02.日々
「シホ、おはよう。」
「おはよう、ロイセル。」
パン屋の朝は早い。でも私は店員。お店が開店する少し前に出勤する。ロイセルの朝も早い。
ロイセルはいつも私より早く目覚めて、私より早くキッチンに降りる。そして新しい薪を入れてキッチンを温めて、お湯を沸かしておいてくれる。
最初はこれが大変申し訳なかったのに、今ではこれが当たり前になってしまっていて。
「ごめんなさい、いつもいつも。」
「そんなこと気にしなくていいよ。それよりもシホのご飯が食べたい。」
「うん、すぐ作るね。」
ロイセルの耳は赤い。
リルリルのパンを焼いて、昨日のスープに温野菜のサラダとソーセージを入れて一緒に煮込む。これだけでボリュームが増す。あとは玉子を焼く。
私はこれで充分だけど、ロイセルはそうはいかない。ベーコンを焼いたものと、玉子とレタスとチーズを挟んで、サンドウィッチを作る。少し具材を替えて、もう一つはソーセージを一緒に挟んだ。
振り返ると、ロイセルはやはり座っていた。
「ロイセル、お待たせ。」
そう言うと食器の用意を始めてくれる。コト。コト。コトン。カチャ。お皿に並べられた簡単な料理がテーブルの上を飾る。
お茶はロイセルが淹れてくれて、私のカップにだけ蜂蜜を垂らしてくれる。静かだけど、気持ちのいい食卓。それを二人で静かに囲む。
スープを飲んでほっと息を吐いたロイセルの様子を見て、塩をひとつまみ足さなかったのは正解だったと思った。
「…シホの料理は、いつも優しい味がする。」
「え?」
「いや…その…。気遣う味がするんだ。」
「ああ。そうね。ロイセルのことを考えながら作ってるから。」
「っ……ゲホッガホッ、ガッ……」
「ロイセル!?大丈夫!?」
急に咽るロイセルに驚いて、布巾とタオルを手に慌てて行くと、片手をあげて来なくていいと示されてしまった。
「…ロイセル。」
「ごめっ、ん。大丈っ夫、だっから…。」
大きな背を丸めて苦しそうに咽る彼を、タオルを持ってただ見てるだけ。確かに、私にはロイセルの側へ行く資格は無い。落ち着いたところで、おしぼりを出した。
「…ありがとう。」
そう言って彼はおしぼりで口まわりや手を拭いた。咽たせいなのか、耳はおろか首まで真っ赤になっている。熱でもありそうなくらい。
「…大丈夫?」
「ああ、ごめん。その…驚いてしまって…。」
「…驚く?何に?」
「いや、その。気にしないで…大丈夫だから。」
「…うん。」
私の胸の中に、何かが渦巻くような気がしていた。
食事の後片付けはロイセルがしてくれる。私はその間に洗濯に取り掛かる。昨日の浴槽の残り湯に、石鹸と洗濯物を仕込んでおいた。これをきれいにすすいで干す。私の力では絞りきることができないので、ロイセルが最後に絞ってくれたものを私が干す。
高く晴れた空に、きれいになった洗濯物。肌寒い気温など忘れてしまう。
「今日もいい天気になりそうね。」
私のそんな呟きも、ロイセルは静かに聞いてくれる。耳を赤くして…。
リルリルでの仕事を終え、活気に満ちた市場で買い物をしてそのまま真っ直ぐ歩く。大きなポプラの樹が立つ道を右へ曲がる。そして森の方向へ歩く。するとほどなくして、ロイセルの家が見える。
夕刻にはもう少し間がある時間帯。焦げ茶の屋根に、白い壁の平屋の小さな家。年季の入った壁には蔦が絡まる。小さな庭にロイセルが植えた、白いコスモスが群れて咲いていた。
庭の洗濯物が取り込んである。ロイセルは今日も早く帰れたみたい。重たい木の扉を押し開けてみると、やはり鍵は掛かっていなかった。
「シホ、おかえり。」
「ロイセル、ただいま。洗濯物を取り込んでくれたのね、ありがとう。」
彼の耳はまた赤くなる。
「今日は魚を買ってきたの。」
「ああ。じゃ、香草焼きにしよう。」
そう言うとロイセルは嫌な顔ひとつせず、キッチン立つ。
