「たゆたの血となり肉となる?」
暖かい。冷え切っていた雲行の体を気持ちの良い暖かさが包んだ。まるでさんさんと降り注ぐ太陽の下で昼寝をしているようだ。このまま何時間でも眠れそうな、そんな心地よさだった。
否、最初はそうだった。「温かい」と感じていたはずが、何故かだんだん「熱い」と感じるようになる。しかもその熱さは体の至る場所に移動していく。
腹が熱いと思えば腕、腕が熱いと思えば足、といった感じにだ。火傷をしそうなくらい熱い。何か熱いものを当てられているような、そんな気がする。
その熱さはどんどん耐えられないものになり、雲行は一気に覚醒した。
「あっちいいいっ!」
「おや、やっと目覚めましたか」
雲行が勢い良く起き上がると、不意に女性の声がした。一体誰なのだろうと視線をそちらに向けようとしたが、火の灯ったロウソクを目先に突き付けられてそれどころではなかった。恐ろしくて必死に振り払うと、そのロウソクを持っていたらしい女性も反動でゴロンと転がってしまう。
「な、何なんだ!?」
「危ないですね。ロウソクで温めて差し上げたのですよ。感謝して頂きたい」
パンパンとシックなメイド服の埃を払いながら女性は立ち上がった。そして右手でボブヘアーを整えてから、表情を一つも変えずに彼女は言った。正に無表情、無感情といった言葉がぴったりな彼女が静かにこちらを見つめている。左手には何本ものロウソクが握られていたが、雲行が振り払ったため火は消えてしまっていた。
どうやらここはどこかのお屋敷の一室らしい。えんじ色の絨毯とお城にありそうな長いダイニングテーブルがとても印象的だ。この大きな部屋を照らすのは暖かな暖炉の炎だけであり、そのためなのか、どこか優しげで落ち着きが感じられた。
メイド服を着た彼女はきっとこのお屋敷の使用人なのだろう。
「え、えっと……あ、あなたは?」
「こういう時は自分から名乗るものでしょう」
これまた表情を一つも変えずに女性はそう言った。怒っているのか呆れているのか全く分からないので反応に困りながらも、一応大人しく自己紹介をしておく。
「雨霧……雲行です」
「ぷっ。変な名前ですね。ではHSMRMと呼ばせて頂きます」
「な、何でですかっ!? 意味分かんないですよ!?」
「意味は分かります。変態SMロウソクまみれを略してHSMRMです」
「は、はあっ!?」
意味が分からなかったが、ふと自分の体を見てみると何故か点々と蝋の跡が……。いや、理由は分かっている。目の前にロウソクを所持している人がいるではないか。
どう考えでも犯人は――。
「あなたでしょ! あなたが俺を変態にしたんでしょ!」
「何ですか、そのいかがわしい表現は。まるで私があなたを一流のMに育て上げたみたいなそんな言い方……変態ですね。通報します」
「そんな良い方してないでしょう!」
こんな話の通じない人間は初めてだった。こっちは自己紹介をしたと言うのに向こうは何だかんだ言いながら名前すら教えてくれない。しかも名前を馬鹿にされ、変なあだ名を付けられ、Mの疑惑までかけられてしまった。初対面でこんなにおかしなことを言う人に、雲行は会ったことがなかった。
何故自分はこんなところにいるのか全く理解出来ない。事情を聞きたいというのに話が通じない。雲行は既に心が折れそうだった。
「捧、遭難者の体を温めてくれたか? 今夜は寒かったからな。きっと凍えて……」
そんな時、お盆を抱えた少女がそう言いながら現れた。お盆の上には湯気立つこん兵衛が三つ乗っている。
瞬間、雲行はその少女に目を奪われてしまう。姫カットと言うのだろうか、腰の少し下辺りまで伸ばされた艶やかなプラチナブロンドの髪。水滴を落としたような、澄み切った青い瞳。大きめのTシャツから伸びる手足は今にも折れてしまいそうなほど細い。紺色のハイソックスからちらりと覗く太ももは雪のように白く美しい。背は小さく子供っぽいが、右目の泣きぼくろのおかげか、どこか妖艶な印象を受ける、そんな少女。
