表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/13

03.告白

「シホ、本気だね?」

「いいの?シホ。」


ジュールとリリが私を心配そうに見る。うん、でも決意は変わらない。いずれはこうしなくては…、と思いながらズルズルとここまで来てしまった。


「いいの。お願いします。」


私はリルリルの奥にある、離れを借りることに決めた。お店の脇から出入りすることができるようになっている、独立した離れ。



ここ半年の間、私は住み込みで働けるところを探していた。だけどそういうところは全部断られてしまう。きっと私の髪と瞳の色が関係しているのかもしれない…。

それでも探していると、私がリルリルで働いているのにも関わらず、他の働き口を探していたことをジュールはどこからか聞きつけて、事情を聴いてくれた。


そして「それならうちの離れに住むといい。」と提案してくれた。私とロイセルが夫婦ではないことを彼は知っている。もちろんリリも知っている。


二人とも私がロイセルから離れようとしている理由も知っている。でももう一度、よくよく考えた上でロイセルにも相談すること、と言われた直後にリリの妊娠がわかった。リリの体調不良もあって、ようやく安定期に入った今、この話を出してみた。



「うちはいつでもいいよ。これからリリのお腹もどんどん大きくなるし。ルルもシホがいてくれたら喜ぶだろうし。でも…。」

「ええ。ロイセルには私から言うわ。ちゃんと話し合うから。」


三年間居候させてくれたロイセルの元を出る。これが私の決断。

ロイセルにきちんと言えるだろうか。

私の想いもすべて言えるだろうか…。

ロイセルはすぐに了承してくれるだろうか。


不安が募る。ロイセルの元から出るという不安。彼が傷つくのではないかという不安。でももうあの家に留まることはできない、してはならない。



三年が経つ。私は一つの決断をしようとしている。

ロイセルにそれを話さなければならない。






「シホ、何を淹れようか。」

「…ロイセルが決めて。」


お風呂上がりのいつものやり取り。

リビングの明かりは、暖炉の炎だけ。後は眠るだけだから、いつもこんな感じ。


でも今は暖炉の揺れる炎が、私の心を映しているように思える。ゆらゆらと揺れて、お風呂の中で決心したばかりの心がざわめいて、濡れた髪を拭く手がついつい止まりがちになってしまう。

