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「天邪鬼はキスをする」

「朝から私のこと避けてるだろ?」

 雲行はブフォっと口からうどんを吹き出しかけた。というか若干吹き出した。口から飛び出たうどんを吸って、タオルで口元を拭いながら言う。

「べ、別に避けてませんけど?」

 平静を装おうとし過ぎておかしな顔になっている。

「おかしいだろ。なんだ、その変な顔は」

「いや、元からですし。元から変な顔ですし。ほら、ちゃんと見てみたらどうです?」

 と言いつつタオルで顔を隠す雲行を、呆れた表情でたゆたは見つめる。

「言ってることとやってることが違うし。しかも何で敬語なんだよ」

「居候の身ですから当然のことですし」

「昨日は普通にタメ口だっただろ」

 たゆたの言う通り、雲行は朝からたゆたのことを避けている。

 実は深夜の出来事から一睡も出来ていなかった。何とか動悸は治まったのだが、変に意識してしまい、たゆたのことがまともに見れなくなってしまったのだ。

 我ながら女々しいなと雲行は心の中で一人嘆くのだった。

「何ですか? 実録風呂密着事件だけじゃ飽きたらず、寝ている間にたゆた様がキスでもしましたか?」

 たゆたの食べたこん兵衛を片付けながら、からかうように捧は言った。顔に意地悪な微笑みを浮かべながら。

「ち、違います! そんなんじゃないです!」

「そ、そうだそうだ! そんなことしてないから!」

 雲行とたゆたの頬が一気に赤く染まる。

 自分も否定したものの、そんなことはしていないと言うたゆたに雲行は違和感を覚えた。

 だって本当はしようとしていたじゃないか。とんだ嘘つき者だ。

「え? 何それ」

「は? 何それって何それ」

「何それって何それって何それ。だってたゆたちゃん、昨日……」

「じ、実録風呂密着事件か? あ、あれは本当にすまなかった。許してくれ」

「いや、それじゃなくて」

「え? 他に何か君の気に障るようなことをしたか?」

 頬を赤く染めたまま、たゆたは心配そうに雲行を見つめる。

 彼女にそんなつもりはないだろうが、微妙に上目遣いになっていてとても愛らしかった。目を合わせていられなくて、雲行は思いっきりたゆたから目を逸らす。そして赤い顔を隠すように片手で口元を押さえた。

「……そんなに私の顔が見たくないのか」

 顔を見なくてもたゆたが落ち込んでいることが声色だけで分かった。

 別にたゆたのことが嫌いで顔を逸らしているわけではないので、雲行は必死に取り繕う。もちろん顔は逸らしたままだが。

「べ、別にそう言う訳じゃないけど! 少々距離をね、取りたいというかね! このままじゃ俺、君のことを何というかね! 俺は単純な人間だからちょっとしたことでこう……人のことをね……。と、とりあえず! 今、非常に精神状態が危ういんですよ!」