そう。意識を失う前、最後に目にした少女が彼女だった。
「あ、あれ……君……?」
「も……」
「……も?」
「も……ももも……燃え……。……燃えてるー!」
「えっ?」
雲行は彼女が指差す先を見つめる。
――燃えていた。
えんじ色の高そうな絨毯が燃えていた。目に見えて分かるくらいに煙が立ち上っている。
先程のロウソクの火が燃え移ったのだろう。それが広がってしまったらしい。雲行とメイド姿の彼女が無駄話をしているうちに。
「うわー! 屋敷が燃えるー!」
少女はこん兵衛を床に置き、叫びながらお盆で火をバンバンと叩き始める。雲行も急いで上着を脱いでそれに参加するのだった。
「危うく家を失うところだったぞ……」
すぐに気が付いたこと+雲行と少女の頑張りのおかげで火はあれ以降ほとんど広がることなく消えてくれた。
「だから合成繊維はやめましょうと言ったのです」
「捧、君は火消しに参加せずどこへ行っていた」
「水を運ぼうと台所へ少々」
「ほほう。で、肝心の水はどこだ」
「飲み干しました」
「何故飲み干した!」
キレの良いツッコミだなーと焦げ付いた上着を羽織り直しながら雲行は思った。二人の関係は、屋敷の主人の娘と使用人といったところだろうか。
「まあいい。とりあえず遭難者に温かい物を食わしてやらなくてはな」
そう言ってプラチナブロンドの少女は一旦床に置いておいたこん兵衛を拾い上げ、割りばしと共に雲行に手渡してくれた。
受け取ったこん兵衛はまだ温かかった。昆布ダシの良い香りのせいで何だか急に腹が減ってくる。腹の虫が鳴らないように祈りながら雲行は呟く。
「あ、どうも……。頂きます……」
「捧も食え。君のために一生懸命作ってきてやった」
「作ったと言ってもお湯を注いだだけですがね」
「ああそうだよ! 悪いか!」
頬を膨らましながらプラチナブロンドの少女は絨毯の上に胡坐をかいた。メイドの女性もすとんとその場で正座をする。雲行もそれに倣って絨毯に腰掛けた。
少女の座り方は少々危うかった。ふとした瞬間パンチラしそうな、何とも目の離せない座り方だった。
しかしこんな年下の少女に自分はなんて邪な感情を! と頭を振ってその邪念を一生懸命に払うのだった。
「どこを見ているのですか、HSMRM」
「え? いや、別に! どこも見てませんけど! しいて言うなら絨毯の純毛を一本一本観察していたりしたり!」
「この絨毯は合繊繊維です。ちなみにたゆた様の今日のパンツは気温が低かったせいもありウール100%の暖かパンツなので期待しないように……」
「へっ!? いや、俺は別に!」
「捧! 何を言っている! 何を言っている!」
少女が顔を真っ赤にして必死に抗議している。それでもメイドは表情一つ変えずにこん兵衛のきつねをもしゃもしゃ食っていた。ちなみに雲行が暖かパンツに少しガッカリしてしまったのは内緒だ。
ところでこの少女の名前はどうやら「たゆた」と言うらしい。そろそろ自分がここにいる理由が知りたい雲行は、恥ずかしそうにこん兵衛を啜るたゆたにおずおずと話しかけた。
「えっと……君は……たゆたちゃん、で良いのかな」
「う、うん。そうだ。水月たゆた(みつきたゆた)だ」
「俺、雨霧雲行って言います。よろしく」
「雨霧……雲行か」
こん兵衛の蓋に箸を置いてから雲行はたゆたに手を差し出す。すると彼女は快く握手に応じてくれた。はずだったのだが、捧に間に入られ邪魔をされてしまった。
まるでマンツーマンディフェンスのようだ。雲行はたゆたのパスが受けられない状態である。
「私はメイドの心地捧です。以後お見知りおき下さらなくて結構です」
