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あの恋は上書き保存します。  作者: 名木雪乃
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不倫の恋


 今日のデートは、仕事帰りの夜桜見物。

 会社から徒歩15分くらいのところに、お花見ができる市内でも人気の公園がある。

 会社の外で待ち合わせをして、彼とふたりでのんびり歩いてそこへ向かう。


奈由なゆちゃん」


 名前を呼ばれて差し出された彼の掌に、私は戸惑いながら手を伸ばす。

 彼はにっこり笑って、私の手を握った。

 いつも彼の車での移動が多かったので、こうやって外で手を繋ぐのは初めてだった。

 私の人生でも男性と手を繋いで歩くなんて、初めてのことで緊張した。

 男性にしたら比較的色白の温かく大きな手。恥ずかしいけれど、嬉しかった。


 少し肌寒い夜のお花見会場は集団で宴会をしている人たちが多く、私たちみたいにただ桜を観賞しているだけのカップルはほとんどいなかった。

 だからか、宴会中の人たちに軽く冷やかされた。


 吊るされた提灯と夜桜を見上げながら、たまに彼のこともこっそり盗み見しながら公園の端から端まで歩いて来た。


 公園の片隅は、人の気配は無く、先ほどの賑わいとは対照的な薄暗い静かな空間だった。

 公園を囲っている手すりの先は、広い川が流れている。

 見なくとも良いのに、真っ暗なそれを見下ろす。


 夜の水は嫌い。怖い。引きずり込まれそうで。

 それなのに、見てしまう。静かに揺れる水面みなもを。


 彼の手を強く握って、そっと彼を上目遣いで見てみると、優しく微笑まれた。

 目じりが少し下がっているところが、彼の優しい雰囲気を引き立てている。

 その整った顔立ちに見惚れていると、彼の唇が下りてきた。

 ドキドキしながら目を閉じ、何度目かの、でも今日は初めてのそれを受ける。


 彼、林田はやしださんは私の恋人ではない。

 きちんとお付き合いしているわけでもない。

 お互い好きとか、ましてや愛しているとか、言葉にしたことはない。

 言葉にできない関係。

 そう、彼には妻子がいる。既婚者だ。

 そんな人を好きになってしまった。

 いけないことだと知りながら、この気持ちはどうにもならなかった。

 何も先が見えないのに、今、こうして一緒にいるだけで、今だけの幸せに満足していた。



♦♦♦♦♦♦



 林田さんは、同じ職場の第二営業課の主任で29歳。

 私は第一なので、直属の上司ではない。

 第一の逢坂おうさか主任と林田さんが同期のこともあり、第一と第二は営業課同士仲が良く、一緒に飲み会などもしていた。


 私のアパートが林田さんの家と方向が同じだったので、残業で遅くなると、たまに林田さんが車で送ってくれた。

 帰りの車の中では、仕事のアドバイスをしてくれたり、小さい息子さんの子育ての話をしてくれたり、少し前までは、彼とはただそれだけの関係だった。


 会社自体は今年度は売り上げが落ち込み、経営も厳しいらしく、契約社員が数名更新されずに会社を去った。先月寂しい送別会を行った。

 残業も自然と多くなり、みな目に見えて疲れていた。


 ある日、私はお客様にしつこく値切られ、断り切れず、独断で必要以上の割引をしてしまった。

 結果、契約金額が会社の規定の粗利益率あらりえきりつに達しなかった。

 叱られるなら翌朝より、夜の方が良い。残っている社員もまばらだし。


 私が提出した粗利益表あらりえきひょうを眺めた上司の逢坂主任の顔が険しくなった。


津嶋つしま、おまえ、契約社員の鈴木さんたちがどんな思いで退職していったかわかってないのか?』


 上司のその重い言葉は、私の甘ったれた心を完全に打ち砕いた。


 契約社員の方々は、ほとんど正社員と変わらない仕事量をこなしていて、昨年入社したばかりの私なんかよりずっと会社のためになる仕事をしていた。

 それなのに、会社の業績が悪くなると、情け容赦なく最初に退職させられてしまう。


『みんなが必死で利益をあげようと努力しているときに、平気でこういうことするな! 少しなら良いだろうと思ったかもしれないが、みんなが同じことをすれば、会社にとっては大きな損失になるんだ!! その結果の最悪な状況を見たはずだろ!!! きちんと利益率を守ることは、会社を守り、社員を守ることと同じだ』


