「父さんのコート」
突尾山の麓では妖異幻怪☆魑魅魍魎部の点呼が行われていた。
自転車を二時間、とことん漕いで三人はここまでやってきた。しかし休む暇もなく、次は山登りだ。
十二月の初めの休日ということで、今年最後の紅葉狩りにきている人がいそうなものだが、意外にも人っ子一人いなかった。
「妖異幻怪☆魑魅魍魎部、二十四回目の活動を開始します! 部員ナンバー一、一期七生! はいっ! 部員ナンバー三、豊穣すすき!」
「はーい!」
一期の点呼に、すすきは右手を挙げて元気良く返事をした。よろしいと一期は満足そうに頷く。
「特別ゲスト! 仮部員ナンバー四、鏡花うつろ!」
一期は続けて、特別ゲストであるうつろの名前を呼ぶ。しかし返事がない。
「うつろん、うつろん。うつろんだよ、ナンバー四!」
返事をしないうつろに優しいすすきが耳打ちしてくれた。しかしうつろは気怠そうに目を細めつつ一言。
「それ、絶対返事しないと駄目?」
「駄目! うつろんもしっかり覚えて! ことあるごとにナンバーで呼び合うからな!」
「ことあるごとにナンバーで呼び合ったら一体何があるの? 何か特別なことでも起こるの? 素敵な物語が始まるの?」
うつろは一期に畳み掛けるようにそう言った。ナンバーで呼び合う意味を特に考えていなかった一期は怯みを見せる。
「始まらない……こともないかもしれないから返事してよ、うつろん!」
「へ~い」
いかにもめんどくさそうだ。
「やる気がたらーん! そんなんじゃ雲行を見つけられないぞ!」
「はいっ!」
普段の彼女からは想像もつかないくらいの素早さと勢いでうつろは返事をした。ピッと右手をおでこの前まで持ってきて、敬礼までしている。なんと分かりやすいのだろう。
そんなうつろを一期とすすきは温かい目で見つめるのだった。
「では『突尾山の妖怪お友達大作戦☆のついでに雲行を見つけて連れて帰っちゃおう』を開始する!」
「リーダー違う。目的が逆。うつろん、めっちゃ睨んでるよ」
この世の者とは思えない形相で一期を睨みつけるうつろがそこにいた。これは怖い。眼力一つで人を殺しそうな勢いである。
「では『雲行を見つけて連れて帰っちゃうついでに突尾山の妖怪お友達大作戦☆』を開始する!」
「何事もなかったように続けたね、いちごん」
「い、行くぞー!」
おー! と三人は一斉に拳を突き上げた。
こんなグダグダな感じで雲行の捜索は始まった。やる気は満々なのだが、果たして無事に雲行を見つけることが出来るのであろうか。
デパートに出かけたあの日から四日ほど経過していたが、まだ二人はギクシャクしていた。というよりほとんど会話を交わしていない。ビーフシチューもまだ作っておらず、材料は冷蔵庫に眠ったままだった。
別にもう怒っているわけでもないし、たゆたのことが嫌いになったわけでもない。でも何となく接しづらくなっていた。
「この間からたゆた様とほとんど会話をなされていないようですが、本当に何もなかったのですか? 私は心配です」
雲行が部屋で求人情報誌を捲っていると、そう言いながら捧が入ってきた。
謙虚な物言いとは裏腹にドアは思い切り蹴り開けるし、手にはどこで手に入れたのか分からない大きなハリセンを握っていた。全く意味が分からない。
「何ですか、その手に持ってるハリセン! 明らか俺のこと叩こうとしてるでしょ!」
「なんでやねん。なんでやねん。なんでやねん」
「い、痛い痛い! な、何でツッコむんですか! 意味が分かりません!」
バシバシと大きなハリセンでツッコまれる雲行。何もボケていないというのに理不尽だ。いや、もしボケていたとしても酷いことに変わりはないが。
「ツッコミじゃありません。聞いてるんです。なんでやねん。なんでたゆた様と話さんねん。一体何があってん。おっちゃんにゆうてみい。おっちゃん聞いたるから」
「も、もうほっといて下さいよ! ってかいつからおっちゃんになったんですか!」
「おっちゃんな、若い子の助けになりたいんや。おっちゃんもな、若い時に無職のおっちゃんに話聞いてもろてがんばろ思てん。今や立派な無職や。あの時のおっちゃんの言葉がなかったらまだ諦めんと仕事探してたろやろな。諦めも肝心っちゅーこっちゃな」
