使役術
暗い一室。揺り椅子に座る白い肌をした黒髪の女性。
年の頃は20代半ば、長い睫毛に縁取られた瞼はピクリとも動かない。
「そろそろ目を覚ましてくれないかい? 眠り姫。」
クスクスと笑いながら、さして本気で言っているわけではない声が彼女にかかる。
3ヶ月。彼女はもうそれだけ長い間、揺り椅子の上に座って過ごしていた。今更声をかけたところでどうなるとも思っていない。
それは特別な揺り椅子。彼女の祖父が座っていた、思い出の椅子。
揺り椅子から移動させても、いつの間にか揺り椅子の上に戻っている。それを悟らせることは決してなく、ただ、それが当然だというように揺り椅子に身を預けているのだ。
「老師に守られているように感じるんだろうかね。」
形見分けにもらっていた椅子がこんな風に役に立つ日が来るとは…彼女よりもさらに白い、色素のないような青白い肌と髪を白いローブに包んだ男はうっそりと微笑んで、椅子の背を少し押して揺らした。
彼女は大切な『研究対象』。その彼女がここに留まっているのは、間違いなく、その椅子に染み着いた魔力の残滓にすがっているから。彼女の弱い精神を考えれば、簡単なことだった。
彼女はもう『家族』に顔向けなど出来ない。そう、信じ込んでいる。
そんな身で生きていたくなどないのだろう…けれど、アンデッドとして甦ってしまった限りは、簡単に死ぬことなどできない。
リッチを廃せるのは高位の僧侶の聖魔法だけだと記録には残っている。しかし彼の知る限り、近隣で現状それを為せるのは、彼女のクランに在籍するアークシェルという男だけだ。
自分を殺してくれというのと同意のことを、彼女が大切に思っている仲間に願えるわけもない。
だから、心を閉ざした。
意識がないわけではない。おそらくは意識を閉ざしているだけ。
「でも、ぼくももう、待つのも飽きてきたんだ。」
真っ白な指先で彼女の頬に触れようとする。
…バチィ!!
「困った眠り姫だ…いや、正しく蕀姫、かな?」
その指先には爛れた火傷と酷い裂傷。直接触れれば、強烈な攻撃魔法をくらう。それが、彼が彼女に何も出来ずに3ヶ月も待ち続けた理由だった。
指先に治癒魔法を施し、男はまたうっそりと笑う。
「これだけの力をただ眠らせておくなんてね…本当にもったいない。」
けれどそのことが、彼女を魔物化から守っているのだろうと、白い男…ネイヴ=ミザレは推測していた。
高まった魔力の濫用…モンスター化の早かった者達に共通するのは、その身に溢れる魔力をふるって報復を果たしたことだった。
長らく自我を残しリッチの記録を遺した老師は誰も傷付けたりはしなかったけれども、研究のためにその魔力を使い続けていた。過剰な使用でなかったために、その猶予期間が長いものとなったのだろう。
テルザはリッチと化してからほとんど魔力を使っていない。
その身の維持と安全確保━━━使役体とは離れすぎているからそちらには魔力が及んでいないだろう━━━それだけの魔力しか使っていない彼女の状態。これまでの記録以上に魔物化までの期間が長く、その兆候すら見られないことが、ネイヴの推論を裏付けていると言えた。
「本当に面白いよね、テルザは。」
治癒魔法で癒した指先でまた揺り椅子を揺らし、ネイヴは彼女の元から離れる。
━━━…もう一人、面白い子が来てくれたみたいだけどね。
外套を羽織り出掛ける準備をするその口許には、楽しげな笑みが浮かんでいた。
