「ひとめぼれ?」
たゆたと捧、すすきと一期の四人は暖炉のあるリビングへと向かった。夜の帳が下り始め、既に昼間より格段に寒くなっているので早く暖炉で暖まりたいものだ。
捧はたゆたに指示され、大人しく暖炉に火を点ける。相変わらず無表情だが、この招かざる客達に一刻も早くお暇して頂きたそうなオーラを放っていた。
たゆたはすすきと一期の二人をテーブルには案内せず、暖炉の前まで連れていった。晩ご飯が出来るまでの間、暖かいこの場所で語ろうという気なのであろう。
「とりあえず自己紹介をしておこうか。私はこの屋敷の主である水月たゆただ。言われる前に言っておくが私は小学生ではなくれっきとした十五歳なので年齢に関する話題は今後一切禁止させていただく。それで向こうのロッキングチェアで不貞腐れているのはメイドの心地捧。よろしく」
「そうなんだー! 同い年だね! あたし豊穣すすき! あまぎりんの同級生で部活も同じなの! よろしく、たゆたん!」
そう言ってすすきはたゆたの両手をギュッと握って笑った。勝手にあだ名まで付けてしまっている。社交的な彼女だからこそなせる技だ。大抵の人間はここまで図々しくはなれない。
たゆたはすすきに握られた両手を見つめながら「たゆたん……」と小さく呟いた。口元の緩み具合からすると、どうやら同じ年の女の子からあだ名を付けてもらえたことが嬉しかったようである。この屋敷からほとんど出たことの無いたゆたは当然友達もいないのだ。
「俺は一期七生。俺も雲行の同級生で、まあ親友っつーやつかな! すすきんと同じく部活も同じのに所属してる。よろしくな!」
一期もすすきと同じように、たゆたに握手を求めた。ニヤニヤと両手を見つめていたたゆたは握手を求められていることに気付き、素直にそれに応じた。
その時、何故かりんと小さく鈴の音が鳴った。何故鈴の音がするのかとたゆたは不思議そうにキョロキョロと辺りを見回し、首を傾げる。
「ん? 何だ、今の音。鈴?」
「何だろうねー。あたし、鈴なんか持ってないよ? いちごんは持ってる?」
すすきが一期にそう問いかける。
しかし一期は彼女の問い掛けに気付いていないようで、何故かぼんやりとたゆたのことを見つめていた。
「いちごん! どしたの、ボーっとして! まさかたゆたんに一目惚れ!?」
「ええっ!? な、何を!」
すすきがきゃっきゃと嬉しそうに一期をからかう。女子というものは本当にこういう話題が大好きである。だがまだ彼には聞こえていないようだ。
からかうネタにされたたゆたはたまったもんじゃない。恥ずかしそうにぽうっと顔を赤らめ、慌てている。ほぼ捧としか関わりを持っていない彼女はスルースキルがまだまだ足りないのだ。
「その話、じっくり聞かせて頂けますか?」
さっきまでロッキングチェアで前後に揺れながら呪詛のようなものを呟いていた捧が突然水を得た魚のように動き出した。
捧の場合、「え? なになに? 恋バナ? あたしも入れてー」みたいなノリではなく自分やたゆたにとってメリットのある話だからこんなにノリノリなのだろう。
「えっ!? あれ? ごめん! 何か言った?」
ボーっとしている間に話題の中心になっていたことに一期は驚いている様子だった。
「たゆた様に一目惚れしたそうですね」
「え? 俺っすか? いや、俺は別に……」
「ほら、君達! 早とちりはやめろ! 違うみたいじゃないか!」
えへへーごめんねーとペロッと舌を出しながらすすきはそう言った。こういう仕草は可愛くないやつがやってもただイラッとするだけなのだが、小動物すすきだと全くイライラしないのが不思議だ。むしろこいつーと優しく頭を小突いてやりたくなる。
それとは対象的に、捧は無表情でチッと舌打ちしていた。顔に表情は全くないのにそれだけで期待させんなボケがとでも言われているような気分になってしまうところが恐ろしい。
たゆたは、この話はやめだと言って仕切り直すようにオホンと咳払いをした。ここからさっきの話題は禁止。もっと違う話をしよう。ほら、例えば雲行の話とか、という気持ちが込められた咳払いだった。
のだが――。
「たゆたんのこと好きになっちゃったみたいっす!」
「そうか、好きになっちゃったか……ええっ!?」
