08.魂
痛いくらいの抱擁と、深い口づけ。すべてを絡め取られてしまいそう。
甘く、疼くような痺れが体を伝う頃には、私は立つことができなくなってしまっていた。
崩れた膝を補うようにロイセルに縋り、ようやく唇を解放された。息苦しさに肩で息をしていると抱き上げられてソファへ運ばれる。
「シホ…シホ…。」
名前を何度も呼ばれて頬に額に髪にキスを受けていると、何も考えられない。
でも私は今、幸せを噛みしめている。好きな人に抱きしめられて、名前を呼ばれる。こんな幸せなことが他にあるだろうか。
「ロイセル…好き。好きなの…。好き…。」
思わず漏れた私の小さな呟き。ロイセルは私を抱きしめたまま「うん、うん…」と何度も頷いて聞いてくれた。
コンコンコン。
控え目に扉を叩く音がする。ロイセルが無視していると、もう一度叩かれる。
彼は「はあ〜」と大きなため息をついて、私の額にキスを落として扉へ向かう。そして二言三言廊下の人と言葉を交わすと、戻ってきてくれた。
「シホ、馬車を用意させるから家まで送ろう。」
まだ正気になれない私を、オリーブ色の瞳が覗き込む。慈しみを湛えたその色は私の一番好きな色。
「…ロイセルは?帰って来てくれる?」
「うん、今日も帰るよ。……俺の仕事が終わるまで、ここで待つ?」
「待つ。」
即答すると、ロイセルが聞いたくせに困ったような顔をした。
「ごめん。こんなシホをここに置いておくと、気が気じゃない。やっぱり家で待っててくれるか?今日は急いで帰るから。」
「…うん。夕食作って、待ってる。」
私が俯いてそう言うと、ロイセルは膝まづいて私の頬にキスをくれた。オリーブの瞳が揺らめく。
「急いで帰るから…。」
ロイセルは囁くように言う。
ロイセルに見送られて馬車で家に帰る。馬車に乗せられた手を離すのがとても辛く、扉が締められた時は泣きそうになった。
馬車の中はとても寒い。ロイセルがいない、ただそれだけで寒く感じた。
家に着いても心が麻痺したかのようにたったひとつのことしか考えられず、うわの空で洗濯物を取り込み、夕食の準備をする。
…ロイセル、早く帰って来て。
夕刻、太陽が沈んだ頃、玄関の重い木の扉が叩かれた。ゆっくり鍵を開けると、ロイセルだった。
「おかえりなさい、ロイセル。」
そう言うと、いきなり抱きすくめられて深く口づけられる。扉の鍵も閉めていないのに、いきなりの熱い抱擁に戸惑ってしまう。
彼は唇を解放しても腕を解放してくれない。
「すまない。」
「……ロイセル、怪我は?」
「大丈夫、たいしたことない。気にしなくていいよ。」
「でも…。」
「それよりも、お腹が空いたんだ。」
「…今、できたところ。」
「うん。食べよう。」
そう言うと、ロイセルは残念そうに腕も解放してくれた。
それからは表面上はいつも通り。
ロイセルが簡単な着替えをした後、夕食を食べる。今日はぼ〜っとしたまま作ってしまったから、自分でも何が作りたかったのかわからない。
コロッケ、サーモンの包焼き、野菜とベーコンのキッシュ、ポテトグラタン、パンプキンスープ、オニオンスープ。改めて見ると、いかに自分がうわの空になっていたのかがわかる。
「…シホがここへ来た頃のようだ。」
「……本当ね。」
三年前、騎士館から出た頃は、ずっとキッチンで料理をしていた。時間と手間のかかるメニューばかりを毎日作って、鍋の火を一日中見ていた。
あの頃の私には、それしかできなかったから…。
今日もいつもと同じ穏やかな夕食の時間。
上辺だけはいつものように振る舞おうと、私とロイセルは努力をしていた。穏やかな波の下では激流が荒れ狂っている。
バスルームから出ると、ロイセルがお茶を淹れてくれていた。
いつもなら「何のお茶を淹れようか。」と聞いてくれるのに、今日は既に用意されていた。
「シホ、ここに座って。」
ロイセルがそう言いながら私のカップを置いたのは、二人掛けのソファ。いつもは私がひとり掛けに座り、ロイセルが二人掛けに座るのに…。
濡れた髪をタオルで押さえるフリをしながら、平静を装ってソファに座ると、急に心臓が激しく音をたて始めた。
