03.告白
「シホ、本気だね?」
「いいの?シホ。」
ジュールとリリが私を心配そうに見る。うん、でも決意は変わらない。いずれはこうしなくては…、と思いながらズルズルとここまで来てしまった。
「いいの。お願いします。」
私はリルリルの奥にある、離れを借りることに決めた。お店の脇から出入りすることができるようになっている、独立した離れ。
ここ半年の間、私は住み込みで働けるところを探していた。だけどそういうところは全部断られてしまう。きっと私の髪と瞳の色が関係しているのかもしれない…。
それでも探していると、私がリルリルで働いているのにも関わらず、他の働き口を探していたことをジュールはどこからか聞きつけて、事情を聴いてくれた。
そして「それならうちの離れに住むといい。」と提案してくれた。私とロイセルが夫婦ではないことを彼は知っている。もちろんリリも知っている。
二人とも私がロイセルから離れようとしている理由も知っている。でももう一度、よくよく考えた上でロイセルにも相談すること、と言われた直後にリリの妊娠がわかった。リリの体調不良もあって、ようやく安定期に入った今、この話を出してみた。
「うちはいつでもいいよ。これからリリのお腹もどんどん大きくなるし。ルルもシホがいてくれたら喜ぶだろうし。でも…。」
「ええ。ロイセルには私から言うわ。ちゃんと話し合うから。」
三年間居候させてくれたロイセルの元を出る。これが私の決断。
ロイセルにきちんと言えるだろうか。
私の想いもすべて言えるだろうか…。
ロイセルはすぐに了承してくれるだろうか。
不安が募る。ロイセルの元から出るという不安。彼が傷つくのではないかという不安。でももうあの家に留まることはできない、してはならない。
三年が経つ。私は一つの決断をしようとしている。
ロイセルにそれを話さなければならない。
「シホ、何を淹れようか。」
「…ロイセルが決めて。」
お風呂上がりのいつものやり取り。
リビングの明かりは、暖炉の炎だけ。後は眠るだけだから、いつもこんな感じ。
でも今は暖炉の揺れる炎が、私の心を映しているように思える。ゆらゆらと揺れて、お風呂の中で決心したばかりの心がざわめいて、濡れた髪を拭く手がついつい止まりがちになってしまう。
しかも緊張でうるさいくらいの心臓の音が、耳を離れない。
お茶のいい香り。ロイセルは今夜も私のお茶にだけ、ミルクを落としてくれる。
コトン。コトン。
ロイセルが私の目の前にお茶を置いて、自分も座る。
座る椅子はこの三年間で決まっている。私はひとり掛けのソファに座る。ロイセルは二人掛けのソファ。
ローテーブルの角を挟んで、ずっとこの位置に座る。
目の前に置かれたお茶の湯気だけを見つめて、
「ロイセル。話があるの…。」
私は切り出した。
ロイセルの顔は白くなっていた。耳も白い。前屈みになり、膝の上で組んだ手も白い。ロイセルもお茶の湯気を見ている。
「………いつから、そんなことを…?」
「ずっとよ、ずっと。」
「…最初から?」
「いいえ。一年経ってから。」
「なぜ出て行こうと考えるんだ?」
「このままではだめなのよ。私もロイセルも。」
「…何がだめなんだろうか。」
「私がここにいつまでも居てはいけないわ。」
「なぜ?」
「ロイセル、わかるでしょう?私達、夫婦って思われてるのよ。」
「ああ、好都合だ。」
「どうして?だってこのままじゃ、あなたは結婚できないでしょう?」
「できるよ。」
「…ロイセル?」
「シホの気持ちが落ち着いたら、いつか俺の妻になってほしいと思っている…。」
さっきまで白かったロイセルの耳が、急に赤くなる。オリーブ色の瞳に炎が灯る。情熱の炎…。
ロイセルが男の顔になるのを私は初めて見た。恐怖心が湧き上がって、身がすくむ。
「………そんなこと、できるわけ、ない。」
「できるよ。シホは俺の目の前にいるんだから。」
「できない。」
「シホ…。俺は何年でも、いつまでも待つ。」
「ロイセル、やめて。」
「やめない。俺はやめないよ。ずっと待つ。」
ロイセルが私の頬を拭うまで、私は自分が泣いていることに気づかなかった。
「…やめて。だって知ってるでしょう?私には主人も子供もいるのよ。」
「うん。一番最初に、シホを見つけた時に聞いたよ。」
「だから、ここから出るわ。」
「だめだ。出さない。」
「ロイセル!」