先程以上にたゆたの顔が真っ赤に染まる。
何と本当に一期はたゆたに一目惚れしたと言うのだ。すすきの冗談だったはずなのに、これはちょっとおかしな展開になってきた。
「マジか、いちごん。あたしには人の恋心を瞬時に読み取る力があるようだね。強いて言うならラブ・リーダー、かな。リーダーは指導者の方じゃなく、読み取り機の方ね」
「私のとこしえのライバル、ラブ・リーダーが読み誤るはずがありませんものね。やはりたゆた様に一目惚れしてしまったようですね……。ラブ・ガーディアンとしてはこの恋心、見過ごせません」
「だね。ここは一時休戦して協力すべきなのかもしれないね……」
「百五十年間続いた戦いを一時休戦するくらいの価値がありそうです」
何か良く分からないが意気投合してしまっているすすきと捧の二人。
すすきはラブ・リーダー、捧はラブ・ガーディアンらしい。しかも二人はライバル関係で、百五十年もの間戦っていたらしい。でもこの一期の恋心はその戦いを止めるくらいの価値があるらしい。本当意味が分からない。でも二人は何だか楽しそうだ。
しかしたゆたにはすすきと捧の言葉なんか全く聞こえてはいなかった。人との関わりを持っていなかった彼氏いない歴十五年のたゆたは当然告白されたのも初めてである。どう対応していいか分からず、落ち着かないみたいで先程から部屋の端から端まで行ったり来たりしている。茹でた蛸みたいに真っ赤な頬を押さえながら。
ロボットみたいに、壁が近づくと急速に体の方向を転換するところが何だか笑える。
「ほら、たゆた様が混乱しています。その気持ちが本当ならもう一度告白だぜ、HEY」
「う、嘘じゃないから! マジで惚れたから!」
「うわああああ! やめろおおおお!」
太陽の光を浴びてしまい、死に瀕している吸血鬼みたいな叫び声をあげるたゆた。
「まだだ、まだたゆたんを倒すには足りない……。もっと愛の言葉を!」
「ホントにホントに好きだから! 付き合ってくんない?」
「なんだとおおおおおおおお」
またしても神父に十字架を向けられて瀕死状態の吸血鬼みたいな叫び声をたゆたはあげる。可愛い顔が台無しだ。
「あと少し……あと少しです。ファンタスティックな愛の言葉を紡ぎ出すのです」
「キーワードは契、だ。女性が結びたい契。それは何だか分かるね」
「…………結婚しようっ!」
遂にたゆたがぱったりと絨毯の上に倒れた。綺麗にまっすぐ直角に倒れた。某大乱闘ゲームの配管工オヤジ弟みたいに綺麗に倒れた。
「YOU達付き合っちゃいなよ」
まるで示し合わせたかのようにぴったりとタイミング良く捧とすすきの声が重なった。どれだけ意気投合してしまったのだろう。もしや生き別れた双子なのではと疑ってしまうくらいだ。見た目は全く似ていないが。
「君達! 悪乗りするのはやめろ!」
うつ伏せに倒れたまま何とか顔だけ起こすとたゆたはそう言った。
え? 何のこと? みたいな顔で捧とすすきは口笛を吹く真似をする。ちなみにどちらも全然吹けてはいない。
「悪乗りじゃねえよ! 俺、本気で本気だから!」
カハッと吐血紛いの変な声を出して、たゆたはうつ伏せのまま動かなくなってしまった。
「ゆき君、記憶喪失なんて嘘でしょ。分かる」
「そ、そうっすか……。そうっすよね……」
涙目になりながら雲行はそう言った。涙目の理由は玉ねぎをスライスしているせいでもあり、うつろにすぐばれてしまったからでもあった。自分の大根役者加減が嫌になる。
「ここ、早く出た方が良い。あの小さい子、危険。このままじゃゆき君、殺されちゃう」
「な、何だよそれ。捧さんならまだしもたゆたはそんな子じゃないよ」
むっとした表情を浮かべてうつろは黙り込んだ。危険とか何とか言って連れ戻す気なのだろう。そんな手には引っかからないぞと思いつつ、雲行はジャガイモの皮を剥く。
思った通り何の根拠もない話だからこれ以上続けられないようだ。その証拠に、うつろは話題を変えようとしてか、唐突にこう言った。
「そんなコート持ってた?」
「ああこれ? この屋敷で見つけたんだ」
「え? そうなの?」
「うん。これ、父さんのなんだよね」
「え……おじさん、の? ってことは……」
本当は大きいのに、いつもは気怠そうに細まっているうつろの瞳が本来の大きさを取り戻した。
