第19話:夕闇色の帰り道
帰りが少しでも楽なようにと、井上さんからの提案で僕は自転車を押しながら歩いている。
それを先導するのは、『食パンのお尻』という異名を持つ、ハチミツだ。
……本当にあの白と茶色の部分、見事な食パンだ。
ふかふかの食パンが、ぷりぷりとしながら歩いている。
ハチミツがちらりとこちらを振り返った。
はっはっと息を切らして見上げるのは井上さんだ。
「カケル、あたいの尻、見過ぎよっ」
……僕だった。
「しっ、ハッチ。しゃべるの禁止」
井上さんが慌てて言い、あたりを見渡すが、たまたま人がいないタイミングだったようだ。
お互い顔を見合わせ、安堵する。
あいかわらずハチミツのお尻がぷりぷりと揺れるのを僕は眺めながら、やっとの思いで話を切り出した。
「い、井上さん……明日、本当に来るの?」
「え? ダメだった?」
「あ、いや、親戚とかも来るのに。僕でも面倒なのにさ。全然、来なくていいんだよ? いや、むしろ来ない方が……」
「んー……確かに行かないって選択肢もあったけど……
なんでだろ、多分あたし、カケルくんが気になるのかも」
「……え…?」
思わず止まった僕の空気に、井上さんは天然ハンマーを振り落とす。
「だって、たくさん人が集まるんでしょ?
ハチコとモップ、安全なところにおいておけるかなぁとか心配じゃんっ」
ですよねー
そーですよねー
僕は素早く笑顔を作り、大きく頷いた。
「たしかにハチコとモップの置き場とか考えてなかったかも」
「だからさ、いざとなったらあたしがリュックに詰めて、ハッチと一緒に脱出も可能だし。
味方は1人でも多い方がいいよ!」
純粋な眼差しが痛い。
いや、逆に僕の心が弄ばれているのだろうか……
逆に、僕の心はこの時間がおわるときまで生きていられるのだろうか………
こんなこと、今までの体験にないことばかりで、全然追いつけない!
むしろ、一般的な青春が僕を追い越してるっ!!
「カケルくん、ここまでで大丈夫。あれ、あの白いマンションがうちなの。
また明日も会えるね! またねっ!」
そう言って走りだした彼女の背中は小さいのに、なんで僕の心には大きく映るんだろう。
夕日で黒く沈んだ姿が、僕のなかで焼きついた影のように見える。
マンションの入り口までの間、井上さんは3回振り返って、手を振った。
僕はいつ振り返るかわからなくて、彼女が入り口に入るまで目が離せなかった。
井上さんの影を目に焼きつけたせいか、まだ明るい時間なのに、辺りが夕闇色に見える。
薄暗く沈む景色のなか、僕はゆっくりとペダルを踏み込む。
あの家に帰らなきゃいけない───
その事実が、現実が、ペダルを踏むたびに、重く重くのしかかる。
まるでハチコとモップが人質に捕らえられ、怯えている保護者のようだ。
でも、だから僕はあの家に帰ることができる。
「……帰ったら、ハチコとモップとおしゃべりしよ」
そう声に出したら、ようやくペダルに力が入った。
今日は上機嫌な声で夕飯に呼ばれた。
いつものラインじゃない。
声で、呼ばれた。
その違和感から始まった夕食は明日の話で、さらに言えば、井上さんのことを聞きたい母の独壇場だった。
明日、主役の兄に度々声がかかるが、うんともすんとも答えず、彼はただ咀嚼に集中しているようだ。
「まぁ、維、恥ずかしがっちゃって」
そんな母の声も聞こえないのか、いつになく口をしっかり結んだ兄がいる。
その母の横で、父はいつもよりも優しい顔で箸が動いている。
「駆に春がきたか」そう喜ぶ父に、母は肘でこづき、「維に、ですよ」そう訂正した。
そんな状況の中の僕は、母からの質問を「ああ」「うん」「ううん」この3語で乗り切っていた。
それでもあまりにしつこい母の質問に、父がたしなめるほどだ。
「だってあなた、東英高校の子よ? 頭だってそんなに悪くないし、気遣いできそうだし」
僕だって、東英高校通ってるんですけどねー
「維の学校の子なら、母さんとなんて会話にならないじゃない。東英ぐらいがちょうどいいわ」
……それが本心か。
気持ち悪い。
「ごちそうさま」
僕が食べ終わった食器を持って流しに置くと、兄も続いて食器を下ろしに続いた。
「……ちっ」
あからさまに大きな舌打ちをさせる。
それは僕に女の子との友達ができたことへの苛立ちなのか、明日のことへの苛立ちなのか、全く区別はつかないけれど、兄の機嫌を損ねたのはぼくのせいだろう。
「ごめん、兄ちゃん」
これは反射だ。
膝を叩かれたら足が跳ね上がるように、舌打ちをされたから、僕はそう返す。