「シホのご主人も子供も、ここにはいない。この世界にはいない。それはきみだってわかってるだろう?」
「…もちろん、わかってるわ。でも私がここを出ることと、それは別問題だわ。」
胸が痛い。抉られるように。ロイセルを傷つけるのでは…と、恐れていたのに、傷ついたのは私のほうだった。現実を見せつけられる、この世界にひとりだと見せつけられる。
夫も子供もここにはいない。あの温もりを、あの愛情を、あの喜びを、分け合える存在はここにないない。私の大切な大切な家族は、ここには誰ひとりいない。
「…他に好きな男が?」
地を這うような低いロイセルの声。初めて聞く声。
「いないわ、そんな人。」
「…シホが俺の他に好きな男がいる、その男と一緒になると言うなら仕方がない。
俺も諦めがつく。でもきみをひとりにするために、この家から出すことはできない。」
「ひとりじゃないわ。主人も子供達もいる…。」
「この世界にいない人を想って、この先の一生を過ごすのか?」
「ロイセル、そんなこと言わないで…。」
左手の薬指にはまった結婚指輪を抱きしめる。胸が痛くて寒い。張り裂けそうな痛みと凍えそうな胸を、自分で抱えて温めるしかない。
でも三年もの間、ずっと温めているのに、ちっとも温まらない。それが余計に現実として私に思い知らせる。ここには私、たったひとりなんだと…。
溢れる涙。泣くといつも抱きしめてくれた、大きな手と小さな手。その手が私に触れてくれることを期待して、いつも夜は泣きながら眠った。でもその手が現れることは無い。三年の間、私の体と心は冷たいままだった。
その時…、大きな熱い手が私に触れた。
「ロイセル!」
「…黙って。」
熱い大きな手。私の背と肩を覆うように回された固く熱い腕。
人ってこんなに熱いんだ…。人ってこんなに温かいんだ…。もう忘れかけていたもの。今これが私の心のヒビに入り込んでしまったら、もう終わり。だから、この温もりに縋ってしまいそうになる気持ちを奮い立たせる。
「…ロイセル、お願い、もうやめて…。」
もう、涙声しか出ない。離してくれないロイセルの腕の中で、私はずっと泣いている。
辛い気持ち、寂しい気持ち、悲しい気持ち、腹立たしい気持ち、恋しい気持ち、弱い気持ち、甘えたい気持ち、愛したい気持ち、愛されたい気持ち。たくさんの気持ちが溢れて止まらなくなってしまった。
どのくらい時間が経ったのかわからない。泣き疲れて声も掠れて、自分で自分の体を支えられなくなった頃、ロイセルの声が耳元から聞えた。
「…俺はシホに今を生きてほしいと思っている。過去のシホがあっての、今のシホだということはわかってる。でも過去にだけ目を向けて今を生きてほしくない。…ご主人や子供達のことを、忘れろと言ってるんじゃない。ただ今シホの傍にいる者、シホを見守っている者にも、心を留めてほしいんだ。
今の状態でここを出れば、きみの心は、これから先も一生ひとりのままだ。ひとりということを実感しながら生きていくことになる。それだけは、させられない。
シホ、どうか周りを見てくれ。きみの周りにいる人を見てくれ。そして少しだけでいいから、俺のことも見てほしい。」
「……見たら。…見たら、抱いてくれるの…?」
思わず出た言葉。結婚指輪をはめたままの私の本心でもないのに、人恋しさに負けた言葉。
泣き疲れた顔で、少し緩んだ腕の隙間からロイセルを見上げれば、彼は静かな瞳をしていた。
「今は抱かない。抱けばきっと、きみは後悔する。今はまだ抱かない。でも今夜は一緒に眠ろう。おいで。」
そう言うと、ロイセルは私を難なく抱き上げる。驚いたけれど、泣くことに体力を使い果たした私は、動くことができずにいた。
そしてそのまま、薄暗い彼の部屋へ入る。初めて入ったロイセルの部屋は、彼の匂いがした。
普段の私ならこの状況に緊張し、抵抗もしただろう。でも今はそんな気力は残っていない。彼のなすがまま、彼のベッドに降ろされ、布団に一緒に入った。
すぐに固い腕に抱き寄せられ、腕枕をされる。ロイセルは私の首元まで毛布を引き上げ、体が冷えないようにと気を遣ってくれる。
「…シホ。」
一度だけ私の名前を呼んで、髪にキスをくれる。その後、「おやすみ」という声が聞えたような気がした。忘れかけていた心地よい温もりに包まれて、私は眠りについた。
こんなに安心して眠ったのは、三年の間で初めてのことだった。