。
手首を掴む僕を、井上さんはぐっと引いた。
「か、カケルくん、どこ行くの?!」
「屋上」
「え? 屋上なんて行けないじゃん!」
「大丈夫、行こうっ!」
今度は僕がぐっと手首を引くと、井上さんが一歩近づく。
その目は不安と期待が入り混じった目だ。
僕はそれに微笑みかけると、井上さんもいたずらっ子のように笑い返してくれた。
リズミカルになる鉄階段の音。
僕たちは持てる限りの力で駆け上がっていく。
息切れをしながらたどり着いた屋上は、柵扉があり、しっかり鍵がされている。
ただ鎖などはなく、本当にドアノブ1つの鍵だけだ。
額に汗をにじませ、リンちゃんは息を整えながらドアノブに手をかけた。
「鍵、かかってるよね?」
「うん。でも、このドアノブをガチャガチャすれば……」
鍵の下がる音が鳴った。
「……すご」
「ここも僕の秘密基地。誰にも教えてないんだ。だから、井上さんが初めて」
ふたりで飛び込んだ屋上は、日差しが強くて、だけれど風が気持ちよくて、とても眺めがいい。
少し小高いところに学校があるのもあって、街全体がよく見渡せる。
僕は苔むしたコンクリートの上に横になった。
誰も手入れしていない屋上。
劣化が見えて、古ぼけた空気がここにはある。
過去がよどんで溜まっている気がして、僕は好きだ。
寝転がると、空が視野いっぱいに広がった。
まるで自分が浮いたように見えて、暑いぐらいの日差しが現実味を消していく。
井上さんも僕の横でごろりと転がり、ハチコとモップみたいに声をあげた。
「わぁ……」
僕も1人で忍び込んだとき、そういった気がする。
「ここ、空たかーい、ひろーい……気持ちいいね……」
「いいでしょ、ここ」
「でも、なんであたし連れてきたの?」
「なんでだろ? なんか、サボってみたくて」
「それ、あたしまで巻き込むこと?」
「うん。ちょっと大人になった気がしない?」
「……ありえないし」
ふてくされた声が聞こえる。
僕は笑うけれど、そのせいで余計に井上さんの不機嫌が増した気はする。
「今日の1日がちょっと失敗したって、これから先、すんごい影響なんてないよ」
「そんな、人生100年でみたら大したことなくても、学校生活で見たら重犯罪じゃん」
「でもさ、思ったんだ。10年後とかに今日を思い出したいなって。あんな夏休みを過ごしたのに、これからは勉強の日々になって、なんでもない日がどんどん今日を上書きしちゃう。でも、今日にゃあって鳴いたんだ。元に戻っちゃったんだ……」
僕はぐるんと体をまわし、井上さんを見る。
井上さんは顔だけこちらに向けた。
「僕さ、今日の特別を、リンちゃんと共有したかったんだ……ダメかな?」
僕が笑うと、やっぱり井上さんはそっぽを向いてしまう。
よっぽど気持ち悪い顔なんだろうな……
吹き出すのこらえてるのかな。
耳まで赤いし…………はぁ……
もう一度仰向けになったとき、スマホが震えた。
井上さんのスマホにもちょうど連絡が入ったようだ。
『おはよう!』
風間さんだ。
祖母よりは若いけれど、それでもラインを使いこなしているのに感心してしまう。
『保護猫と犬のカフェをすることにしたの。よかったらバイトに来ない? ちなみに、時給は千円。カフェが安定すれば昇給あり!』
それを読んで、僕は井上さんと顔を見合わせた。
「僕、やろうと思うんだけど……」
「あたしもっ!」
改めて僕らに笑顔が灯った瞬間だった。





