06.自覚
その日、私はゆっくり過ごした。
一通りの家事をこなした午後、お茶を飲んで庭に出る。いつの間にか白いコスモスはいなくなってしまった。空を見上げるとお茶の時間を過ぎたばかりなのに、もう夕暮れの気配が漂う。今日の夕食は何にしようかと思っていると、馬の蹄の音が聞えてきた。
「アランさん!」
「お。シホ、丁度よかった。ロイセルに家に入るなって言われてたから助かるよ。」
アランさんは見回りの途中のようで、騎士服のままだった。馬を庭に入れず、外へつなぐ。
「やつにシホの様子を見て来てくれって言われてね。はい、お土産。」
手に渡されたのは、チョコレートのお菓子。
「ありがとうございます。これ、アランさんが?」
「アランでいいよ。いや、やつから。」
「…ロイセルが。」
「今日はいつもの時間に帰るから、だって。まったく、俺もあいつに甘すぎるよな〜。ま、あいつに甘いというよりシホに甘いってことでいいか。」
アランさんはそう言って笑う。赤のような茶の髪が日差しにあたってキラキラ光る。
「…ロイセルのやつ、心配してたよ。何かあったの?」
一瞬アランさんに言っていいものかどうか、迷った。でもアランさんも私のことを気にかけてくれている、ひとり。それに私も誰かに聞いてほしかった。
「…ここを出ようと思っていたの。でもロイセルに反対されて…。」
「え!そうなの?なんでまた…。あいつのことが嫌になった?」
「そうではないんだけれど。今まで甘え過ぎていたから。
でもその、今朝、急に色々気が付いてしまって…。」
「色々?」
「うん、色々…。」
「で、ここを出るのをやめたの?」
「…まだ迷ってるの。これでいいのかなって。」
「いいんじゃないか。だって、シホは色々気づいたんだろう?」
「ん、まあ…。」
「じゃあよかった!シホが気づいてくれたならよかった!あ〜、これで俺は安心できるよ。あいつは今まで、ひとりでいいってずっと言ってたから、心配だったんだよ〜。本当によかった!」
アランさんは、たったこれだけの言葉で理解できるようだった。あまりの勘の良さに、居たたまれなくなってしまい、顔を赤くして下を向くしかない。
「あの、ロイセルには…。」
「うん。黙っておくよ。俺がここでこの話を聞いたことは、無かったことでいいね。」
「はい。あの本当に、これでいいんでしょうか。」
アランさんの好意に甘えて、後ろ暗い気持ちがあることを仄めかしてしまう。このままロイセルに素直に気持ちを打ち明けていいものか、迷う自分がいることは確かだから。
「やつは待ってたよ。シホが来てからずっとね。でもシホの気持ちがまだ納得できないなら、まだ待たせてもいいよ。ロイセルはきっと待つ。シホの気持ちを一番に考えてるから。でも待たせた分、あいつの気持ちに応えてやってほしい。」
私はアランさんの目を見て頷く。
まだ迷いはある。でもロイセルは三年も待ってくれている。その事実は重い。その私の想いを見透かすように、アランさんが言った。
「ま、三年待てたんだから、もう少し待てって言われても一緒だろうしね。シホが後悔しないようにする方が、大事だよ。」
「…アランさん。」
「アランでいいよ。じゃ、もう行くよ。今の話も無かったことね。」
「はい、ありがとうございました。」
「じゃあね〜。」
アランさんは馬に乗って帰って行った。
三年待ってくれたロイセル。ロイセルを心配しているアランさん。きっとリリとジュールも一緒だと思う。私は急にリリとルルとジュールに会いたくなって、リルリルへ行くことにした。
「シホ!どうしたの!風邪は?大丈夫なの?」
「うん、ごめんね。ありがとう。実はちょっとあって…。」
「シホ〜、風邪?大丈夫?」