「つまりたゆた様が可愛すぎて発情している、と。最低ですね」

「そんなの一言も言ってないでしょう!」

 捧の言い分はある意味正解かもしれないが、一応一言もそんなことを言っていないので反論だけはしておいた。

 ちょっとお風呂でハプニングがあったり、キスされそうになったりしたからって、雲行はたゆたのことを異性として意識し始めてしまっていた。

 まだ会って間もないというのに、会話もほとんどしていないというのにだ。

 そんな単純過ぎる自分が情けなくて恥ずかしくて、雲行はどうにかこの気持ちをなくしてしまいたいと思っていた。

「……そんなに嫌か。知らないうちに君に嫌なことをしてしまったのかな。すまなかった。私も出来るだけ君の視界に入らないよう努力する」

「え? いや、違うって! そういうのじゃないから!」

 と言いつつ、やはりたゆたの顔を見ることが出来ない。そんな雲行の態度が更にたゆたを不安にさせているというのに。

「あの、たゆたちゃん!」

「ん、なんだ?」

 お互いがお互いに背を向けながら二人は言葉を交わす。傍から見るとものすごく滑稽だろう。

「俺、今から出かけようと思うんだけど、一緒に行かない!?」

 雲行はたゆたの方に向き直る。そしてこちらに背を向ける彼女の細い肩を掴み、無理やりこちらに顔を向けさせた。

 いつまでもたゆたの顔を見て、女々しく頬を真っ赤になんかしていられない。一刻も早く耐性を付けなければ。そしてあの出来事が起こる前の精神状態に戻らなければ。

 立て続けにたゆたと急接近するハプニングが起こって混乱しているだけなのだから、すぐ元に戻れるはずだ。

「そ、外か? 外はちょっと……」

 いきなり積極的になった雲行に、たゆたは少々驚いているようだった。大きな瞳をまん丸くしている。

 雲行の方も気が気でなかった。たゆたの顔を見る度に昨日の出来事がフラッシュバックしてきて恥ずかしくなる。雲行は全世界の高一男子一、ピュアな男かもしれない。あんなことくらいで照れるから彼女いない歴十六年なんだ、この童貞! と雲行は自分に鞭を打った。

「だ、駄目? デパートに買い物に行きたいなって思ってるんだけど……」

「いや、駄目ではない……。でもなあ……」

 これは、たゆたを無駄に不安にさせてしまった償い+たゆたのことをこれ以上意識しないようにするため逆に接する機会を作って慣れてしまおうという荒療治+外に出る気配がないたゆたを連れ出そうという目論みだ。

「駄目です、たゆた様。絶対駄目です。行ってはなりません」

「でも……せっかく誘ってもらえたから……」

「駄目です。行ったら家にあるこん兵衛に全部水を注ぎますよ。開けてビックリふやけこん兵衛ですよ」

「えーそれはやだなー。こん兵衛は私の心のアイドルだし……」

 たゆたはどちらでも良さそうであるが、捧がどうしても外出を許してくれない。

 捧のことだからたゆたのためを思って言っているのだろうが、行きたがっているのだから行かせてやればいいのにと雲行は思った。

 あまりに過保護すぎる人間を見ると、少々イラッとしてしまうのだ。

「たゆたちゃんは行きたそうにしてるじゃないですか。ちょっとくらい外出させてあげても良いんじゃないですか?」

「は? あなたはたゆた様の何を知っているんですか? ウザいですよ。自分が居候の身だということを理解してらっしゃいますか?」

「そ、それは……」

 痛いところを突かれ、雲行は黙るしかなかった。イラッとして勢いで強く出てしまったが、雲行は居候の身。本来口答えする権利なんかない。

 それに雲行は捧の言う通り、たゆたのことをまだ良く知らない。ハッキリ言って部外者である。

「こ、こらこら。喧嘩するな」

「別に喧嘩じゃありません。本当のことを言ったまでです」

「で、でも俺、間違ったことは言ってないと思います」

「まだ言いますか。部外者は黙っていて頂けますかね。耳障りなので」

 捧は鋭く雲行をねめつける。

 何となく負けたくなくて、雲行も捧から視線を外さなかった。

「私、久しぶりに外に出てみるよ。大切なお客の誘いを断るわけにはいかないからな!」

「たゆた様、何をおっしゃっているのですか。馬鹿野郎ですか」

「よそいきも時々着てやらないと可哀想だしな」

「駄目とゆうとろーが」

「捧が駄目って言っても行くから。ちょっと着替えてくるから待っててくれ」

 そう言ってたゆたは足早にリビングを後にした。

 捧の鋭い視線が雲行に突き刺さる。何故か分からないがものすごく痛かった。捧の視線には殺傷能力があるようだ。

「たゆた様は言い出したら聞かないのでこれ以上止めません。でもこれだけは知っておいて下さい。たゆた様は人ごみが苦手なのです。パニックに陥ることもあります。強がりなので自分からは言い出さないと思います。なので先にお伝えしておきます。私がこの話をしたことはたゆた様には内密に」

「そ、そうだったんですか……。すみません、でしゃばってしまって……」

 やはり捧はたゆたのことを思って言っていたのだ。それなのに雲行は自分の感情に任せて失礼なことを言ってしまった。

「本当ですよ。鬱陶しいったらないです。何です? 過保護な私にムカつきましたか? たゆた様に自分を重ねたとか?」

「捧さんってすごく痛いところをピンポイントで突いてきますよね……」




 いつもTシャツ一枚にハイソックスという服装しか見ていなかったのでたゆたの私服姿はすごく新鮮だった。蝶と薔薇の柄が入ったクラシカルなジャンパースカートに白のブラウスがとてもマッチしている。一般人とは少しかけ離れた感じのファッションセンスだが、たゆたにはとても良く似合っていた。じっとしていれば大きな人形と見紛いそうである。