「多分この屋敷に父さんは来たんだ。しかもあの日に」
「でも……おじさんはどこ? あの小さい子はなんて……?」
「このコートの持ち主の話をしたくなさそうだったんだ。何か隠してるみたいだった」
うつろは眉間に皺を寄せ、感情的になりながらこう言った。
「それってどう考えてもおじさんの失踪にあの小さい子が関わってる! ゆき君も同じ目に遭わせる気かもしれない! 絶対危ない! ゆき君、早く帰ろう!」
あまりに感情的になり過ぎて、うつろは包丁を置くのも忘れている。そんなに包丁を高く掲げたら危ないではないか。あの二人より現時点ではうつろの方が危険だ。今この場面に出くわした人がいれば、迷わずうつろを止めるか警察を呼ぶであろう。
「う、うつろ。包丁……怖い」
「あ、ごめん……。つい……」
雲行に言われ、うつろは大人しく包丁をまな板の上に置いた。
このままでは全く晩ご飯の用意が進まない。とりあえず作りながら話そうと提案すると、うつろはこくりと頷き静かに手を動かし始めた。
「たゆたはそんなことしないって思う。それに捧さんも悪い人じゃない。何か知ってるのは確かだろうけど、話さないのには何か理由があるんだと思うよ」
「そんなの分からない。出会ってたった一週間くらいで相手の本質なんか見抜けやしない」
うつろはたゆたが危険な存在だというスタンスは崩さないようだ。
でも自分もこの考えを変えるつもりはない。だからまだこの屋敷にいる必要がある。彼女は悪いことなんて何もしていないと信じているから真実が知りたい。父達がどこに行ってしまったか分かるまでは絶対に――。
「俺、帰らないよ。この屋敷を離れない」
「ゆき君は利用されてるだけ。絶対に後悔する。私を信じてほしい」
うつろを信じたい気持ちもないわけではない。
でもどうしてもたゆたが危険だとか悪い人間だとか、そんな風には思えないのだ。だから真実を探るのだ。
いや、それは単なる建前で、彼女と一緒にいる理由が欲しいだけなのかもしれない。ここに居座るための言い訳にしたいのかもしれない。
最初は両親の手掛かりを求めてこの屋敷に潜りこんだ。でもここにいる一番の理由がいつの間にかたゆたになってしまっている自分がいた。
「それ、たゆたが作ったんだよ。そんなものを作れる子が悪いことなんてするのかな」
「え……?」
うつろは自分の三つ編みをきれいに纏めてくれているヘアゴムを見つめた。すすきが捧の出店で買ったヘアゴム。これはたゆたが作ったものだ。
「これ……あの子が……」
苦虫を噛み潰したような顔で、うつろはヘアゴムをギュッと握りしめた。
「はい、あーん。た・ゆ・た・ん!」
一期は圧力鍋で短時間煮込んで作った雲行&うつろ特製ビーフシチューをスプーンで一掬いすると、それをたゆたの口元へ近付けた。まるで恋人のように。
「良い! 私は自分で食べれる子だ!」
「良いから、良いから。はい、あーん」
「うう……あ、あーん」
無理やり口元にスプーンを押し付けられ、断りきれなくなったたゆたは仕方なく口を開けた。満足そうに一期、そして何故かすすきと捧も微笑む。
「美味しい?」
「う、うん。すっごく美味しい……」
たゆたはよっぽど美味しかったのか、ほわわんと顔を綻ばせた。作ったわけでもないのに、一期は良かったーと嬉しそうに笑顔を浮かべる。
たゆたが喜んでいるのはただビーフシチューが美味しいからであるし、それを作ったのは自分とうつろであるし……と雲行はイライラを募らせる。
「あのーあれどういうことですかねー。良く分からないんですが……」
眉根を寄せつつ、雲行は向かい側の捧に問いかける。捧はにっこりと微笑みを浮かべ、何ともなしにこう言った。
「お二人は付き合っているのですよ」
しかし当の本人であるたゆたは何ともなしにとはいかないようだ。机を両手で叩き、力いっぱいに立ち上がって叫んだ。
「付き合ってないから! こいつらのお遊びだよ!」
「何度も言わせんなよ。俺は本気だ、たゆたん!」
「ううー」
どうやらたゆたは押され慣れていないようで、こんなに積極的に来られるとどう反応して良いか分からなくなるようだ。大人しく席に着き、もう嫌だと小さく呟きながら縮こまってしまった。何だかすごく可哀想だ。