店番をしていたリリが驚きながら心配してくれる。ルルが奥から出てきて抱きついてくれる。
「ルル〜、会いたかった〜。」
「ルルも!シホ会いたかった!」
温かい小さな体を抱っこする。ひとりを噛みしめていた私を、いつも慰めてくれたルル。
お店はもう閉店間際。明日の仕込みをしていたジュールの顔を見て、私はすぐに帰る。リリとジュールが聞きたそうな顔をしていたけれど、「明日ね。」とだけ言ってリルリルを出た。
三人の顔を見ることができて、落ち着くことができたような気がする。ロイセルが帰って来る。夕飯を用意しなければ…。
さっきより夕刻が色濃くなった道を、家路に着く。ポプラの葉が黄色く染まって、道端に降りしきっていた。
家が見えてきたところで、私を呼ぶ大きな声が聞こえてくる。家の中からだった。ロイセルが先に帰っていて、私を探していた。
「ロイセル?」
ロイセルは玄関先で私の姿を見つけると、次の瞬間には強い力で私を腕の中に引き込んだ。
「……よかった。いないから、驚いた…。」
「ごめんなさい。リルリルへ行ってたの。みんなの顔を見に…。」
そう言うと、ロイセルの腕がさらにきつく私に巻きつく。
「……心配した。」
「ごめんなさい。」
ロイセルってこんなに背が高くて大きな人だったんだ。改めて気づく。私の身長は彼の肩までしかない。そのロイセルが大きな背中を丸めて私を抱きしめる。全身を彼に包まれている。
ああ…、私は本当に愛されているんだ。そう思った。
夕飯はロイセルが買ってきてくれたキッシュとチキンロースト。あとはスープとサラダを添えるだけ。
夕飯が早く済んだので、お茶を淹れることにする。ロイセルがリビングの暖炉に火を入れてくれた。お茶と昼間にもらったチョコレートのお菓子を出す。ロイセルは二人掛けのソファに座る。私はひとり掛けのソファに座る。
「シホ、今朝のことを聞きたい。」
「……うん。」
家に帰って来るまで、すべてを話すべきか迷っていた。でもさっき玄関で抱きしめられた時に、迷いは消えていた。
「今朝はごめんなさい。急に泣いたりして。」
「シホ、なにかあったのか?」
「…申し訳なくて。」
「何に?」
「…主人と子供達に。」
「なぜ?」
「…私、今朝、気が付いたの。その…、ロイセルがどれほど私を大切にしてくれているのかを。それに、自分の気持ちにも…。」
まだ熱いお茶の湯気を見つめて話す。自分の気持ちを…。ロイセルの耳が赤くなる。私の顔も赤くなる。
「それって、俺は勘違いしそうなんだが…。」
「えっと…勘違い、じゃないの。だから今朝、主人と子供達に謝ったの。ごめんなさい、もうそっちには帰れないって。」
「………シホ、傍へ行ってもいいだろうか?」
「えっ!だだだめ、まだだめ!」
ロイセルは浮かせていた腰を元に戻した。それはそれは、とても残念そうに…。
「すまない。その、気が焦ってしまった。」
「いえ、私こそ。…ごめんなさい。」
赤くなってお互い俯く。心臓がうるさいほど鳴っていて、余計に何を話せばいいのかわからなくなってしまう。
「もう出て行くなんて言わないな?」
「…私、本当にここにいてもいいの?」
「いてくれないと、困る。」
「でも、ロイセル…」
「頼むから、俺の幸せを勝手に決めないでくれ。俺は…シホが好きなんだ。この気持ちは一生変わらない。今すぐ妻になってほしいとは言わない。でも考えてほしい。」
ロイセルの瞳を見ることができなくて、冷めたお茶を見ていると、彼に名前を呼ばれる。何度も…。
「シホ、シホ…。家族の話、また聞かせてくれるね?」
「………。」
驚いてしまう。まだ、そんなことを言うなんて。胸に何かが落ちる。それが何かはわからない。でもひび割れた心を潤す何か。
「ロイセルの話も聞かせてね…。」
ロイセル、私もあなたが好きです。