昼食、そして3時のお茶の時間も同席を遠慮していたライラだったが、メイの強い希望で、食堂には彼女にも席を用意されていた。
と言っても、ライラは食事を摂れるわけではない。代わりにメイとノアの間に座り、ノアから魔力の補給を受けながら、みんなの話に耳を傾けていた。
本当は、ノアはライラを食卓に同席させることには消極的だった。というより、自分も別に食事を摂った方がいいのではないかという思いもあった。
どうにも、ネクロマンサーや使役体にあまり馴染みがないらしく、居心地が悪そうにしている男性がいるのだ。彼もこのクランの一員だ。部外者の自分が気分を悪くさせてしまうのは申し訳なかったが、それをそれとなくリトにその旨を伝えると、ウィル…その彼の方に慣れさせればいいのだという返事が返ってきた。
「言ったはずだぞ、ノア。私達は君にうちのクランに入って欲しいと思っている。
元々うちにはテルザもメイもいるのだからな、慣れるべきはウィルの方だ。」
「リトの言う通りだ。君が気兼ねする必要はない。」
ノアは小さな声で囁いたのだが、リトがキッパリと宣言したので、ウィルにもだいたい伝わったようで、すぐに彼の声が上がった。すぐには頭が切り替わらないものの、その意見にはウィル自身も同意であるらしい。
「俺に構わず自由にしてくれ。自分でも頭が固いのはわかっているんだ。だからしばらくはぎこちない感じになると思うけど、そこは勘弁してほしい。
別にあんたが嫌なわけじゃないから、な。」
彼なりに自然に振る舞おうとしているのがわかるが、やはりどこかギクシャクしている。
ディアザルテにいると忘れそうになるが、彼の反応が普通なのだ。彼の中の常識に反してでも好意的に振る舞おうとしてくれるだけで彼の善良な人柄が窺い知れて、ノアはウィルのこともとても好ましく思えた。
「ありがとうございます。」
思わず笑みが溢れる。その笑顔を合図に、カークがみんなに食事を促し、ノアも嬉しい気持ちのまま、食事に手を付けたのだった。
「それにしても…当初の使役体には、礎体本人かどうかはわからないけど、ちゃんと意志があった、っていうことなのかな。」
夕食と食後のお茶の後、ノアは引き続き部屋に篭って資料漁りに没頭していた。
ライラ以外の使役体も、生前の習慣が体に染み付いているのか、曖昧な命令を与えてもある程度自律して行動することができる。同じように、助かりたいというネクロマンサーの思いを命令として受け取っただけかもしれないが、初めて戦場に立った使役体の記録を読み返すに、まるで自分の意思で剣を取って立ち上がったかのような節がある。これは、ライラを呼び戻してからずっと気になっている記述だった。
現在のネクロマンシーと当初の死霊術とは大きく違う点がある。
それは、礎体を動かしている原動力だ。
無論、どちらも術者の魔力を糧に成り立っている。だが、使役術の台頭と共に失われつつある技術ではあるが、当初の死霊術では術者の魔力だけでなく、死霊や精霊の力を借りて死体に息吹きを吹き込んでいたはずなのだ。
そう。ライラやメイの例のように。
占術としてのネクロマンシーは、死霊や精霊の声に耳を傾け、人智を超えた知識を得ることを目的としていた。それと使役術が合わさることで、自我を持った使役体が生まれたと考えることは、想像に難くない。
それが何故、現在のように、魔力のみに依存する使役術へと変貌していったのか?
