07.切掛
私が自分の気持ちに気がついて、何日かが経った。
ロイセルと私の関係は、あれからさほど変わっていない。就寝前のお茶を飲む時間に、私の家族の話をしたり、ロイセルも自分のことを話してくれるようになった。
彼は、教会の子。孤児だった。ご両親は流行病で亡くなられたらしく、物心つく頃には教会にいたとか。教会から学校に通い、そこでジュールやアランさんに出会った。
「領主様は子供に対して良くして下さるんだ。孤児であっても、平民の子であっても、身分のある家の子であっても、平等に同じ学校へ行くんだ。何事も起こらないというわけではないが、お陰で孤児の俺にもジュールやアランという特別な友人ができた。」
彼は穏やかにそれらのことを話してくれたけれど、本当はもっと色々な葛藤があったのだろうと思えた。でもそれは語られることはない。学校のことを話すロイセルは、楽しそうだった。
学校を出ると、森の番をしていたウェンルさんという方に師事して、森の手入れの仕方を覚えた。
独り身だったウェンルさんは自分の子供のようにロイセルを可愛がり、ついには引き取って下さった。この家はウェンルさんが亡くなられた時に、ロイセルが相続したのだとか。
「ウェンルは器用でね、何でも得意だった。家事も料理も彼に教えてもらったんだ。…今はシホが、ウェンルのキッチンを大事に使ってくれるのが、俺はとても嬉しい。」
耳を赤くして話してくれたロイセル。私は今まで何も知らなかった。彼のこと、彼の周囲の人のこと、彼が今まで思っていたこと。何ひとつ知らずにいた。
ロイセルの話を聞くたびに、胸が温かく、切なくなる。
そうして話のきりの良いところで暖炉の火を始末し、寝室へ入る。
寝室は相変わらず別のまま。一緒に眠ることもない。ただ変わったと言えば、眠る前におやすみのキスを額に受けるようになったこと。
「おやすみ、シホ。」
ロイセルはそう言って、私の部屋の前で優しく額にキスを落としてくれる。ただそれだけ。でもその優しい熱と彼が話してくれた出来事が、私のひび割れた心に沁み入りる気がする。悲しい夢を見ないように、とおまじないをかけてくれるような気がする。
そして私は温かい気持ちで眠る。
確実に、私の中の何かが変わっていく。
「シホ、おはよう。」
「おはよう。ロイセル、ありがとう。」
今日もいつもの一日。ロイセルが先に起きてくれて、薪を入れてくれて火を熾してくれる。今朝も寒い。
私は「ごめんなさい」から「ありがとう」という言葉に変えた。そうすると彼は嬉しそうに目を細める。
白いキッチンで朝食を作る。今日は昨日の野菜の残りでオムレツを作り、カリカリに焼いたベーコンの油でじゃがいもを炒める。リルリルのパンも軽く焼く。
振り返るとロイセルが食器の支度をして、お茶を淹れる最中。今日も私のカップにだけ、蜂蜜を落としてくれる。できあがった朝食を盛り付け、静かで穏やかな時間が始まる。
「すまないが、今日から何時に帰られるかわからないんだ。午後から領主様がご到着になるから。」
例年、秋が深まるころ、領主様が狩りを楽しみにこの地へ来られる。ご家族やご友人も一緒にいらっしゃることが多いから、この時期の別邸は大忙し。もちろんリルリルもその恩恵にあやかっている。
「わかったわ。無理はしないで。あちらへ泊ることになっても、連絡はいいから。大丈夫よ。」
「……いや、遅くなっても帰る。」
ロイセルは今まで一度も別邸に泊ったことがない。どんなに遅くなっても、帰ってきてくれた。そして翌朝は一緒に朝食をとってくれた。嬉しい反面、体が心配なこともある。
「ロイセル、遅くなったらあちらへ泊って。私は大丈夫だから。」
「いや。俺が大丈夫じゃないんだ。」
「え?」
「…帰るから。」
彼の耳が赤くなっている。
ロイセルがいつもより早く出かけるため、洗濯は私ひとりでする。やはり絞りきれないけれど、どうにか乾くと思う。そしてリルリルへ向かう。ほ〜っと息を吐くと、白くなる。明日は手袋をしよう。ロイセルの分も出しておかなくちゃ。
「シホ、おはよう。」
リリは大きくなったお腹にエプロンをかけて、開店の準備をしている。
「おはよう、リリ。今朝は寒いけど体は大丈夫?」
「案外大丈夫なのよ。悪阻はひどかったのにね。不思議だわ。」
「そう、よかった。あまり無理はしないでね。…ルルは?」
「寒いからさっき起きたばかりなの。今着替えてるわ。」
「そうね、ベッドから出るのは辛いわよね~。」
パンの焼けるいい香りがするお店で、二人で笑っていると、ルルが着替え終わって来た。
「シホ、おはよう〜。」
「おはよう、ルル。今朝は寒いわね。朝食は、食べたの?」
「ううん。」
「じゃ、ここで食べる?はい、ここに座って。」
店の隅に椅子を出すと、リリが焼き立てのパンを持ってくる。私は飲み物と果物を、ルルに用意する。
「いただきます。」
「ルルはいつも焼き立てのパンね。いいわね。」
ルルの髪を結いながらそう言うと、ルルは自慢げに笑う。すると、店の奥からジュールが顔を出す。