 それに比べて雲行は店員におだてられて買ってしまったあまり気に入っていないパーカーにカットソー、穿き慣らしたジーパンという無難過ぎる服装だった。一緒に歩いているとすごく浮きそうで、たゆたを誘ったことを少し後悔した。

 捧に、たゆたに何かあったら天狗に攫ってもらうとか河童にキュウリとして差し出すとか色々言われながら屋敷を後にした。ここからは三十分かけて山を下り、駅まで歩き、電車に乗ってデパートに向かう。

 久々に外に出たらしいたゆたは、最初は鼻歌交じりに歩いていたが、二十分もしないうちに足が痛い、少し休みたいなどと文句を言い出した。

 しかし雲行は甘やかさなかった。というか、あれ? これデート? まさかのデート? とか考え出してしまい、たゆた自身のことを気にする余裕がなくなっていた。自分のことに夢中でたゆたの言葉なんかほとんど聞こえていなかったのだ。これでたゆたに何かあったら捧に殺されるかもしれない。

 だが運良く何事もないまま駅に着くことが出来た。そしてやっと落ち着いてたゆたと会話を交わしたのは電車に乗り込んだ後であった。

 平日の昼ということもあってか、人は少なく座ることが出来た。やっと休憩することが出来、たゆたはふうと大きなため息を吐いた。

「私の話、聞いていたか?」

「え? な、何か話してた? ご、ごめん。ちょっと考え事してて気付かなかった」

「長い考え事だな」

 ぷくっと頬を膨らませるたゆた。どうやら話を全く聞いてもらえなくて拗ねてしまったようだ。

 これはいけない、と雲行は食べ物で釣る作戦を実行する。

「ご、ごめん! あとでクレープか何か奢るから! たゆたちゃん、クレープ好き?」

「クレープ? 昔、一度だけ食べたことあるかも。というか君、財布あったんだな」

 雲行の握りしめる黒の財布を見つめながらたゆたはそう言った。

 最初に会った時、雲行は財布がないみたいだとたゆたに言った。でもあれは嘘で、ちゃんとリュックサックのポケットに入っていたのだ。でもたゆたはそれを知らない。

「あ、ああ! 何かリュックのポケットに入ってた! でも住所とか分かりそうなものは何一つとして入ってなかったよ! すごく残念!」

「そうか、残念だな。早く家に帰れると良いな?」

 そう言って笑うたゆたを見ると、ときめきを感じると同時に胸が苦しくなる。たゆたは本気で雲行が記憶を取り戻し、元の生活に戻れることを願っている。

 でも記憶喪失なんて真っ赤な嘘だ。雲行はたゆたを騙している。あの屋敷にいるためには嘘を吐き続ける必要があるから仕方ないのだが、それでもやはり胸が痛む。

「帰れなくて良いかも、なんて」

「それは駄目だ。帰らなければ。君みたいな普通の人間は私なんかと一緒にいるべきではない。私は本来、人と関わるべきではないのだ」

「たゆたちゃんだって、普通の人間だろ?」

 雲行の問い掛けに、たゆたは困ったように笑った。その儚げな笑顔に、またときめきと同時に胸の苦しさを覚えるのだった。

「そのたゆたちゃんって言うのやめないか? たゆたで良い。君のことは雲行って呼んでも良いか?」

 『これ以上意識しないようにしよう大作戦』だというのに、どんどんたゆたが可愛く見えてきて仕方がなかった。胸の高鳴りや赤らむ頬なんてものは、自分でコントロール出来るものでもない。

「う、うん。これからクレープのことはたゆたって呼ぶね」

「何かさっきのとごっちゃになってるぞ。大丈夫か?」

 全然大丈夫ではなかった。でもここで諦める雲行ではなかった。どうにかして意識しないように持っていかなければ。そう思いながら雲行は頭をブンブンと大きく振り、グッと握り拳を作って言った。