しかも緊張でうるさいくらいの心臓の音が、耳を離れない。


お茶のいい香り。ロイセルは今夜も私のお茶にだけ、ミルクを落としてくれる。


コトン。コトン。


ロイセルが私の目の前にお茶を置いて、自分も座る。


座る椅子はこの三年間で決まっている。私はひとり掛けのソファに座る。ロイセルは二人掛けのソファ。

ローテーブルの角を挟んで、ずっとこの位置に座る。


目の前に置かれたお茶の湯気だけを見つめて、

「ロイセル。話があるの…。」

私は切り出した。






ロイセルの顔は白くなっていた。耳も白い。前屈みになり、膝の上で組んだ手も白い。ロイセルもお茶の湯気を見ている。


「………いつから、そんなことを…?」

「ずっとよ、ずっと。」

「…最初から?」

「いいえ。一年経ってから。」


「なぜ出て行こうと考えるんだ?」

「このままではだめなのよ。私もロイセルも。」

「…何がだめなんだろうか。」

「私がここにいつまでも居てはいけないわ。」


「なぜ?」

「ロイセル、わかるでしょう?私達、夫婦って思われてるのよ。」

「ああ、好都合だ。」

「どうして?だってこのままじゃ、あなたは結婚できないでしょう?」

「できるよ。」


「…ロイセル?」

「シホの気持ちが落ち着いたら、いつか俺の妻になってほしいと思っている…。」


さっきまで白かったロイセルの耳が、急に赤くなる。オリーブ色の瞳に炎が灯る。情熱の炎…。

ロイセルが男の顔になるのを私は初めて見た。恐怖心が湧き上がって、身がすくむ。


「………そんなこと、できるわけ、ない。」

「できるよ。シホは俺の目の前にいるんだから。」

「できない。」


「シホ…。俺は何年でも、いつまでも待つ。」

「ロイセル、やめて。」

「やめない。俺はやめないよ。ずっと待つ。」


ロイセルが私の頬を拭うまで、私は自分が泣いていることに気づかなかった。


「…やめて。だって知ってるでしょう?私には主人も子供もいるのよ。」

「うん。一番最初に、シホを見つけた時に聞いたよ。」

「だから、ここから出るわ。」

「だめだ。出さない。」

「ロイセル!」


「シホのご主人も子供も、ここにはいない。この世界にはいない。それはきみだってわかってるだろう?」

「…もちろん、わかってるわ。でも私がここを出ることと、それは別問題だわ。」


胸が痛い。抉られるように。ロイセルを傷つけるのでは…と、恐れていたのに、傷ついたのは私のほうだった。現実を見せつけられる、この世界にひとりだと見せつけられる。


夫も子供もここにはいない。あの温もりを、あの愛情を、あの喜びを、分け合える存在はここにないない。私の大切な大切な家族は、ここには誰ひとりいない。




「…他に好きな男が?」


地を這うような低いロイセルの声。初めて聞く声。


「いないわ、そんな人。」

「…シホが俺の他に好きな男がいる、その男と一緒になると言うなら仕方がない。

俺も諦めがつく。でもきみをひとりにするために、この家から出すことはできない。」

「ひとりじゃないわ。主人も子供達もいる…。」

「この世界にいない人を想って、この先の一生を過ごすのか?」

「ロイセル、そんなこと言わないで…。」


左手の薬指にはまった結婚指輪を抱きしめる。胸が痛くて寒い。張り裂けそうな痛みと凍えそうな胸を、自分で抱えて温めるしかない。

でも三年もの間、ずっと温めているのに、ちっとも温まらない。それが余計に現実として私に思い知らせる。ここには私、たったひとりなんだと…。


溢れる涙。泣くといつも抱きしめてくれた、大きな手と小さな手。その手が私に触れてくれることを期待して、いつも夜は泣きながら眠った。でもその手が現れることは無い。三年の間、私の体と心は冷たいままだった。


その時…、大きな熱い手が私に触れた。


「ロイセル!」

「…黙って。」


熱い大きな手。私の背と肩を覆うように回された固く熱い腕。


人ってこんなに熱いんだ…。人ってこんなに温かいんだ…。もう忘れかけていたもの。今これが私の心のヒビに入り込んでしまったら、もう終わり。だから、この温もりに縋ってしまいそうになる気持ちを奮い立たせる。


「…ロイセル、お願い、もうやめて…。」


もう、涙声しか出ない。離してくれないロイセルの腕の中で、私はずっと泣いている。

辛い気持ち、寂しい気持ち、悲しい気持ち、腹立たしい気持ち、恋しい気持ち、弱い気持ち、甘えたい気持ち、愛したい気持ち、愛されたい気持ち。たくさんの気持ちが溢れて止まらなくなってしまった。


どのくらい時間が経ったのかわからない。泣き疲れて声も掠れて、自分で自分の体を支えられなくなった頃、ロイセルの声が耳元から聞えた。


「…俺はシホに今を生きてほしいと思っている。過去のシホがあっての、今のシホだということはわかってる。でも過去にだけ目を向けて今を生きてほしくない。…ご主人や子供達のことを、忘れろと言ってるんじゃない。ただ今シホの傍にいる者、シホを見守っている者にも、心を留めてほしいんだ。


今の状態でここを出れば、きみの心は、これから先も一生ひとりのままだ。ひとりということを実感しながら生きていくことになる。それだけは、させられない。


シホ、どうか周りを見てくれ。きみの周りにいる人を見てくれ。そして少しだけでいいから、俺のことも見てほしい。」


「……見たら。…見たら、抱いてくれるの…?」


思わず出た言葉。結婚指輪をはめたままの私の本心でもないのに、人恋しさに負けた言葉。

泣き疲れた顔で、少し緩んだ腕の隙間からロイセルを見上げれば、彼は静かな瞳をしていた。


「今は抱かない。抱けばきっと、きみは後悔する。今はまだ抱かない。でも今夜は一緒に眠ろう。おいで。」


そう言うと、ロイセルは私を難なく抱き上げる。驚いたけれど、泣くことに体力を使い果たした私は、動くことができずにいた。


そしてそのまま、薄暗い彼の部屋へ入る。初めて入ったロイセルの部屋は、彼の匂いがした。

普段の私ならこの状況に緊張し、抵抗もしただろう。でも今はそんな気力は残っていない。彼のなすがまま、彼のベッドに降ろされ、布団に一緒に入った。

すぐに固い腕に抱き寄せられ、腕枕をされる。ロイセルは私の首元まで毛布を引き上げ、体が冷えないようにと気を遣ってくれる。


「…シホ。」


一度だけ私の名前を呼んで、髪にキスをくれる。その後、「おやすみ」という声が聞えたような気がした。忘れかけていた心地よい温もりに包まれて、私は眠りについた。




こんなに安心して眠ったのは、三年の間で初めてのことだった。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