置かれたカップのお茶にはミルクが入っていない。そっと口に運ぶと蜂蜜の甘さを見つけた。その甘さに助けられ、ほっと肩の力が抜ける。
その時、ロイセルが私の隣に座った。あまりの距離の近さに驚いてしまい、私の体が震えてしまったけれど、彼はそれに気づくことなくゆっくりと自分のお茶を飲む。
私は動揺した気持ちを落ちつけようと目を閉じ、お茶の香りに集中しようとした。でも自分の心臓の音しか聞こえない。激しく脈打つ心臓。隣のロイセルにも聞えてしまいそうなほど…。
その時、手にしていたカップに何かが触れた。目を開けると、ロイセルの大きな手が私のカップを取り上げてローテーブルの上に置く。残ったお茶が揺れている。
そのゆっくりとした彼の手の動きを、私はじっと見ていた。
次にどうするのかと思っていると、急に目の前の彼の影が大きくなって、私は抱きしめられていた。
石鹸とロイセルの匂い。頬に触れる胡桃色の巻き毛。薄い寝間着とカーディガン越しに感じる体温と固い体。背中で交差する力強い腕。
「ロイ、セル?」
少し怖くなって、彼の名前を呼んだ。いつもの優しいオリーブ色の瞳が見たくて、もう一度名前を呼ぶ。でもロイセルは顔を私の肩にうずめたまま動かない。
「…シホ、愛してるんだ。ずっと…。俺はきみに触れたい。きみの心と体に触れたい。…俺を、許してくれるか?」
私を抱きしめたまま、ロイセルが囁いた声は震えているように聞こえた。
「…はい。」
そうして私はロイセルの目の前で、左手の薬指にはまっていた結婚指輪を引き抜いて、ローテーブルの上に置いた。
顔を上げると、暖炉の炎に揺らめくオリーブ色の瞳が見える。それは優しい色ではなく、激情の色を宿した色に変わっていた。
「ロイセル、好き…。」
激情のオリーブ色を見つめて私が告白すると、ロイセルは泣きそうな顔をした。
彼は暖炉の火を始末して、私を抱き上げた。
行く先は彼の寝室。私は急に怖くなってしまって彼の胸に顔を伏せると、私を抱く腕に力が込められたのがわかる。
暗く寒い廊下。扉の開く音。ロイセルの香りがする。彼の部屋に入った。
周りの様子を窺うと、暗い部屋の中で白いベッドが目に入ってしまい、あの人以外の人と経験のない私は反射的に叫んでしまった。
「…っロイセルっ、だめ、怖いっ!」
「大丈夫だから、シホ。」
「でも私…」
「大丈夫。俺はシホを愛したいだけだ。」
「…愛したい、だけ?」
「そう。愛したいだけだ。怖いことなんて何もない。」
恐怖が一気に込み上げてきた私の心を静めた、彼の言葉。
ああ、そうだった。これは愛の行為。求めて求められて、幸せを実感する行為だった。
そっと私をベッドに座らせたロイセルが、枕元のランプに火を灯すと、部屋の壁に大きな影が映った。
「シホ…愛してる。」
私の唇にそっとキスをした後は、額、瞼、頬、首筋。優しいキスが降り注ぐのをうっとりと感じていると、ロイセルに寝巻のボタンを外されていた。
胸元に入り込んでくるはずの、熱く大きな手の感触を想像して身をすくめるけれど、ロイセルは私の胸に手を触れることなく、寝間着と下着の肩紐を肩からすべり落とした。
露わになった片方の胸にロイセルがキスをする。
「…っ、ロイセル、ランプ、消して…。」
「ごめん、それはできない。」
思わず逃げそうになる腰を絡め取られて、ベッドに座ったまま、反対の肩からも寝間着と下着を落とされる。ロイセルの手でさらに素肌を露わにされ、涙がでそうなくらい恥ずかしい。
両手で肌を隠そうとしたけれど、彼に手を取られて阻まれてしまった。
ランプの明かりを消してくれない。そのことが余計に私を追い詰める。
「お願い、ランプを…。」
「だめだ。シホ、きれいだ…。」
私はそのまま固く目を閉じて、ロイセルに身を任せた。
時折、助けを求めるように目を開けると、激情をさらに色濃くした燃えるようなオリーブ色と、壁に映し出された影が見えた。
ロイセルが私に今、何をしているのか。私は今、どんな体勢をとらされているのかが一目でわかってしまう、残酷な影。
彼の想いの甘さと激しさに、私は啼いて泣いて、翻弄され続けた。