「クレープだよ! 大丈夫ちゃん!」

「いや、良く意味が分からないんだが……」

 本当に自分でも意味が分からなかった。こんなに異性を意識したことは初めてだった。

 もしかしたら初めて会った夜、意識を失う前に見たあの美しい姿に一目惚れしていたのかもしれない。

 もうあの時からたゆたに心を奪われていたのかもしれない。




 終点に近付くに連れて人が多くなる電車。それと比例してたゆたの顔色も悪くなっているような気がした。そして目的の駅に到着した頃には顔が真っ青だった。小さな手で苦しそうに胸を押さえている。

 やはり久しぶりに外に出たたゆたをこんな人通りの多い場所に連れてきたのは間違いだっただろうか。でもせっかく乗り気になっているたゆたを止めるのも気が引けたし、今さら場所を変えようと言っても強がりのたゆたは嫌がるだろう。

「さ、さーあどこに行くのだ、雲行。それにしても……ひ、人が非常に多いな。た、大したことはないが。万国博覧会に比べればなんてことはない。万国博覧会に比べればな」

「……だ、大丈夫?」

「な、何がだ。何も大丈夫じゃないことなんてないじゃないか。ただ、人がゴミのようだというだけだ。大したことはな、ひゃっ!」

 その時、たゆたが人に押され、波に攫われるように人ごみに流されていってしまった。

「うわっ! たゆた!」

 人ごみを掻き分け掻き分け、何とかたゆたの手を掴むことに成功する。人通りの多いところで突っ立っていた雲行達にも落ち度はある。だが一応この人ごみの中にいるはずの、ぶつかってきた人間に睨みをきかせておく。

 そしてたゆたを人の少ない場所まで引っ張っていった。

「たゆた、大丈夫?」

 彼女は何が怖いのか、カタカタと震えていた。額には汗が浮かんでいて、先程よりも顔色が悪い。怪我をしたのだろうかと彼女の体を観察してみたが、見た感じではないようだ。 

 なら一体どうしてしまったのか。雲行はたゆたに呼びかける。

「たゆた? どうしたの? どっか痛い?」

 雲行の声は届いていないようだ。瞳に涙をいっぱい浮かべ、怖いと小さな声で呟いている。もしかしたら人ごみに流されたことでパニックが最高潮に達してしまったのかもしれない。

「大丈夫。ここには俺以外誰もいないよ。安心して。怖くないから」

 優しく抱きしめてやると、たゆたも雲行の背中に手を回してきた。小さな手が雲行の背中を掴む。抱きしめてみると思った以上にたゆたは小さかった。

 そしてまたあの良い匂いがした。花の様な良い匂い。香水をつけているわけでも、シャンプーや洗剤の匂いでもない。たゆた本人の匂い。

 ドキドキと胸が高鳴るのを感じた。たゆたが辛い思いをしているのに不謹慎だぞ、俺の心臓! と思っても、ナイフで刺したりしない限り止めることは出来そうになかった。

「……ご、ごめん……。恥ずかしいところを……。人が多いところなんて久しぶりだから……ちょっとパニックになってしまった。も、もう離してくれていいぞ」

 やっと少し落ち着いたらしく、たゆたは雲行の背中から手を離した。雲行も言われた通り抱きしめるのをやめる。

 このまま抱きしめていたらどうにかなってしまいそうだった。というかたゆたのことをどうにかしてしまいそうだった。

「い、いや……俺もごめん。もっと、人が少ないとこに来れば良かったね」

「私が来たかったから来たんだ。君が気に病む必要はない」

 一応落ち着いたようだったが、良く見るとたゆたはまだ震えていた。顔色も優れないし、今日はもう帰った方が良いかもしれない。

「今日はもう帰ろうか?」

「え、ええ!? い、いやだ。まだクレープ食べてないし……」

「で、でも体調悪そうだよ?」

 それでもたゆたは大丈夫だと言い張った。でも全く大丈夫そうには見えない。

 これは困ったと雲行は頭を掻く。

「やっぱ帰ろうよ。またはぐれたりしたら怖いしさ。今度は捧さんも一緒に――」

 全部言い終わる前に、たゆたが雲行の手を掴んだ。小さく白いたゆたの手が、雲行の手を握っている。これは所謂カップルにありがちな、手を繋いで歩くという行為をしようとたゆたは言っているのであろうか。