 逢坂主任の言葉が、胸に突き刺さる。


『すみません……。お客様がもう少し割引して欲しいと何度もおっしゃられて、それで……』


 消え入るような声しか出せなかった。

 逢坂主任の言う通りだった。


 大卒で昨年4月にこの会社に入社して、まだ一年未満だが新入社員とはもう言われない。

 仕事には慣れたが、責任感は乏しく考え方はまだまだ甘かった。

 頭の隅で私が叱られればそれで済む、お客様が喜んでくれるならという、目先だけの安易な気持ちがあった。それで、お客様の申し出を聞き入れてしまった。


『一言、上司に相談してからお返事しますとか、そのくらい客に言えるだろう? なんですぐ俺に連絡を寄こさない?』

『すみません』


 私が悪い。浅はかな行いをした自分は、社員失格だ。


 逢坂主任にそのあと何を言われたか覚えていない。


『もういい』


 その言葉をうなだれた頭の上から聞かされて、そのまま頭を下げると、涙を堪えてストックルームに駆け込んだ。


 偶然その中にいた林田さんに酷い顔を見られてしまった。


『津嶋さん?』


 彼の明らかに心配してくれている優しい声に、私の心はすがってしまっていた。


『もしかして、逢坂に怒られた? あいつ、言い方がちょっとキツイからね。津嶋さん、気にしない。仕事が終わったなら送るよ』

 

 林田さんは私が落ち着くまで、遠回りをして高台の公園の駐車場に車を停めて慰めてくれた。


『きみひとりのせいで、契約社員が更新されなかったわけじゃないよ。そんなに思いつめないで』


 私は彼の車の中で大泣きした。



 しばらくしてようやく泣き止んだ私の頭を、林田さんは撫でてくれた。

 そして、額に柔らかく温かい何かが触れたのがわかった。


『泣き顔が可愛かったから』


 林田さんは目を細めて私に微笑みかけてくれた。


 おでこにキスされた!? それだけで心臓が口から出そうなくらい驚いた。

 女子高、女子大で奥手だった私は、当然彼氏などいたためしはなかった。

 私が狼狽えて固まっている様子を見て、林田さんは『ごめん』と言うとすぐ私に向けていた顔をそむけた。

 とても驚いたけど、嫌な感じはしなかった。


『いいえ、話を聞いてくださってありがとうございます』


 なんとかそう言った。


『嫌だったら嫌って言って。セクハラになってしまう』


 林田さんはこちらを見ないで、もう一度私の頭を撫でた。



 この日から、林田さんが残業帰りに車で送ってくれるときは、寄り道が多くなった。食事をしたり、ただドライブをして夜景を見たり。

 私はこの寄り道を、彼に誘われるのを心待ちにするようになってしまった。

 私は林田さんが好きになっていた。

 

 もしかして、この関係は不倫というもの?

 この恋は、不倫の恋?

 

 林田さんには奥様とお子さんがいるのを知っている。

 早く家に帰してあげないといけないのに、林田さんともっと一緒にいたいと思ってしまう。

 でも、どこかで深い関係になってはいけないというセーブはかかっていた。


 たまに緩く抱き締められたり、触れるくらいのキスをされたりはしたが、それ以上は何もされないし、求められもしない。

 おでこじゃなくて、唇にキスされた時は頭がどうにかなりそうだった。

 ファーストキスだった。好きな人からのキスだから、嬉しかった。

 でも、憧れていた最初のキスの相手が既婚者って……。

 林田さんからは、キスはされても好きとは言われたことがない。

 私は林田さんのことが好きなのに、好きだと、私はどうしても言えなかった。

 こんな関係がこの先も続くのだろうか。

 続けていいのだろうか。

 この恋の先には何も無いとわかっているのに。




♦♦♦♦♦♦



 夜でも明るく賑やかなお花見会場、その外れの薄暗い陰で、こっそり抱き合いキスを交わす。

 林田さんの左腕が私の肩に回され、唇を合わせていた。

 何かいつもと違う感じがしたのは、彼が私の着ていた薄手のコートのボタンをひとつ外し、その隙間から手を滑り込ませたからだ。

 中に着ていたカーディガンの上から胸に手を置かれた。


「!?」


 頭の中が混乱して、鼓動は跳ね上がり、身体が震えた。


 その時、こちらへ駆け寄ってくるような足音が聞こえた。


「おまえたち!! こんなところに、いたのかっ……」


 私の背後から、荒い息遣いと共に、苦しく吐かれる声がした。


「逢坂……!?」


 林田さんの手が私から離れた。

 

 え? 逢坂主任!? どうしてここに?