「なんだ、捧! その突然のマンツーマンディフェンスは一体なんだ!」
「バスケの練習です。一流の選手ともなると日常生活で不意にマンツーマンディフェンスが飛び出してしまうのです」
「いつバスケの一流選手になったのだ、君は!」
俊敏すぎる捧の動きに、実は本当にバスケの選手か何かなのではないかと思ってしまう雲行なのであった。今の反応の良さはどう考えても常人のそれではなかったから。
「そんなことはどうでも良い! 君、うちの庭で倒れていたが何をしていたんだ?」
「私は寒さで自分を痛めつけることに快感を覚えていた変態と踏んでいます」
雲行はここで良いことを思いつく。記憶喪失と嘘を吐けば、もしかしたらこの屋敷に置いてもらえるかもしれない。そうすればいちいち麓まで戻ったりしなくても両親の捜索が出来る。一人暮らしする家が決まるまでの宿も確保出来るではないか。
それにこの屋敷の住人から情報収集することも容易だ。七年前の話なので、この少女は生まれていない可能性が高いが、このメイドや少女の両親になら何か話が聞けるかもしれない。もしかしたら雲行の両親の情報を持っているかもしれないのだ。
「いや……あの、それが……。あ、あんまり思い出せなくて……。捧さんの言うそれは絶対にないんですけど」
「おそらく崖から転げ、うちの庭に落ちてきたのだろうな。記憶が一部抜け落ちていても無理はない。とりあえず、それを食べたらさっさと帰宅しろ。家族が心配しているだろう」
そう言って、好物なのだろうか、最後に残しておいたきつねにたゆたはパクリと齧り付いた。
「近くで転がっていた鞄もこの屋敷に運んでいますからそれを持ってとっととお帰り下さいね」
――今だ。ここで記憶喪失をアピールするのだ。演技は得意な方ではないが、恥を捨てればきっと上手くいく。
「お、思い出せない……。俺……どこから来たんだっけ?」
「君……まさかまさかの記憶喪失……か?」
「……そ、そうみたい……」
たゆたは茫然としていた。どうやら上手く信じ込ませることが出来たようだ。雲行は自分のハリウッドスターばりの演技力に恐ろしさを感じだ。
「では行きますよ」
「ま、待て待て! 捧! ちょっと待て! 火かき棒で何をする気だ!」
「衝撃を与えるのです。記憶喪失は同じ衝撃を与えれば治ります」
「彼は日本製家電ではないぞ! 君は実にバイオレンスだな!」
無表情で火かき棒を振り上げる捧をたゆたが何とか止めてくれている。
まだ会って一時間も経っていないというのに、捧という人物は二人きりになってはいけない人種だということが嫌でも理解出来てしまった。
もしたゆたがいなければ今頃雲行は捧によってボロボロにされていたかもしれない。雲行はたゆたの存在に心底感謝するのであった。
「着ているのは制服だろう? どこの制服か分からないか?」
「ブレザーならまだしも、学ランから割り出すのは難しいでしょう」
「なら鞄の中身を確認してみよう。財布か何か、自宅のヒントがあるだろう」
たゆたが目配せすると、捧は大人しく雲行のリュックサックを持ってきた。
ぶっとんだ性格をしているが、やはり彼女は腐ってもこの屋敷の主人に仕えるメイドであるようだ。
と雲行が感心したのもつかの間、捧はリュックサックの口を反対に向けて中身を全部絨毯の上にぶちまけたではないか。鞄の中から荷物が次々と飛び出してくる。麓のコンビニで買った何日か分の食糧や替えの洋服達と一緒に、一期のいかがわしいエロ本達が飛び出してきた。
これは非常に恥ずかしい。でも記憶喪失を演じているので言い訳できない。
雲行と同じようにたゆたも恥ずかしいようで顔を真っ赤にして俯いてしまった。それとは対象的に、捧は顔色一つ変えずに言う。
「HSMRMは巨乳好き……と」
「わー! やめて下さいー! 身に覚えがないですー!」