「俺達がいない間に何でそんな話になってんだよ」
「いちごんがねー、たゆたんに一目惚れしちゃったんだよ! たゆたん可愛いから仕方ないねー、ラブ・ガーディアン!」
「え!? 誰!? ラブ・ガーディアン!?」
「そうですね、ラブ・リーダー」
「ラブ・ガーディアン、捧さんだった! しかも豊穣もラブ・リーダーとか言うやつだった!」
すすきが雲行の反応にあれ? と首を傾げる。
「あまぎりん、あたしの名前呼んだよね?」
「ほ、本当だ、雲行! やはり少しずつ思い出しているようだな!」
縮こまっていたたゆたが一気に元気を取り戻す。
そんなたゆたを、はあ? 何言ってるのこいつみたいな目で見つめる少女が一人。そう、うつろだ。
うつろにはもうばれている。雲行が記憶喪失ではないということが。別に彼女に隠す必要な全くないのだ。でもここでたゆたにバラされては非常に困るのである。
「ゆき君は元々忘れてなんかな、むぐっ!?」
雲行は全身の力を込めてうつろの口を押さえた。
「そうそう! 思い出した! 豊穣すすきと一期七生だろ!? 名前だけな!」
「へーそう言うもんなんだー。ってあまぎりん! うつろんが死にそうだよ!」
すすきにそう言われ、雲行はハッとして手を離す。もう少しで窒息死してしまうところだった。
はあはあと肩で息をしながらうつろはキッと雲行を睨みつける。すごく怖い。
「ご、ごめん……」
「許さん。絶対に一緒に帰ってもらう」
「だ、だからそれは無理だってー」
そう言ってうつろは女子とは思えぬ豪快さでビーフシチューにがっつくのだった。すごく苛立っているみたいだ。
うつろのことは幼馴染としては好きだが、絶対に嫁にしたくないタイプだと雲行は常々思っている。絶対に尻に敷かれそうだ。雲行はこう見えてMではない。どちらかというといじめられるよりいじわるする方が好きなのだ。
「はい、たゆたん。もう一口あーん!」
「も、もうどうにでもしてくれ……」
たゆたが顔を上げたのを見計らって一期は彼女の口元にスプーンを持っていく。もう拒否するのも疲れたらしい。生気の抜けた顔でたゆたは口を開いた。何というか、介護にしか見えない。
見えないのだが、やはりムカつくものはムカつく。突然やってきて一目惚れしたとか言ってたゆたの横を陣取り、恥ずかしげもなくいちゃいちゃしている一期に少々殺意が湧いてしまうのだった。
殺気立った表情で二人を睨んでいると、たゆたがこちらに気付いて恥ずかしそうに顔を赤くした。
「べ、別にどうにでもしてくれというのは付き合うとかそう言う意味では決してないのであってだな。私はこの人のことは全くと言っていいほど好きではないしそれであのその」
「何それ? 俺に言い訳してどうなるわけ?」
また雲行はたゆたに嫌味を言ってしまった。仲直りしたいと思っているにも関わらず、この天邪鬼な口が黙ってくれない。
「そ、それは……だな……」
「勝手にすれば? 一期といちゃいちゃしてればいいじゃん? 美男美女でお似合いなんじゃないの? 俺には全く関係ないことだから」
「おいおい、雲行。お似合いだなんてそんな! 恥ずかしいじゃないかー」
空気を読まない一期がハッハッハと社長か何か偉い人みたいな笑い声を上げる。雲行とたゆたの間に不穏な空気が漂っている今、茶化している場合ではないのだが。
「な、何だよその言い方。い、言われなくても勝手にするよ」
「ああ、そうですかー。じゃあ勝手にして下さいー」
「さ、捧ー」
ぶっきらぼうな態度の雲行をどうにかしてくれと左隣で黙々とビーフシチューを食していた捧にたゆたは泣きつく。
「やきもちですよ、やきもち。やきもちは美味しいですね。二つの意味で美味しいです」
「や、やきもち……」
「はあっ!? ち、違います! 違うからな!」
「へー。あまぎりんもたゆたんのこと好きなんだー? これは見物ですなー、うひひ」
たゆたは顔を真っ赤にしながら俯いてしまう。彼女はこういう話題に滅法弱いのだ。
それに比べてラブ・リーダー&ラブ・ガーディアンはこういう話題にはすぐ食いつく。そして彼女達に食いつかれるとすぐには離してもらえない。どうやら高いスルースキルが必要なようだ。
「そうだったのか! でもいくら親友が相手だろうと俺は負けないぜ、雲行! 正々堂々勝負しような!」