「何で良く分からないストーリーが展開されてるんですか!」
何故意味の分からない無職のおっちゃんのストーリーと共にリズム良くハリセンで叩かれているのだろう。捧の行動は良く分からない。本当に彼女は変わっている。
「引っ越せー引っ越せー」
「ちょっと叩くの楽しくなってきてるでしょ!」
「最初から楽しいですよ、ふふ」
流石ドSの代名詞、捧である。涙目になりつつ誰か助けてとドアの方に目を向ける。誰かと言ってもこの屋敷には他にたゆたしかいないのだが。
するとドアの端からさらさらのプラチナブロンドがはみ出していた。明らかにたゆたがドアの向こうにいる。体隠して髪隠さずである。
これはたゆたとさり気なく会話をするチャンスかもしれないと思い、雲行は叫んだ。
「た、助けてー! そ、そこの人ー!」
雲行の悲痛な叫びを聞き、たゆたはひょっこりとドアの端から顔を出した。何だか少し嬉しそうである。そしてタタタと急いで部屋の中まで入ってくると、捧から大きなハリセンを取り上げてくれた。
「おや、たゆた様。ごきげんよう」
「ご、ごきげんようではない。こんなもので人を叩いたら駄目だ。痛い」
「大丈夫です。たゆた様も叩かれてみますか? 痛みが快感に変わる瞬間がきっとありますよ。癖になりますよ。と雲行が申しております」
「申しておりません!」「そんな快感覚えたくないよ!」
二人は同時に捧にツッコミを入れてしまった。一瞬顔を見合わせたが、言葉は交わさずすぐにお互い目線を逸らす。何となく言葉が出てこなかった。
「本当に何があったんです? せっかく良い感じになっていたのに。早く仲直りをしてさっさとたゆた様と愛し合いなさい、雲行」
「ちょ、捧! 何を言っている!」
捧の言葉で和らいでいたはずのイライラがぶり返してしまう。
何がさっさと愛し合えだ。こっちにその気があったとしても、たゆたに全くその気はない。事故でキスしてしまっただけでもあれだけ怒るのだ。嫌われているのだ。
「もうやめてくれますか、捧さん。俺達がくっつくことなんて一生ありませんから。たゆたは俺のこと嫌いみたいですし?」
「な……だ、誰もそんなことは言ってないだろ?」
「言ってはいないけどそういう態度を取っただろ」
「私は別にそんな態度は……」
「俺も君のことなんて嫌いだ。もう顔も見たくない」
自分は何を言っているのだろう。嫌いなわけがないし、もっとたゆたの顔を見たいとも思っている。
それなのに天邪鬼な言葉が、まるで誰かに操られているかのように次々と溢れ出してくる。素直じゃない自分に雲行自身も驚いた。
「置いてもらえるのは感謝してるけど、そんなに嫌われてるならもうこのやし……」
たゆたはすごくもの悲しげな表情を浮かべながら雲行の次の言葉を待っていた。
しかし、雲行はある一点に気になるものを見つけて、そちらに集中してしまっていた。目にあるものがふいに飛び込んできたのだ。たゆたの後ろにある衣装箪笥の扉が微妙に開いていて、そこから見覚えのある布切れが飛び出している。捧が扉を蹴り開けた瞬間に開いてしまったのだろう。自分の服はリュックサックに詰め込んだままだったので今まで気が付かなかった。
衣装箪笥に父親が着ていたコートと良く似たものが入っているだなんて、今まで全く。
「あれ……何? あのコート……」
「……え? あ、あああれっ!? そ、そんなものが!」
たゆたは思いと反した雲行の言葉に一瞬驚き、後ろを振り返ってからもう一度驚いた。そして急いで箪笥に近寄り、コートを持って部屋から出て行こうとした。
確実にたゆたのものでも捧のものでもない男物のコートだった。雲行の両親がいなくなったのは七年前の冬だ。何か関係があるような気がしてならない。
「待って! 誰のコートなの?」
「あ……えっと……知り合いのだ」
「知り合い? どんな知り合いなの?」
「え? あの……ち、父のだ! そう、父の!」
「嘘だよね」
「うっ……」
たゆたは確実に何か隠している。
たゆたの父親の物ではない。だとしたら一体誰のものなのだろうか。