「こ、これで良い。これならはぐれないからクレープも食べられる」

 ピンク色に染まるたゆたの頬。でも雲行の頬は、たゆた以上に真っかっかであった。でも恥ずかしくてそっぽを向いていたたゆたはそれを知らない。 助かった、と雲行は一人小さく呟くのだった。

 その後、雲行は一度どこかで休もうかと提案した。しかしたゆたがそれを断ったので、彼女の体調を心配しながらもデパートへと向かった。

 デパートに着いた頃には、手を繋いでいるせいなのか、たゆたはいくらか落ち着いたようだった。顔色もいつも通りのピンク色に戻っているし、額に汗も浮かんでいなかった。それどころか物珍しそうにキョロキョロと辺りを見回しては雲行にあれはなんだと聞いてくる始末だ。

 今までほとんど外に出たことがないようだし、家にはテレビも何もないので見るもの全てが珍しいようだ。

「ところで雲行は何を買いに来たんだ?」 

「自炊しようかなと思って色々と材料をね。カセットコンロ買ったら屋敷のガス代には影響しないし良いかな、とかさ」

「こん兵衛じゃ不満なのか?」

 心のアイドルこん兵衛を否定されているような気でもしたのだろうか。口をへの字に曲げながらたゆたは言った。

「いや、不満じゃないけど……たまには違うものも食べたくない? 三食こん兵衛は流石に飽きるでしょ。何か食べたいものある? 頑張って作るけど」

「別に全くと言っていいほど飽きないけど……寒いからビーフシチュー食べたい……」

 やはりたゆたも三食こん兵衛で満足しているわけではなかったようだ。でも自分達は自炊が出来ないから仕方なくこん兵衛を食べているのだろう。

 雲行も料理は得意な方ではないが、たゆたに喜んでもらえるよう頑張って作ろうと思った。

「分かった。じゃあ今日はビーフシチューだね」

 たゆたは恥ずかしそうにこくりと頷いた。

「そうと決まったらさっさと買い物済ませちゃおう。クレープ食べなきゃいけないからね」

「クレープ!」




「クレープ、美味しい?」

「うん! すっごく美味しい! よし、クレープ。君を心のアイドル第二号に任命しよう。ありがたく思え!」

 たゆたはチョコバナナクレープを顔の前に掲げてしっかりと見つめ合いながらそう言った。話しかけるくらい気に入ってくれたようで、雲行も何だか嬉しくなった。

 二人は今、クレープを片手にデパート内のベンチに座って休憩している。

「体調の方は大丈夫?」

「ああ、ありがとう。すっかり治ったよ」

「いつも人ごみに行くとああなるの?」

「恥ずかしながら……少しはマシになっているかと思ったんだがな」

 たゆたはそう言って肩を竦める。別に恥ずかしいことではないと雲行は思った。でも彼女が隠すほど恥ずかしく思っているのなら治せるように協力してあげたいとも思った。

「何が原因なのかな」

「……原因は分かっている」

「え、そうなの? どんなこと?」

「七年前に両親が死んだって話しただろう? 死んだ原因は車の事故だったんだが、その車に私も乗ってたんだ。でも私だけ奇跡的に傷一つなく助かった。周りに助けを求められるような人もおらず、どうしていいか分からなくてとりあえず捧のいる屋敷に帰ろうとした。でも帰り方が分からなくて道に迷ってしまったんだ。その時に今日と同じように人ごみに流された。あの日からなんだ」

 何気なく聞いてしまったことを雲行は後悔した。もう少し考えて質問すべきだった。

 せっかく元気が戻ったというのに、たゆたはまた小刻みに震えていた。顔色もあまり良くない。

「ごめん、たゆた」

「何で君が謝るんだ。私の方こそ迷惑をかけてすまないな」

「そんなことないよ! そうだ! ねえ、たゆた。約束しよう!」

「約束?」

 雲行はたゆたとゆびきりをするため小指を差し出した。たゆたも首を傾げつつ、自分の小指を雲行の小指に絡めた。繋いだ小指に熱を感じる。

「たゆたが辛い時は俺が必ず手を繋いであげる。だから黙ってないで頼ってよ」

「……君は優しいな。でも私は一人でもだいじょう――」

「ゆーびきったあああっ! はい、もう約束したから! ゆびきりは絶対だから! 破ったら字のごとく指切るから!」

「な、べ、別に良いぞ。指の一本や二本くれてやる」

「俺の指を!」

「そ、それは駄目! 分かった、約束する!」

 たゆたの性格を上手く突いた作戦だったなと雲行は我ながら感心してしまった。まあただの口約束と変わりないので本当にたゆたが自分のことを頼ってくれるかは分からない。でもそうなったら良いのになと雲行は一人微笑んだ。