現在残されている技術では、礎体を使役する際には、魔力を補いまた使役を完全なものとするため、魔力を封じた媒体を使うのが一般的である。ライラも、常はローブに隠れているが、ノアが当時の精一杯の技術で精錬した魔石で作り上げたネックレスを身に着けている。
これは、ネイヴがけしかけてきた使役体から学んだことだった。
彼はグズ魔石を使って使い捨ての使役体を作ることに長けていた。魔石の魔力が切れれば、命令を受けて自律していた使役体はただの骸に戻る。ただの骸として転がっていれば、使役主のネイヴとは無関係に、単なる行き倒れとして処理される。
だから、ネイヴは好んでゾンビや仮初めの人格を与えたノーライフを使役していた。死にたてほど怪しまれずに活動させやすいのだと薄く笑うそのエルフ特有の白い面に、何度背中に冷たいものを感じたことだろうか。
ネイヴの底知れなさに薄気味悪いものを感じていたからか、ノアはゾンビやノーライフを使役しようとは思わない。やはり死体の生々しさに畏敬を感じてしまうこともあるが、変わり果てた姿、意思のない骸でもいいからライラに会いたいという思いだけでネクロマンシーを学んだノアには、骸骨以外を使役する必要もなかったのである。
「とはいっても、こっちも学ばないとね。」
メイの状態はゾンビやノーライフに近い。生前に近い肉体を持った使役体のケアがどういったものなのかきちんと把握しておかなければ、メイを助けることも出来ないと考えた。
ノアとしても、実践したことがないだけで、使役術自体はそう大きく変わるわけではない。
だが、一番参考になるはずのネイヴの使役体は使い捨てられていたから、ケアなどはされていないようだった。だからノアは、カークに頼みテルザの研究資料を借りて、紙面とにらめっこしながら、自分なりにノートにまとめる作業をしていた。
テルザの資料にはメイの日々の体調や特徴の変化、強化魔法や治癒魔法との親和性など事細かに書かれていて、まるで医療カルテのようだった。それだけメイのことを案じていたのだろう。日課として自己治癒力を高める強化魔法を施す事で身体維持の補助となることなど、ライラにも試してみたい記述もあった。
「テルザさんは本当に優しいお姉さんだったんだろうな。」
カルテの余白に、まるで日記のような一言が度々書かれている。メイをアンデッドという不自然な形で蘇らせてしまった苦悩、それでも喪わずに済んだことへの安堵、生前と変わらぬメイを見る喜び。彼女のそれらの短い言葉は、同じようにライラを取り戻したノアの心に、ストンと落ちてきた。
スケルトンという形ではあるが、ライラはノアの元に戻って来られて嬉しいと言ってくれた。
魂を引き戻せたこと自体が奇跡的だったが、ひとつが叶えば欲が出る。そうして生身の肉体を取り戻してやれないことを悔やんだけれど、ライラはそんなことは必要ないと答えた。
既に朽ち果てたその肉体には、命を喪った際に受けた辛い経験も染み付いている。そんな穢れた身体はいらない。そんな身ではノアに会うことが出来ない。
だから、これが自分にとって最上の形だったのだと、ライラはノアの目を見て、手を取って、必死に語りかけてくれたのだった。
『ノア、そろそろ休まないと体に毒よ?』
ぽんぽんと肩を叩かれてハッとする。
「ライラ…。」
『ノックをしても気付かないくらい集中していたみたい。
ノアの悪い癖ね。』
微笑んでいるのがわかる肩の竦め方。仕草のひとつひとつに、スケルトンになってもライラはライラなのだという事実が溢れている。
大切なライラ…ノアはそっと彼女の細い肩を抱き寄せ、華奢な体を腕の中に抱き留めた。
「ありがとう。もう休むよ。
ライラは今夜もメイちゃんの部屋に泊まるのかな?」
『ええ。そう約束しているわ。私が傍にいると、随分体調もいいみたい。いつもよりもずっと元気で過ごしているって、レノちゃんも言っていたわ。』
「それは良かった。なるべく一緒にいてあげてくれると嬉しい。
男のおれがメイちゃんとずっと一緒にいるわけにはいかないからね。」
本当はメイにライラを取られたようで少し淋しい気持ちは胸の奥に隠して、ノアはライラに微笑んだ。
ライラもつられたように肩を揺らす。ライラも、似た境遇故かメイの明るい性格故か、彼女と共に居るのが楽しいようだった。
『メイちゃんが私と一緒にいると調子が良くなるのは、私にもわかるの。私を介して、魔力がメイちゃんに緩やかに流れ込んでいるみたい。私はネックレスからも魔力をもらえるけれど、メイちゃんにはそういう媒体が存在しない感じがするわ。私が媒介の役目を果たしてメイちゃんに魔力を補給維持しているみたい。』
「?!」
ガタン!
突然椅子から立ち上がって響いた音に、ライラもノア自身も驚いてしまう。けれども、それより驚くことが、ライラの話の中にあった。
「それは本当に?!」
『え? えっと、何が?』
戸惑うライラに、ノアは深呼吸をして落ち着いてから問いかけた。
「メイちゃんに媒体が存在しない、ということだよ。」