「だから違うって言ってるだろ!」
「恥ずかしがらなくても良いのですよ。恋と言うものは障害があればあるほど燃え上がるもの。障害を乗り越えて手に入れた愛は素晴らしいものです。雲行にはその素晴らしさを味わう資格がある。……まあ知りませんけど」
最後だけ小声だった。でも十分に聞こえるくらいの小声だった。
「ボソッと何か言った! 適当なこと言ってからかわないで下さい!」
「既に恋の火花が散っているようだねー。恋の全面戦争勃発ですなー。あたしはどっちを応援しよっかなー。ルックス的に言ったら勝ち目があるのはいちごんだけど……」
「ねえ聞いてた!? 豊穣、今までの話聞いてた!? しかも酷い!」
駄目だこいつら……早くなんとかしないと。いつか読んだ漫画の台詞が脳裏に浮かんだ。でもどうすればこの二人の暴走は止まってくれるのだろう。スルーする他ないのだろうか。
とその時、今まで静かだった雲行の左隣から異様な音が聞こえた。カチャン、カチャンと皿の底にスプーンを叩きつけるような音だ。ビーフシチューが入っていればそんな音はしないはずである。でもそんな音がしている、ということはつまり左隣の彼女は空の皿からありもしないビーフシチューをひたすら掬おうとしているということになる。
嫌な予感がして、恐る恐る隣に座るうつろを一瞥した。案の定、彼女はありもしないビーフシチューを掬おうとしていた。しかも般若のような表情でひたすらガチャリガチャリと。周りもどうやらうつろの異変に気付いたようで会話を中断した。
そういうことではないと分かっていながらも、一応言っておく。
「あの……おかわりしたいならしてこれば……?」
「おかわり……おかわりね。うん。する。するよ、おかわり。すぐする」
恐ろしい。ただただうつろが恐ろしい。
ここでいつも空気を読める子なはずのたゆたがパッと笑顔を浮かべながらこう言った。
「あ、これがホントのやきもちだ!」
うつろの鋭い視線がたゆたを捉える。その阿修羅のような形相は、女子高生とは思えないほど威圧的だ。目で人が殺せる。というか絶対一度は殺している。
そんなうつろに睨まれたたゆたは正に蛇に睨まれた蛙、猫の前の鼠……いや、鷹の前の雀状態になってしまっている。怖くて動けないようだ。
「あ……あの……これは……えと。き、君のが……ホ、ホントで……く、くも……ゆきのは勘違いで……だ、だから君は……えと……や、やきもち妬く必要は……なく……」
「はあ?」
「……すみません……」
たゆたは、雲行のはやきもちではないんだよ、あなたのそれが本当のやきもちであって雲行は自分にそんな感情は抱いていない、だからあなたはやきもちを妬く必要はないんだよということが言いたかったのだろう。
「うちのたゆた様をいじめないで下さい。八つ裂きにしてあなたシチューを作りますよ」
「別にいじめてない。聞き返しただけ」
「そんな威圧的な聞き返しってあるんですね。目から鱗でした。どうもありがとう」
「どういたしまして」
こちらは蛇と蛇、猫と猫、鷹と鷹の睨み合いだ。どちらも負ける気がしない。
すすきと捧の相性は抜群なようだが、この二人はどうやら気が合わないようである。元々どちらも敵を作りやすい性格なのが災いしているのだろう。
楽しいはずの食卓が一触即発の状態になってしまった。これでは美味しいビーフシチューが台無しである。
「やきもちと言えばさー。この後どうすんの、うつろん」
話題の変え方がものすごく強引だったが、この時ばかりは一期グッジョブと思わざるを得なかった。
うつろは捧から視線を逸らすと、般若のような形相のまま一期の方へ向き直った。さすがの一期もうつろに恐ろしい顔を向けられ、固まってしまう。一応表情を戻してからにしてくれないと、関係ない人がその視線で殺されてしまうぞと雲行は心の中で思った。絶対口には出せない。
「夜の山は色々と危ない。出来れば泊めてもらう」
うつろはちらりとたゆたを一瞥した。
表情はいつもの気怠げなものに戻っていたが、先ほどのトラウマが消えないらしく、たゆたはチワワのようにぷるぷるびくびくしながら言った。
「わ、私もそのつもりだった。今の時間から山を下りるのは非常に危険だからな。君達は高校生だよな? 朝早くに出れば間に合う距離か?」