 彼女のために何かしてあげたかった。彼女のためになれることが、すごく嬉しかった。




 雲行とたゆたの二人は観覧車に乗るために列に並んでいた。

 必要なものを買い終え、そろそろ帰ろうかという話になった頃にたゆたが観覧車を発見したのだ。この街が一望出来る人気の観覧車であり、カップルが乗ると別れるなどというジンクスが有名でもあった。

 十分くらいして、雲行達の順番がやってきた。傍から見たらカップルに見えるのだろうか。それとも兄妹に見えるのだろうか。それとも親子とか。そんなことを考えながら雲行はたゆたと共に観覧車に乗り込んだ。

 向かい合って椅子に座ったが、たゆたはすぐに窓の外の方へ向いてしまった。

「おお、すごい! どんどん上に上がっていく!」

「観覧車乗ったことないの?」

「ない! こんな遠くまで出掛けたのも七年ぶりくらいだ! あ、ツリーだ!」

 外の景色を見ながら、子供みたいにきゃっきゃと喜ぶたゆた。見た目も子供みたいなので、知らない人が見れば小学生の女の子と間違われ、頭をなでなでされそうだ。

 でも彼女は十五歳、それにもうすぐ十六になると言っていた。十六と言えば女性は結婚出来るようになる年齢だ。もう大人と言っても過言ではない。

「そう言えば、十二月に誕生日が来るって言ってたっけ?」

 窓に映るたゆたの顔が心なしか陰ったように見えた。

「……良く覚えてるな。そう、十二月十日が私の誕生日だ……」

 観覧車にはしゃいでいた時とは違い、どこか声に覇気がなくなってしまったような気がする。何故突然元気がなくなってしまったのだろう。分からない雲行は不思議に思いながらも普通に口を開く。

「あと二週間もないじゃん。じゃあ盛大に誕生日パーティーしないとね!」

 きっとたゆたは喜ぶだろうと思った。子供っぽく見られるのは嫌らしいが、実際たゆたは子供っぽいことが大好きなのだ。見ていれば分かる。だからきっと誕生日パーティーも喜んでくれるだろう。さっきみたいに笑ってくれるだろうと思った。

 しかし――。

「え? あ、ああ……そ、そうだな……」

 驚きの表情で雲行を一瞥してからすぐに視線を観覧車の外へと戻してしまった。窓には笑うたゆたが映っていたが、先程みたいな笑いではなく、それは何かを諦めたような微妙な微笑みだった。

 やはりたゆたの様子がどこかおかしい。普段のたゆたからして、誕生日パーティーという楽しげなことを喜ばないはずがない。

 でも今のたゆたはどう見ても嬉しそうではなかった。

「ご、ごめん。パーティー、したくなかった?」

「い、いや。したいけど……出来ないよ」

「何で? 出来るよ! 俺が全部用意するし! たゆたの好きなもの作るよ? クレープだって買ってくるし、ケーキもホールで買ってくる。行きたいとこにも連れてってあげるし! 捧さんも一緒にさ。三人でしようよ、たゆたの誕生日パーティー!」