雲行はたゆたに近寄ると、おもむろにコートを取り上げた。
「や、か、返せ!」
「嫌だ」
「たゆた様にそのコートをお返し下さい」
「いーやーでーすー!」
捧に本格的に取り返される前に雲行は走って部屋を出た。一応男なのでたゆたや捧より断然足は速い。追いつかれることはないだろう。
屋敷の廊下を走り抜け、階段を駆け下り、玄関に辿り着くと一気に外へ飛び出した。
ちょうど太陽が沈みかけており、外はかなり肌寒かった。でも何か羽織る時間はなかった。雲行は木の陰に隠れつつ、たゆたから奪い取ったコートを広げる。
「やっぱり、父さんのと同じやつだ」
七年前のことは覚えている。父と母がどんな服を着て、どんな鞄を持って、どんな言葉を自分に掛けて出て行ったのか、まだぼんやりとだが覚えている。
雲行の大好きな妖怪と友達になって帰ってくるから楽しみに待っててね。そう笑いながら出ていった二人の顔を今でも忘れていない。
雲行はコートのポケットを探った。出てきたのは父が大好きだったミント風味のタブレット菓子だった。あの頃の雲行はそれが辛くて食べられなかった。父に無理やり食べさせられて涙目になり、母に笑われた記憶が呼び起される。懐かしくて泣きそうだった。
他に出てきたのはコンビニのレシートとゴミクズだけだった。レシートは感熱紙なのでほとんど消えかかっていて読めなくなっていたが、辛うじて見えた日付は両親が家を出た日と一致していた。
「父さんの、だよな」
ギュッと抱きしめると優しかった父の匂いがした、気がした。
九年しか一緒にいることは出来なかったけれど、あの時ほど楽しい時間はなかった。
毎日両親から人ならざるものの話を聞いて憧れて、自分もいつか見つけて友達になってやると思っていた。父と母と、妖怪と雲行、四人で仲良くお話したり遊んだり、そんな日がいつかやってくると思っていたのに――。
「ゆき……君?」
振り返るとそこにうつろが立っていた。
雲行は父のコートを羽織り、走って走って屋敷の玄関に辿り着いた。
この中に逃げ込めば大丈夫、そう思って扉を開けようとするが何故か開かない。捧のいたずらだ。絶対そうだ。このままでは追いつかれてしまう。
雲行は力いっぱい扉を叩いた。
「開けて! 捧さーん! 開けて下さーい! お願いですから開けて下さーい!」
「あなたが悪いのですよ。たゆた様から奪い取ったりするからです」
「捧さん!? お願いします! 開けて下さい!」
捧が扉の前にいることを知った雲行は必死に開けてくれと呼びかける。
しかし捧に扉を開ける気配はない。
「ゆき君、何で逃げるの!?」
ついに追いつかれてしまった。雲行を連れ帰ろうとやってきた、幼馴染のうつろに。
万事休すかと思った時、何故かいきなり屋敷の扉が開いた。雲行はプールにでも飛び込むように玄関に転がり込むと、素早い動きで扉を閉めた。
が、うつろの反応の速さも負けてはいなかった。咄嗟に持っていた鞄をドアの間に挟んだのだ。これでは閉めようにも閉められないではないか。
「ゆき君! ここ開けて!」
「い、嫌です! 誰ですか、あなた!」
「誰ってうつろ! 鏡花うつろ! ゆき君の幼馴染にして同居人のうつろ!」
「知りません! そんな人全く知りませーん!」
雲行とうつろ、どちらも引かない、揺るがない。
雲行はあの家には二度と帰らないと決めた。だからここでうつろに負けるわけにはいかない。そしてうつろの方も雲行を連れて帰りたいから負けられないのだ。
「く、雲行。そんな拒否しなくても、話くらい聞いてみたらどうだ?」
「聞かないっ! 絶っ対聞かない!」
「何で聞かないの、ゆき君! 遅れてきた反抗期なの、ゆき君!」
「雲行、私も加勢します」
「ええっ!? 何でだよ、捧!」
ここで雲行に捧が加勢する。男の雲行+捧対うつろ。これはどう考えてもうつろの負けだ。勝負あった。雲行はニヤリと新世界の神のような勝利の微笑みを浮かべた。
のだが――。
「うつろん、こんなとこにいたー。でっかいお屋敷だねー。って何やってるの?」
「なにこの屋敷、人食い屋敷みたいなもん!? うつろんは今、人食い屋敷との壮絶な戦いを繰り広げちゃってるの!? すげーすげー!」