 

 逢坂主任は、肩で大きく息をしている。相当息が上がっていた。


「馬鹿野郎っ!!! 林田、おまえ、俺の部下になにしてる!? 目を覚ませ、津嶋!! こいつは既婚者だ!! おまえは間違ったことをしてるんだ。津嶋、来い!」


 逢坂主任の目が怒りに満ちていた。

 でも、その鋭い眼が向けられているのは私ではなく、林田さんにだった。


「主任……」


 私は震えていた。

 不倫の恋が知られてしまったのだ。どうなるのだろう?


「奈由ちゃんとは、同意の上だから」


 林田さんは逢坂主任をしっかり見返していた。


「馬鹿か! 右も左もわからない社会人一年の女の子だぞ! こいつには同意も何もわかってない。おまえが引け! 津嶋に手を出すのは絶対に許さない!! ここで引かないなら、部長に言うからな」


 逢坂主任は林田さんに詰め寄ると、上着の襟をぐいと掴んだ。

 林田さんは、何も言わず逢坂主任にされるがままだった。

 

 逢坂主任が私を心配して、本気で言ってくれているのがわかった。

 そうだ、このままでは暗い水の中で溺れるところだったかもしれない。

 逢坂主任は林田さんの襟を離すと、今度は私の方へ向いて、腕をぎゅっと掴んできた。


「!」

 その手を振り払うこともできたのに、しなかった。

 ぐいと引き寄せられ、林田さんから離された。


「行くぞ。津嶋」


 有無を言わさない強い言葉だった。


「奈由ちゃん!」


 林田さんが眉を下げ、とても寂しそうな顔をして、私の名前を呼んだ。


「ごめんなさい、林田……主任」



 最初にすがった私が悪かったのだ。

 男の人に誘われて喜んでいた私が悪かったのだ。

 断らなかった私が悪かった。

 嫌と言わなかった私が……。



「あいつの毒牙にかかるところだったんだぞ。おまえも自覚しろ! つけ入るすきを見せると、寄ってくる馬鹿もいるんだ」


 私は逢坂主任に掴まれた腕を引っ張られながら、お花見会場を後にした。

 林田さんではなく、逢坂主任と一緒にいるのが不思議だった。



「本当に悪い男は無自覚で、大概顔が良くて優しい。それに既婚者の方が意外と大胆だったりする。おまえ、林田とは二度とふたりきりになるな。まさか、その、もう深い関係とかじゃないだろうな。言ってる意味わかるか?」


 逢坂主任が、まだ厳しい目を向けてくる。


「そ、そういう関係にはなっていませんから!!」


 慌てて否定する。


「今後も気をつけろ。当分俺の目の届くところにいろ。林田には釘をさしておくが、奴からの連絡は絶て。おまえも連絡するなよ。わかったな」


 本当に釘を刺しそうな顔をして、私に命じる。


「はい……」


 返事をした私を見つめる逢坂主任の顔が、少し優しくなった感じがした。


 公園から離れると、私の腕を強く掴んでいた逢坂主任の手が離れた。

 ほっと肩の力を抜いたと同時に、今度は手を掴まれた。


「!」

「行くぞ」


 逢坂主任は静かにそう言うと、また私の手を引いて歩き出した。

 私が林田さんのところへ戻るかもしれないと、心配しているのだろうか。


「……悪かったな。俺が怖いか? 俺の物言いはキツイか?」

「はい。い、いいえ」

「気を付ける」

「え!?」

「気を付けるから、俺に怒られたからって、他の奴に泣きつくな」


 逢坂主任は、私の手をぎゅっと握ったままずっと離さなかった。


企画のテーマに沿っているかどうか、心配したまま投稿してしまいましたm(__)m

次話以降は明るい感じになっていきます。


念のため

粗利益とは:売上高から原価を差し引いた大まかな利益です。その比率を粗利益率といいます。


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