「雲行は……やっぱり優しいな」

 沈みゆく太陽がたゆたの顔を朱色に染めた。もういつの間にか黄昏時だ。

「ありがとう。気持ちだけ受け取っておくよ」

 たゆたは外の景色を見るのをやめ、雲行に向き直ってそう言った。悲しげな微笑みを浮かべながら、泣きそうな声で。

 何故さっきみたいに心から笑ってくれないのだろう。雲行はそれが気になって仕方がなかった。心に出来たわだかまりが消えない。

 どうしてそんなに悲しそうなのかと問うたら彼女は素直に答えてくれるだろうか。

「……たゆた」

 観覧車はちょうど頂点近くまで上っていた。観覧車が下まで降りてしまう前にもっと近くに寄って話そうと雲行は立ち上がった。

 その時だった。いきなり立ち上がったことが原因か、観覧車が大きく揺れたのだ。その揺れで雲行はバランスを崩したゆたの方へとつんのめてしまった。

「うわあっ!」

「ちょ、くもゆ――」

 運が良いのか悪いのか。こけた拍子に雲行の唇がたゆたの頬、というよりも口元近くに当たってしまった。つまりキスをしてしまったのである。

 一瞬状況が理解出来ず、反応が遅れてしまった雲行。すぐさま離れて謝ろうとしたが、その前に頬に鈍い痛みが走った。

「やめろっ!」

 謝る前にたゆたの平手打ちを食らってしまったのだ。パシンという小気味良い音はこの音かと雲行は理解した。

 たゆたがものすごい形相でこちらを睨んでいる。そんなに嫌だったのだろうか、瞳に涙をいっぱい溜めていた。

「ご、ごめん……で、でも今のは事故で……」

「何をするっ! もっと気をつけろっ! 事故だったら何をしても良いのか!?」

「そ、そんなに怒ることないだろ!」

 故意ではなく事故だったのだ。それなのにここまで頭ごなしに怒られる理由が雲行には分からなかった。

 故意に人が寝ている間にキスしようとしてきたくせに、それは棚に上げて人にばかり噛み付くのはどうなのだろう。雲行はたゆたの態度に苛立ちを覚える。

「うっかりじゃ済まないんだ! 駄目なんだよ!」

「そ、そんなに俺にキスされたのが嫌なの!? そんなに俺のこと嫌っ!?」

「そ、そういう話をしてるんじゃない!」

 観覧車の中で二人の怒鳴り合いが続く。どちらも譲らない。どちらも譲れない。

「いや、そう言う話じゃん。て言うかさ、君も人のこと言えないでしょ。俺、昨日起きてたんだよね。君が部屋に来た時に」

「……え……ええっ!?」

 わたわたと目に見えて慌て出したたゆた。やはりあれは夢ではなかった。たゆたは深夜、部屋にやってきて雲行にキスしようとしたのだ。彼女の反応からして間違いない。

「キスしようとしたんだろ? 寝込み襲うとかそっちの方が最低なんじゃないの?」

「そ、それは……その……。で、でも! 結局やめたし! 未遂だし! もう絶対にしないし! それにあれはしたくてしたわけじゃないし! 仕方なかったんだ!」

「やっぱりそうだったんだ」

 あっとたゆたは声をあげた。

 まだキスしようとしていたかどうかの確証は取れていなかった。しかし今の言葉で彼女がしようとしていたことがはっきりと分かった。しかも仕方なくだと言う。

 何だか途端にあんなことで一喜一憂していた自分が馬鹿らしく思えてきた。罰ゲームか何かだろうとは思っていたものの、やはり心のどこかで期待してしまっていたのだ。 

 もしかしたらたゆたは自分のことが好きなのかもしれない、と。

 でも今はっきりとたゆたの口から「仕方なかった」という言葉が出たため、その線は完全に消え去ってしまった。

 意識して、赤くなって、ドキドキしていた自分が馬鹿らしかった。勝手に期待した自分が悪いのだが、期待させたたゆたも無罪とは言い切れない。

「す、すまん。私も言い過ぎた。許してくれ」

「……ううん。俺もごめん」

 雲行の言い方はとても淡泊だった。自分にも言い過ぎたところがあるし、悪いところもあるが、たゆたの思わせぶりな態度の方にイライラしてしまい平静を保てなかった。

 その後、大した会話もないまま観覧車は一周した。

 観覧車を降りてからも二人は一言も会話を交わさなかった。たゆたは俯きながら雲行の後ろを歩き、二度と手を握ってはこなかった。体調の方は大丈夫なのだろうかと気になりはしたが、苛立ちの方が勝って雲行は彼女のことをそのまま放っておいた。

 屋敷に帰り着くなりたゆたは自分の部屋に籠ってしまい、約束のビーフシチューはお流れとなった。捧に色々と問い詰められた気はするが、何も耳に入ってはこなかった。

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