「違うわっ! すすきんといちごんも手伝って! この中にゆき君がいる!」
向こうにも仲間がいたのだ。高校生三人対雲行+捧、これは雲行チーム危しだ。しかも向こうのチームには長身でがっちりした体型の一期がいる。一般的な高校生男子の雲行とは力の強さが全く違う。もしここにたゆたが加わったとしても負ける気しかしない。
「ズルい! そっち三人でこっち二人だぞ!」
「あーホントだー! あまぎりんの声がするー! あまぎりーん!」
「真面目にやって、すすきん! これは負けられない戦いなの!」
「いつも死んだ目をしてるうつろんがやる気満々だー!」
「死んでない! 精一杯生きてる!」
雲行、捧チームが確実に押され気味である。一瞬でも手を抜けばこちらの負けは確定だ。そうしたら雲行はうつろに無理やりにでも連れ帰られるだろう。それはどうしても避けたかった。こうして父親の手掛かりも見つけたのだ。帰れないし、帰りたくもない。
しかしその時、雲行の耳にフッと生暖かい空気がかかった。
「ひゃっ!?」
こそばゆさと微妙な気持ち良さで雲行は不覚にもドアから手を外してしまう。
その瞬間、扉が押し開けられ、反動で思いっきり尻から転げた。捧はというと押し切られる寸前のところで避けたらしく、転がる雲行を可哀想なものを見るかのような目で見つめていた。その横には雲行に息を吹きかけた張本人であるたゆたが満足そうに立っていた。
この角度だとパンツが見えそうだとかいうことは置いておいて、雲行はたゆたに問い詰めるため起き上がろうとした。
のだが、先にうつろに抱きしめられてしまい、立ち上がることが出来なくなった。
「ゆき君……」
「良かった、あまぎりん! やっと見つかったよー」
「俺のエロ本持ったまま家出すんなよ、雲行!」
うつろに続いてすすきと一期の二人もしゃがみ込み、優しい笑顔でそう言った。
「い、いや。あなた達、誰ですか? 俺、知りませんけど……」
「記憶喪失ごっこか? あんま面白くないぞ」
「いえ、ごっこ遊びではありません。彼は記憶を失っています」
そう言って捧は雲行からうつろ達を無理やり引き剥がした。強引に立ち上がらせられて、たゆたの元まで引っ張られる雲行。うつろ、すすき、一期の三人は茫然とその光景を見つめている。
捧は雲行とたゆたの二人を自分の背中に隠すと深々とお辞儀をした。
「なので、お帰りいただけますか?」
「いや、捧。何で今日に限っていつも以上に好戦的なんだ……」
捧は朗らかな笑顔を浮かべていた。でも彼女の笑顔は普通の人の笑顔とは違う。彼女は純粋に嬉しい時や楽しい時には決して笑わない。
「あれっ? あー! きれいなお姉さんだ! あの出店の!」
「あ、ホントだ! きれいなお姉さん!」
捧の正体に気付いたすすきと一期が言う。
そう彼らは一度出店で捧に会っているのだ。そして一応謎の中国人に扮した雲行にも会っていたりする。
「あの時はお買い上げどうも。でもそれとこれとは別です。さっさとお帰り下さい」
「そうだそうだ! 誰だよ、お前ら! 帰った帰った!」
「二人とも。どうやら知り合いみたいだし、話を聞くくらい良いではないか」
雲行とたゆたを隠しながら笑顔でお帰りを願う捧。捧の後ろから手だけを出しながら帰れコールをする雲行。そんな二人を呆れた表情で見つめるたゆた。
「あまぎりん酷いよ! どれだけうつろんがあまぎりんのこと心配したと思ってるの?」
「だから彼は記憶がないと言っているでしょう? 頭、悪いんですか?」
「それでも……。話をするくらい良いじゃないですか……」
小動物すすきが瞳にいっぱい涙を溜めている。
別に雲行はすすき達を苛めたいわけじゃない。あの家に帰りたくないのも、自分がいるとうつろの両親の仲が悪くなってしまうためである。
うつろのためを思うから、これ以上関わりたくない。もう自分のことなんて忘れてほしい。ちゃんと置き手紙もしてきた。今までのお礼としてお金も送ることにしている。もうこれで縁は切れたはずなのだ。
