第18話:本当の敵、それは僕にとってだけど
本当の敵。
それは、母だ。
なんで忘れていたんだろう……
井上さんを家まで送りながら、僕の頭の中はその存在で充満していた─────
■■■
僕らは楽しく昼食を終えたあと、遊び盛りの彼らをベランダに残し、勉強会を開催した。
要望どおり、数学を。
「あたし、ほんとバカだからさぁ」
僕の狭い部屋に折りたたみのテーブルを床に置いて、座布団をしいての勉強会。
床に座りなれない僕は、あぐらと正座を繰り返しながら井上さんの数学を見ていく。
井上さんが数学がわからない理由が、僕はわかった。
それはあの先生!
先生には悪いけど、先生の教え方が悪い……
おおざっぱにいうと、ただ黒板に教科書を写して終わり、そんな授業。そのせいで井上さんは数学が理解しきれてなかったわけだ。
「ここにこの公式が当てはまるんだけど……」
「え?……こう?」
「そ。で、そのまま計算してみて」
「……カケルくん、なんでこれ使うの?」
「うんと、この数式の場合……」
問題を黙々とこなす井上さんから目を離し、ベランダをちらりと見ると、みんな遊び疲れたのか、お昼寝タイムだ。
ちょうどいい日陰で身体をダラりと伸ばして寝転がっている。
ハチミツに、モップ、ハチコがそろってお腹をだして寝ている姿は微笑ましい。
「あ、」
井上さんのその声に僕が視線を戻すと、床に消しゴムを転がしたようだ。
僕がとっさに腕を伸ばすと、井上さんも腕が伸びてくる。
止められないお互いの勢いは、おでこをぶつけて静止した。
「ご、ごめん、井上さん」
「だいじょぶ! あたし石頭だから……」
ぎゅるん、という音が聞こえた気がする。
それぐらいの勢いで僕は顔を首を井上さんと逆方向に回した。
みんながいるから勘違いしてたけど、ここの部屋にいるのは、僕と、井上さん………
気づいたら、耳まで甘くなる。
暑い。
いや、熱いっ!!!!!
「……え、エアコン、少し強くするね!」
リモコンをひったくり、エアコンを強風に切り替える。
ごぉと唸り、動きだしたエアコンは冷たい風を大量に吐きだしはじめた。
少し無言の時間に、僕たちはどちらから、なんの言葉を話そうか迷っている。
僕の視線が踊っているように、井上さんの視線も天井にしばられたままだ。
「……さ、あと2問ですよ、井上さん」
みかねたカメさんの声が部屋に響く。
その声に救われた僕らは、再び数学の問題に取りかかることができた。
お互いに小さな安堵の息が落ちたのは言うまでもない。
もうすぐ終わりだという区切りで、2杯目の麦茶を取りに下へ降りたとき、玄関の鍵が下りる音が聞こえる。
腕時計を見ると、もう16時。
思った通り、白い玄関ドアから現れたのは、母だ。
「おかえり、母さん。友達来てるから」
母は答えることもなく、靴を脱ぎそろえている。
今日も兄の好物を作るために、マイバックいっぱいの食材を詰め込んで帰ってきたようだ。
それを大事そうに抱え、居間を抜けてキッチンとの境にある食卓テーブルへどさりと置いた。
僕は母の後ろをついてキッチンにつくと、麦茶を注いで運んでいく。
「駆、麦茶なくなったら作り足してよ」
「……わかってるよ」
僕は母の方を見て答えたけど、母は食材を見たままだ。
それぐらいに、僕の興味はあの玉ねぎより下なんだ。
改めて理解しながら居間のドアを器用に足で閉めた。
「カケルくんのお母さん?」
「あ、うん」
麦茶を渡すと、井上さんは「ありがと」のあとに、その言葉をくっつけた。
僕はなんでこのとき口ごもったのだろうか。
隠したい存在だとしても、絶対に隠しきれない存在なのに。
「ね、親にこのこと言った?」
このこと、とは、部屋で転げ回わっているしゃべる彼らのこと。
断じて、僕たちのことじゃない。
ってか、僕たちのこと……って何……!?
まだ何も始まってないし、始まらないし、何考えてるんだ!?!?!?
「ちょ、カケルくん? なんで止まってるの?」
「え、あ、あ、いや、あ……親に言ったか、だよね?