「……マジうざい」
天才と言われる兄だけど、語彙力はないと、僕は思ってる。
引き止める母に「井上さんに連絡しなくちゃ」なんて適当な言葉を付けたして部屋に戻ってきた。
大きくため息をつくと、ベッドの上で眠る2匹が顔を上げる。
「カケル、今日、たのちかったの」
そういうのはハチコだ。
満足そうに毛を舐めはじめた。
「モップも! みんなで食べたごはん、おいしかった!」
モップはごろりと体をひねり、毛で膨れた体を転がした。
「明日は井上さんもハッチも来てくれるけど、知らない人もいっぱい来る日だから、僕の部屋から出ちゃダメだよ」
「モップ、下にも行きたい」
「わかるけど、見つかると離れ離れになっちゃう」
「あたち、それやだ」
「僕もやだから、これだけは約束ね」
「「うん!」」
2匹を腕に抱えて顔を埋めると、2匹は笑い声を転がした。
それに僕もつられて笑ってしまう。
みんなで意味もなく笑っていると、カメさんが歩み寄ってきた。
「明日は私もしっかり注意しましょう。
カケルさんからハチコさんとモップさんがいなくなっては、報告する内容がなくなってしまいますからね」
「お願いするね」
小声のなか、楽しくみんなのご飯がすんだところで、僕は久しぶりに読書をしようかとベランダに出る。
今日の夜は涼しく感じる。
この前言ったハチコの秋の匂いは、まだ遠いけど。
本を開いて読み始めると、ハチコとモップは少し遊んだあと、食後もあってか僕に寄り添うように丸まりだした。
おしりのあたりが、暑い。
そして、動けない……
カチャン
鉄の柵に、硬いものが捕まる音が鳴る。
この音はカンタだ。
全く姿は見えないが、奥の手すりからカチャン、カチャンと音を鳴らして近づいてくるのがわかる。
「カンタ、今日はほんと、ありがとね」
「大したことじゃねぇよ」
ぬるりと闇から体を出したカンタに僕が菓子パンを投げてやると、見事にキャッチし、コッコッと器用に飲み込んだ。
「でもよ、あれから巡回してるが、やっぱ、公認だって言って奪おうとする動きがあるな。
……なんであいつらあんなに必死なんだ?」
僕とカメさんはうーんと頭をひねる。
唸る声に合わせてモップが体をひねって寝返った。
「……もしかしたら、カメさんが向こうにもいるのかも」
僕がふと言った言葉に、うちのカメさんが食いついた。
「どういう意味ですか?」
「この期間を知ってるんじゃないかって思って」
僕の憶測を促すようにカメさんがこくりと頭を揺らす。
「カメさんが知っているように、他のカメさんだってこのしゃべる期間が短いことは知ってるよね?
だから彼らの研究内容を完成させるために、必死に動物をかきあつめてる、とか」
「向こうにこちら側の協力者がいる……あり得ない話じゃないです……」
「でもよ、なんで話せる亀が必死に動物集めさせてんだよ」
「あの教授のやっていることを宇宙人に伝えるためだったら、いろんな知恵を与えるんじゃないかな」
「でもそんなことしたら、たくさんの動物たちが、飼い主が、悲しみます……」
カメさんの声が震えた。
僕も同意だ。
今まで仲良くしていた動物と引き裂かれるなんて意味がわからない。
思わず重くなった空気を割いて、スマホが震えた。
開くと、ラインに赤い印がついている。
「井上さんですか?」
カメさんの予知通り、井上さんからだ。
『今日はお疲れー! あたしもオツカレー!
明日は何時に行けばいいー?』
『井上さん、お疲れ様。明日は11時で大丈夫。手ぶらで来てね。母にもそう言われたから』
『わかったー! ハッチも今日楽しかったって! また勉強会してねー』
バイトの隙間だろうか。
短いやり取りだけど、緊張する……
それに。
ちょっと…どころじゃなく、嬉しいっ!!!!
画面を食い入るように見つめる僕に、カメさんがため息をつく。
「カケルさん、顔面歪んでますよ。特に鼻の下」
「うるさいなっ」
「「カケル、変な顔ぉ〜」」
2匹はスマホの震えで起きたようだ。
体を並べて僕を見上げ、「変な顔〜」と合唱する。
「ほら、ハチコとモップも言いだしたじゃん」
2匹揃って僕をからかう姿を動画に撮りながら、今日も夜が更けていく。
明日を思うと、憂鬱が胸を圧迫してくる。
だけど、井上さんの笑顔が浮かんできて、ふっと軽くなる。
僕の味方だっていう、それだけが、僕にとっての救いのようだ。
「さ、明日もいっぱい楽しもうね」
2匹を抱えて僕がいうと、明るい声がベランダに響いた。
────僕は今を楽しむ。
そう、決めたんだ。