「おはよう、シホ。ルルの笑い声が聞えたから、シホが来てると思った。今日から領主様がいらっしゃるんだろう?」
「ジュール、おはよう。ええ、そうみたい。ロイセルが何時に帰れるかわからないって言ってたわ。」
「じゃ、予定通り明日から大量注文が入るわね。」
領主様やお客様のお口に入るものは、別邸の料理人が作るようだけれど、その間の使用人のパンはリルリルへ注文が入る。リルリルも忙しくなる。
いつも通りお店の準備を終えると、たくさんの焼き立てのパンが奥から運ばれてくる。
「おはよう、リーザ。今朝は寒いわね。はい、2つね。ありがとう。」
「あらサニー、おはよう。おつかい?えらいわね。1つね。ありがとう。」
「おはよう、ジル。風邪引いてない?はい、いつもの2つ。ありがとう。」
みんな「また明日。」そう言ってお店を出て行く。今日もいつもの一日。
リルリルでの仕事を終えて、家へ帰る。洗濯物を取り込んでから、夕食の準備。いつものように二人分を作って、ひとりで食べる。やはり寂しいけれど仕方がない。ゆっくり浴槽に浸かって、またひとりで考え事をする。
髪を拭きながらお茶を淹れようとしていると、玄関の鍵が開く音が聞えた。
「ロイセル、お帰りなさい。」
「ただいま、シホ。」
ロイセルからは冷たい空気の香りがする。冷え切った体を温めるために浴室へ送り出して、夜食を用意する。湯上りのロイセルは夜食。私はお茶。リビングの暖炉の前のソファで、今日のことや昔の話しをしながら、短いけれど穏やかな時間を過ごした後、早々に寝ることにした。
「おやすみなさい。」
「おやすみ、シホ。…すまない、ちょっといいか?」
なんだろう?…と思った時には彼の腕の中にいた。
ふんわりと抱きしめられていた。薄い寝間着とカーディガン越しに、ロイセルの温かさが感じられる。
「シホ…。」
一度だけ名前を呼ばれて、額にキスを落とされる。
「おやすみ…。」
そのオリーブ色の瞳は真っ直ぐに私だけを見ていた。
翌日もいつもの朝。ロイセルは朝食をとると、すぐに別邸へ向かう。私も家事を済ませて、リルリルへ向かう。
朝の忙しい時間がひと段落すると、お店の前に馬車が着いた。別邸への納品の品が積まれた馬車。その中は野菜や飲み物、日用品が所狭しと積まれていて、その中にリルリルのパンも運び入れてもらう。二日分のパンを納品し終えて、ほっと息をつく間もなく、お昼の総菜パンの準備に取り掛かった。
リルリルも忙しい。
「シホ、配達お願いね。今日はダリナと教会ね。」
「わかったわ。ルル、行ってきます。」
「シホ〜、はやくかえってね。」
パンを受け取って、配達に向かう。天気はいいのに、風は冷たい。手袋とストールを巻いてお店を出る。
先にダリナの所へ行き、教会へ向かう。裏口からシスターにパンを届けてリルリルへ帰る途中、前方から馬が走ってきた。
「シホ!見つかってよかった!今、リルリルへ行ったんだ。」
「アランさん?」
「早く乗って!ロイセルがケガをした。」
「…え?」
それからどうやって馬に乗ったのか、どうやって別邸まで行ったのかは記憶が無い。ただ「ロイセルがケガ」この言葉だけが走馬灯のように頭の中をぐるぐる回る。
別邸について医務室に行くまでの間に、アランさんが詳しく教えてくれた。初めて入る別邸の豪華な内装に目を向ける余裕もなく、アランさんの話に集中する。
ロイセルのケガは矢傷だった。狩りに同行したときに、初めて狩りをする領主様の甥の放った矢が、あらぬ方向へ行ったとか。そこにいたのが案内で同行していた、ロイセルだった。
「ロイセル…。」
アランさんが医務室の扉を開けてくれる。恐々部屋を覗き込んでみると、手当を受け終わったロイセルがいた。シャツを羽織りボタンをとめる彼の姿は、とても重傷を負った人には見えない。
「…シホ?」
「なんだ、その程度のケガだったのか。」
ロイセルの驚いた声と、アランさんの呆れた声がする。
私は動けなかった。医務室に入ることも、笑うことも、言葉をかけることもできなかった。ケガをしたとはいっても、ロイセルの元気そうな姿を目の当たりにして、泣いてしまう確信があった。だから私は何も言えず、そのままその場を走り去った。
「シホ!?どこ行くの!」
アランさんの声が聞える。でも立ち止まることはできない。
領主様の別邸の廊下を走るなんて、普段の私ならば考えられない。でも今は泣くのを堪えるだけで精一杯。早く誰もいない所へ行きたい。そこで思い切り泣きたい。ただそれだけ。廊下の先で、目の前が霞んで見えなくなった時、いきなり後ろから強い力に巻き込まれた。
「シホ…。」
ロイセルだった。ケガをしているのに追いかけてきてくれた。泣いていた私を抱きしめて、近くの部屋に入る。そしてそのまま口づけをされる。おやすみのキスとは違う、大人の深い口づけ。
絡め取られ、息苦しく、熱を分け合うことが目的のそれ。苦しいくらいの抱擁と苦しいくらいの口づけで、もう何も考えられなくなる。
ロイセル、私はあなたが好き。