10.輝き
あれから十日が過ぎた。
今日はリルリルの仕事が終わった午後から、ロイセルと一緒に領主様の別邸へ招かれている。
領主様は明日王都へ帰られるらしく、その前に私に会いたいと仰って下さったとか。
…緊張する。ここに来て身分のある方に会うなんて、初めてのこと。失敗したらどうしようとロイセルに言うと、ただ笑ってた。
この前買ってもらってた、ボルドー色のワンピースに上品なベージュのコートを来て、二人で出掛ける。
「シホ、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないわ。」
「…そうみたいだね。」
「ロイセル、私、失敗したらどうしよう。」
「…一体、何を失敗する気なんだ?」
「何をって、全部よ!」
「シホは昨日からずっと同じこと言ってるよ…。」
またロイセルは笑っている。そのオリーブ色の瞳が嬉しそうで楽しそうで、私は恨めしく思ってしまう。
私達の関係は劇的に変わったわけではない。一緒の夜を過ごしたのも、一度きり…。
でも送る視線に、触れる手に、感情が伴うことが多くなった。
最近のロイセルは……、私との距離を近くとろうとして困ってしまう。気付くとすぐ後ろにいるとか、肩を抱こうとしているとか、腕に囲われそうになっているとか…。
とにかく、いつの間にか近くにいて私に触れようとしてくる。
逃げるわけではないけれど、そ知らぬふりでそっとかわすと、ロイセルは小さな溜息を漏らす。申し訳ない気もするけれど、今の私にはどうしたらいいのかわからなくなってしまって、ついかわしてしまう。
「今日、領主様に婚姻の報告しよう。そのあと婚姻証を提出するから。シホ、いいね?」
「……はい。」
すっかり葉が落ちたポプラの樹の横を通るときに、そう言われた。足元の道は、落ち葉で黄色く染まっている。
婚姻証…。
ロイセルは本当に私でいいのかな。嬉しいけれど、ロイセルの気持ちを信じていないわけではないけれど。でも、私でいいのかな。
「…なにを考えてる?」
低い声に目を上げると、不機嫌そうなオリーブ色があった。
こんなロイセルは初めてだから、思わず狼狽えてしまう。するとポプラの樹の陰へと腕を強く引かれた。
「シホ。やっぱりやめる、なんて言わないだろうな?離さないと言っただろう。」
唸るような声で言うロイセルに、いきなり口づけをされた。深く攫うような口づけ。
私が不安に思っていたように、ロイセルも不安に思っていたんだ。そうわかると、愛しさが込み上げてくる。
離された唇からすぐに自分の気持ちを彼に伝える。
「…ロイセル、好き。でも怖いの。」
「怖い?何が怖いんだ?」
「また私、どこかへ行ってしまうかもしれない。幸せになるといつか突然、また知らないどこかへ行ってしまうかもしれない。それがすごく怖いの。」
「…どこへも行くわけないだろう?」
「本当?でも、私…。」
「離さないと言ってる。絶対に、行かせない。」
「ロイセル…。」
ロイセルはポプラの樹の影で私を抱きしめて額にキスをしてくれる。
彼と心が通った後にできた私の不安を、打ち消そうとしてくれる。
「大丈夫。シホは俺と一緒に歳をとるんだ。きっとかわいいおばあちゃんになって、俺の隣でずっと笑っているよ。もうどこにも行かないし、行かせない。絶対に大丈夫だ。…今日、婚姻証を提出しよう。嫌だと言っても、もうだめだ。」
冷たく固くなっていた私の心は、ロイセルを好きになって、温かく脆くなってしまった。
以前はまた突然違う世界に行ってしまったとしても、諦められると思っていたのに。今はもう二度とあんな思いはしたくない。ロイセルの隣にずっといたいと思っている。
私は目の前のポプラの樹に、心から願った。
どうかお願いです。私をもうどこにも行かせないで…。
「おおシホ、やっと会えたな。」
領主様の別邸の一室で、領主様に初めてお会いする。
五十代半ばくらいの方だけど、とても若々しさを感じる。金茶の髪に上品な口ひげを蓄えられ、空のような青い瞳の方だった。所作もさすが身分のある方といった感じで、私は気後れしそうになる。