でもこうして探しに来てくれるのが、少し嬉しい自分がいて嫌だった。もう関わってはいけないはずなのに、自分はまだ関わりを求めているのだろうか。うつろに辛い思いをさせてまであの家に戻りたいのだろうか。
雲行はキュッと唇を噛み締めた。
「ゆき君、話聞いて。少しでも良いから。ゆき君と話がしたい」
うつろの表情は正に真剣そのものだった。自分はあの家にとっての癌でしかないはずなのに、どうしてうつろはこうも自分のことを想ってくれるのだろうか。
帰る気は未だになかったが、このまま追い返してしまうのも可哀想な気がしてくる。話を聞くくらいなら良いかもしれない。
雲行は決心した。
「泣かないで。三人とも、入ってくれ。何ももてなしは出来ないが歓迎するよ」
しかし雲行が言葉を紡ぐ前に、たゆたが捧の後ろからうつろ達の前に移動してそう言った。涙を堪えるすすきの頭をポンポンと背伸びしながら撫でている。小さい女の子代表のすすきであるが、それ以上にたゆたは小さい。背伸びをしなければ届かないくらいに彼女は小さい存在だった。
「ううっ……ありがとうー」
素直に感謝するすすきと違い、うつろは何故か鋭い瞳でたゆたのことを睨んでいた。
「たゆた様、あなたは何をなさっているのか分かってらっしゃいますか?」
「客を招き入れただけだ。君達、お腹は空いていないか?」
すすきと一期の二人がぺこぺこです! と笑顔で遠慮なく答えた。
すすきのさっきの涙は一体どこへ行ってしまったのだろう。まさかの嘘泣きだったのだろうか。苛めているような気持ちになってしまった自分は純粋過ぎたのだろうか、と雲行は思うのだった。
「じゃあ俺、ビーフシチュー作るよ。材料まだ残ってたし……」
そう言ってから雲行はちらりとたゆたの方を盗み見る。
たゆたに作ってやると約束していたビーフシチュー。まだはっきりと仲直りは出来ていない。こんな時でないとこのまま材料が腐ってしまうような気がしたのだ。
たゆたもこっちを見てくれるかと少々期待したのだが、彼女はそうかと短く呟いただけでこちらを見はしなかった。作ってほしいと言ったのはたゆたなのに、全く喜ぶ気配がないので少々ムカッとしてしまう。
「雲行、あなたまで何を言っているのですか。連れ戻されて良いんですか? あなたの下手くそな演技じゃ記憶喪失じゃないことなんてすぐばれますよ。大根役者のあなたが騙せるのなんかたゆた様くらいですよ」
捧が雲行にしか聞こえないようにこそこそとそう言った。雲行も他の人、特にたゆたには聞こえないように小声で返事をする。傍から見るとものすごく怪しいだろう。
「別に記憶喪失はここに居座るために言ったことなのでばれても構わないんですけどね。ていうか大根役者って失礼な!」
「大根役者だから仕方ないでしょう。やーいやーい大根役者ー」
「う、うるさーい! 頑張ったのにー!」
何やら楽しそう(?)に会話を繰り広げている雲行と捧を不思議そうな顔でみんな見ている。その視線に気付いた捧はコホンと一つ咳払いをし、小さな声で短くこう言った。
「そのコートはあげますからこの屋敷から出ていくことだけはないように」
捧の鋭い視線が雲行を捉える。
先程咄嗟に羽織った父親のコートの端を掴みながら思う。何かを隠しているたゆたと捧。そしてこの屋敷にあった父親のコート。ならば一体両親はどこに行ってしまったのだろう。
やはり、この二人が両親を……。
いや、それは有り得ない。一緒に過ごした時間は短いし何の根拠もないけれど、雲行は絶対にこの二人は悪いことなんてしないと確信していた。
もしかしたら自分のことを思って黙っていてくれているのかもしれない。それにもしかしたら雲行の両親のことがたゆたにとって何かトラウマになっているのかもしれない。
だったら無理には聞き出さず、自分で真相を見つければ良いだけの話だ。
「雲行? 何をボーっとしているんですか? 作るならさっさと作ってしまいなさい。たゆた様がお腹を空かせてしまいます」
捧の言葉で雲行はハッと我に返る。いつの間にか物思いに耽ってしまっていたようだ。
「あ、はい」
「ゆき君。私、手伝う」
「ど、どうも」
そうして雲行はうつろと連れ立って台所へと向かった。