白いタイル張りの明るく清潔なキッチンからは、裏庭が見渡せる。私はここから見える景色が好きだった。
晴れの日も雨の日も風の日も雪の日も、私はここに立っていた。
騎士館からロイセルに連れ出されて何日かは彼が帰ってくるまで、ずっと料理を作り続けていた。そうすれば何も考えずに済むから…。
そこまで考えて、ふと気が付いた。だから?だから、ロイセルは私が料理を始めるとダイニングに座っいてくれたのかも。私を心配して、見守ってくれていてくれたのかも…。
「シホ、香草はどこにあったっけ?」
「えっと…、その左の扉に…。」
「ああ、あった。」
ロイセルは肉や魚は自分が料理するものと、決めているようだった。最初はそれが不思議だった。さっきまでは不思議に思っていた。でもそこには彼の優しさゆえの理由があった。優しい理由が…。
…私も料理しよう。何も考えずに済むように。
魚を彼に任せてベーコンと玉ねぎのスープ、野菜をたくさん使ったオムレツを作る。あとはリルリルのパンを少し焼く。
キッチンでロイセルと並んで料理をしていると、胸が痛くなってしまう。その痛みをごまかすように、私はロイセルに今日あったことを話す。
リリとルルのこと。お客さんのこと。ジュールが焼いた新作のパンのこと。彼はそれを楽しそうに聞いてくれた。耳を赤くしながら。
そして二人だけの食事。静かだけれど、できあがった料理の感想を言いながら穏やかな時間が流れる。ロイセルはお酒を飲まない。だからご飯をたくさん食べてくれる。飲めないわけではなく飲まないだけ、とか。
外では飲むらしいのだけど、私がここに来てから彼がお酒を飲みに出かけたことはない。
今日もロイセルは私に合わせて、ゆっくりとご飯を食べてくれる。
「ロイセル、ありがとう。後はするから汗を流してきて。」
食事の後片付けも粗方終わった。いつも黙って片づけまで手伝ってくれるロイセルをバスルームへ送り出し、あとは細々したことを片づける。すべてを終わらせる頃には、彼が戻って来た。
胡桃色の髪を濡らしたままタオルを肩から下げて、ゆったりしたシャツを着ている。
「シホ、あとはするから…。」
「ありがとう、もう終わったから。私も入ります。」
そう言って、私はバスルームへ向かった。
外はもう真っ暗で、月と星が浮かんでいた。家の中は温かいけれど、この辺りは夏でも朝晩は冷え込む。きっと今夜も冷え込むだろう。
浴槽にゆったりと浸かると、全身の血液が駆け巡るのを感じる。ほぅっと息を吐いて一日の疲れを吐き出すと、石鹸のいい香りがさらに私を癒してくれる。
ロイセルのことを考えそうになる思考を無理やり止めて、脱力感に襲われながら浴槽から這いだし、どうにか髪と体を拭いて、バスルームから出る。
リビングに戻ると、体が温まって思考まで温まっている私に、ロイセルは温かいお茶を淹れてくれる。
「シホ、今日は何のお茶にしようか。」
「うん…。ロイセルが決めて。」
濡れた髪を拭きながら、いつも私はそう言う。そうするとロイセルはまた耳を赤くしながら、お茶を淹れてくれる。今朝飲んだお茶とは違うお茶。甘い香り。少しだけミルクを落としてくれたロイセルの気持ちを嬉しく思いながら、ゆっくりとお茶を頂く。
「ふぅ…、おいしい。ロイセル、ありがとう。」
カップを持ったまま彼にお礼を言うと、ロイセルはまた耳を赤くする。
このお茶をゆっくり飲んだ後は、自分の寝室で髪を乾かして寝るだけ。テレビも携帯も無い世界が、こんなに静かで豊かとは思わなかった。家族とゆっくり向き合える時間があることは、心を豊かにする。だからこの世界の人々は優しいのかもしれない。
ロイセルと私は家族ではないけれど、それでも私にたくさんの優しさと安らぎを与えてくれる。
「…ありがとう、ロイセル。」
もう一度言うと、彼は目元まで赤くしていた。
三年が経つ。私は一つの決断をしようとしている。
彼にそれを話すことができるだろうか…。