「自転車だし、六時に出たらギリ間に合う感じだよねー。何時に起きなきゃだろー」
すすきがめんどくさそうに言う。恐らく出発する一時間前には確実に起きておいた方が良いだろう。
「私、帰らない。ゆき君、帰る気ないみたいだから」
「え!? 雲行、帰らないのか!?」
たゆたに続いてすすきと一期も驚きの声をあげる。彼らは、雲行は当然自分達と一緒に元の生活へ戻るものだと思っていたのだろう。
しかし雲行には帰れない理由がある。まだここを離れるわけにはいかない。
「何か家に帰るって考えると拒否反応が出るんだよ。うわー! ほら見て! 手が震えてきたー!」
雲行はわざと自分の右手を大きく震えさせた。しかもすごく大げさに。
彼が記憶喪失ではないということを知っているうつろと捧にはすごく冷やかな目で見られているが、たゆたやすすきや一期は本気で信じてくれているようだ。
「ぎゃー! あまぎりん、ヤバいじゃん! どうしたの!」
驚いて心配してくれるのが嬉しいやら面白いやら。雲行は調子に乗り始める。
「足も震えてきたー!」
「く、雲行! お前、家に帰れない体になっちゃったのか!? 改造されたのか!?」
とことん調子に乗る。みんなが信じ込んでいるのが面白くて堪らない。
「ふるえるぞハート! 燃えつきるほどヒート! おおお――」
「え? 何それ……。どういうことだ……?」
お、これは流石に調子に乗り過ぎたようだ。ちょうど大好きな漫画の台詞を思い出したため、使ってみたが流石に脈絡がなさ過ぎた。
怪訝そうにこちらを見つめるたゆたの視線が痛い。それに加えて捧の冷たい視線も痛い。うつろはうつろで痛い視線は向けてこなかったが、今にも笑いそうな顔でこちらを見てくる。恥ずかしい。
「と、とにかく! 俺、拒否反応が出るから帰れません!」
「と言う訳でゆき君の拒否反応が治まるまで私もここにいる」
「明日の学校さぼんの?」
「ゆき君には言われたくない」
「そ、そうですね……」
痛いところを突かれてしまった。
「じゃあ明日みんなで遊園地行こうぜ! たゆたんとの交流を深めたいし!」
一期が突拍子もない提案をしてきた。彼はやることなすこと突拍子がないし脈絡もない。何故今の会話から突然遊園地に行く話になるのだろう。
「いいねー! 遊園地行きたーい!」
「おい、お前ら学校は」
「だからゆき君に言われたくない」
「で、ですよね……」
でもここにみんなを置く置かないを決めるのは、この屋敷の主であるたゆただ。
たゆたは少し俯きながら、何やら嬉しそうにひっそりと笑っていた。きっと遊園地に思いを馳せているのだろう。子供っぽい彼女はパンダカー程度でも思い切り喜ぶのだろうなと思う。
とここでずっと黙っていた捧が口を開く。
「いつまでも置いておくことは出来ません。譲歩して明日一日置いてあげますが、明後日には絶対に帰ってもらいます。どうです? 一日の猶予を差し上げるのですよ? 明日一日であなたの大事な雲行を取り戻してみたらどうです? いや……やはり無理でしょうね。あなた程度では一日で雲行を取り戻すことは叶わないでしょう」
「安い挑発。でも良いよ。その挑発乗った」
「話の分かる方で良かったです」
どちらも微笑んでいるはずなのに、どうしてこんなに恐ろしく見えるのだろう。果たして微笑みとはこんなに恐ろしいものだっただろうか。二人のバックに龍と虎が見えたような気がしたが、幻覚であることを願う。
「たゆた様、言ってやりましたよ。たゆた様のお・気・持・ち」
「へえ。さっきの、あなたが思ってることだったんだ?」
刃物のようなうつろの視線がたゆたを切り付ける。
「いや、ちょっと違うからな! 何日も置いておくことは出来ないとは思ったが、捧が言ったのとは違う!」
「へえ」
「いや、ホントだから! そんな目で見ないで!」
涙目のたゆたが少し可哀想に感じるのと同時に、自分もいじわるしてやりたいと言う気持ちに駆られる雲行なのであった。
「じゃあ明日はみんなで遊園地だな! いえーい!」
「やったねー! 楽しみだなー!」
「あれ、遊園地行くとかいつ決まったっけ……?」
不思議でならなかったが、たゆたがとても嬉しそうなので良しとしておいた。