ロイセルがいてくれるからなのか、くだけた雰囲気で接してくださって、安心してご挨拶できた。
「今日を楽しみにしておったのだよ。ロイセルがなかなか会わせてくれなかったからな。」
「……アゼル様、実はシホと正式に婚姻することとなりました。」
「おお!やっとか!待ちくだびれたぞ!」
領主様のあまりの喜びように、顔が熱を持ってしまう。恥ずかしい…。
「長かったな、ロイセル。一体いつ口説き落とせるのかと、肝を冷やしていたが。まったく…。もう少し、しっかりいたせ!しかし良かった。私もこれでひとつ安心できる。
…それにしても、ロイセルにはもったいない。どうかな?シホさえよければ…」
「アゼル様!」
「ああ、わかっておる。うるさいやつだ…。」
なんだかロイセルと領主様の関係が見えてくるような気がする。
そこへ入室の許可をとるノックがあった。入ってきたのは…
「やあ、シホ。」
「アランさん?」
「遅いぞ、アラン。」
「すみません、叔父上。引継ぎに手間取ってしまいました。」
「…叔父上?」
「アランはアゼル様の妹君の子になるんだ。」
ロイセルがそっと耳打ちしてくれた言葉は、私には思いもよらないものだった。
アランさんも身分のある方だったんだ…。知らなかった。
「おめでとう、シホ。やっと婚姻が決まったんだね。ロイセル、長かったな〜。どうなることかと思ってたよ。」
「まったくだ。あれほどの威勢で私のところに来た者が、こんなに時間をかけおって。…だが、これほど嬉しいことはない。アラン、次はお前だな。」
「え…いや叔父上、私はシホを慰めないといけないので…。」
「慰めるってどういう意味だ、アラン?」
突然のロイセルの怒気に、驚いていると領主様が笑いだされた。
「はははははっ、まったくロイセルは本当に…。アラン、気持ちはわかるが不用意な言葉は、今は、慎め。私だってシホを慰めたい。」
ロイセルの疲れたような溜息が聞える。それを見たアランさんは含み笑いをしながら、今までのロイセルのことを教えてくれた。
ロイセルは森の番の仕事をしている途中で、私を見つけた。私の事情を知ったロイセルは、すぐアランさんに相談に行ったとか。
私の黒髪と黒目はこの世界では非常にめずらしいらしく、権力者に見つかると大変な目にあう可能性が大きい。
だからロイセルは幼馴染でもあった、領主様の甥のアランさんを頼って、相談した。私を守るにはどうしたらいいのか、と。
アランさんの答えは、ある程度の地位と権力を持ち、領主様を味方につけることだった。
それからロイセルの努力が始まった。
騎士館ならアランさんが目を光らせることができる。私が騎士館にいる間に、ロイセルは領主様に訴えて、別邸の仕事を頂いた。
当時、森の番で領主様の信頼を得ていた彼は、別邸でもすぐに力を発揮したとか。
今やロイセルは別邸の管理のみならず、この近辺の整備や民の訴えにも力を注いでいるらしい。
…知らなかった。
「しかも、シホ。リルリルできみが働いているのだって、全部ロイセルの策なんだよ。」
「えっ?」
「リルリルで働くということは、この街全員に顔を知られるということ。そしてそれは、シホがロイセルの妻という立場にあるっていうことをみんなに知らしめること。さらに言えば、それはシホを危険な目にあわせようと企む者と、権力ある者への牽制なんだ。街のみんながシホのことを知っているんだからね。
もちろん、ジュールもリリもそれを承知の上で、シホを受け入れたんだよ。」
ロイセルが何度か口を挟もうとするたびに、領主様が黙らせるため、彼は何も言えない状態。私は知らなかったことが次々出てきて、本当に唖然とするばかりだった。
「きみはずっとロイセルに守られてきたんだよ。この街のみんなにもね。」
その時、ロイセルに言われた言葉が蘇る。
「誰がきみの心を守っていた?ご主人だろう……」
…私は、あの人にもロイセルにも、この街のみんなにも、ずっと守られていた。
知らなかった、たくさんの事実に涙が溢れる。
もう罪悪感も迷いも消えた。残ったのは、
……感謝だけ。