あー…うちはすぐ引き渡すっていうから……」
僕の取り繕いはうまくいったようで、井上さんは僕の言葉に頷いた。
「うちも。やっぱ大人はさ、いつものルールが崩れるのに弱いよねぇ」
「そうだね」
喉を鳴らして麦屋を飲み込んだ井上さんのその言い方が、ちょっと大人びていて、そして子供っぽくて、なんだか気に入ってしまった。
『いつものルールが崩れるのに弱い』
ルーチンどおりにいかなくなると気分的に気持ち悪くなる、そんな感じだろうか。
長い時間をそう過ごしているからこそ、いきなり何か変化するとそれがとてつもなく大きく感じる。
その点、子供はそのルーチン期間は短い。
だからこそ、とてつもない変化でも感じる振り幅は小さい。
こんな年で、大人になりたくない。そんなフレーズが頭に浮かんだ。
馬鹿らしいけど、ちょっと青春な感じがする。
「カケルくん、急に笑ってどうしたの?」
僕の気持ちが顔に出ていたようだ。
僕はまだ冷えたままの麦茶を一気に飲み干して、思い浮かんだ言葉も飲み込んだ。
麦茶が胃の中に落ちていく感覚が食道を走る。
大人になりたくない。この言葉が体に染み入ったような気がした。
そんな麦茶を飲み終わった僕に、カメさんが言う。
「では、今日の範囲は終了ですね、カケルさん」
「そうだね。疲れたでしょ、井上さん」
「ううん、大丈夫! すんごいわかりやすかった!」
さ、帰るよ。ハチミツに井上さんが言うと、ハチミツは首をぷいっと横に振る。
「あたい、もう少し遊ぶわっ」
「ハッチ、それはダメ」
「だってハチコとモップがまだ遊びたりないっていってるもの!」
その声にハチコとモップが大反応だ。
キャッキャッと転がりながら「遊ぶー遊ぶー」と繰り返している。
「ダメだよ、ハチコ、モップ。井上さんも予定があるからね」
「ほんと! はぁ……バイト行きたくなーい」
井上さんは、ハチコとモップの頭をぐりぐりなでて立ち上がった。
「ハッチ、あんましわがまま言うと、夕ご飯なしだから」
「あたい、帰る!!!!」
リュックを背負った井上さんにぴょんとハチミツが飛びかかる。それを抱きとめ、井上さんは部屋のドアに手をかけた。
「じゃ、カケルくんのお母さんに挨拶してから帰るね」
こういうとき、僕はどうしたらいいかわからない。
井上さんは当たり前のようだ。
軽快に階段を下りていく。
下りおえた井上さんが階段の上で見下ろす僕に視線を投げる。
『紹介して』と────
僕はハチコとモップに部屋から出ないように、静かにしているように言いつけ、階段を勢いよく下りた。
その勢いで僕はドアを開けた。
「母さん、友達帰る」
流しに向かったままの母は僕の方には向かない。
絶対に。
「あ、お邪魔しましたぁ」
彼女の声に肩を震わせた。
友達といっておいたから、女子だと思わなかったようだ。
玄関のスニーカーを見ればすぐわかるものだけど、僕に興味がないから、さらに余計に興味がないのだろう。
すぐに居間を出てスニーカーを履きだした彼女の元に、仕切ったはずの居間のドアが勢いよく開いた。
「ごめんなさいね、挨拶遅れちゃって……あ、お名前は?」
母だ。
「あ、すみません、あたし、井上っていいます。お邪魔しました」
「いいえ、たいしたお構いもしないで。
ね、井上さん、もしよかったら、明日も来ない? うちの維のお祝いの日なの」
「たもつ……?」
訝しがる彼女に僕がすかさずつけたした。
「僕の兄ちゃんの名前で……」
「あ、あの頭のいい?」
「そうそう、そうなの! 全国模試でトップ成績とった、そのお祝いをするのよ。親戚とかもくるんだけど、よかったら井上さんも来てくれないかしら? 同世代の子が少なくって、よかったら」
「……わかりました。お昼間ですか?」
「ええ、そうよ」
「明日、たしかバイト夜だったので……じゃ、明日もお邪魔するね、カケルくん!」
「おばさん、腕によりをかけて美味しいご飯作るから、楽しみにしてて」
彼女と母の会話を聞きながら、井上さんがこんなに社交的じゃなかったらよかったのに。
そう思ってやまない。
なんでそんなに簡単に受けちゃうんだよ……
ぺこりと頭を下げて玄関に手をかけた彼女に、僕は慌てて「送ってく!」声をかけると、「ありがと。じゃ、外でハッチのリードつなげてるね」その声を残してドアが閉まる。
「駆、利発そうな子じゃない。維にお似合いだわ」
気持ち悪い。
僕はシューズを履ききれないまま、玄関の扉をこじあけた。
まるで後ろからゾンビが迫るゲームの主人公のように。
結構重いシーンが続きますね……
でもちゃんと、ドタバタと楽しむ回がもう少ししたらありますので、
今しばらくお待ちください( ;∀;)