「お、おほんっ! ど、どうやらこの大荷物からして君は家出をしてきたようだな!」
こういう話題は苦手なようで、たゆたが必死に話を元に戻そうとしてくれている。雲行もそれに乗らない手はない。家出するのに持ってきた荷物がエロ本だらけなんて情けないどころの話ではない。恥ずかしいったらない。
「そ、そうみたいだね! 家族と喧嘩でもしたのかな!」
「『ロリっ娘クラブ』……」
「そうかもしれないな! け、携帯とかあれば良いんだけどな!」
「『放課後の委員長』……」
「な、ないみたいだね! 俺、携帯持ってなかったのかな! 財布も見当たらないね!」
「『愛しの団地妻』……ストライクゾーンが広いようですね。このエロ魔人」
「捧さん……もう止めて下さい……」
雲行とたゆたは必死に話を進めようとしているのだが、捧が会話の節々に本の題名を挟んでくるため全然集中が出来なかった。
雲行は半泣き状態だ。それと同時に一期に対する怒りも湧いてきた。今度一期に会ったらどうしてやろうか。ハミチキ十個ではこの怒りはおさまりそうもない。
「と、とにかく! これでは君は自宅に帰れないな。どうしたものか……」
「そうですね。まあ、私達には関係のないことです。その辺に捨て置きましょう。野生の動物の餌くらいにはなるでしょう。このエロ魔人でも」
「ひ、酷いっ!」
雲行は涙目で悲痛な声を上げる。やっと温まったと言うのにまたあの寒空の下に出ていかなくてはならないなんて。
やはりそう簡単に屋敷に置いてもらうことは出来ないのだろうか。作戦失敗か。
いや、ここで諦めてはいけない。何としても食い下がらなくては。
「お、お願いします! 記憶が戻るまでここに置いてもらえないでしょうか!」
「いやあ……それはちょっと……」
「いいですよ。置いて差し上げましょう」
「えっ!?」
たゆたは渋っているというのに、意外にも捧がすんなりとOKしてくれたではないか。しかも今まで完璧な無表情だった彼女が微笑んでいる。何だか魂胆がありそうで逆に怖い。怖すぎる。
「どういうことだ、捧! 私は反対だぞ!」
あまりに予想外の展開に、雲行だけでなくたゆたまでもが驚きの声を上げた。
「良いではないですか。ここに置かないということは、エロ魔人にとっては死を意味します。それはあまりにも可哀想でしょう?」
にっこりと上品に微笑む捧が雲行には悪魔に見えてしまった。言っていることはとても慈悲深いお言葉なのだが、何故だか素直に受け取ることが出来ない。
「で、でもな。お金もあまりないし……」
「あ! それはバイトして稼ぐよ!」
「だ、だが……私は……その……。あまり人と関わりたくないと言うか……」
少し俯き気味にたゆたはそう言った。どこか悲しげな表情を浮かべながら。
「たゆた様。彼は男ですよ、男」
「だからどうしたと言うのだ」
捧が何を言わんとしているのか、雲行には全く分からなかった。たゆたも分かりかねているようで、捧の顔を探るようにじっと見つめている。そして何かに気付いたのか、「あっ!」と小さく声をあげた。
「そうです。何故たゆた様はこんなにお可愛らしいのに生まれてこの方恋人が出来たことが無く、彼氏いない歴十五年なのか……その理由はずばり男性との関わりがないためです。この際このエロ魔人でも良いでしょう。手っ取り早く未来のダーリンになって頂きましょう」
「はあ!? 何だそれ! なんか私が男に飢えてるみたいじゃないか! 飢えてないぞ!」
「え、十五歳? 君、十五歳なの?」
頬を真っ赤に染めながら捧に反論していたたゆただったが、雲行がそう言った瞬間不機嫌に顔を歪めた。
何故か雲行はたゆたに思い切り睨まれてしまう。一体何に不満を感じたのだろう。雲行はただ思ったことを素直に言っただけである。
「私はこう見えても正真正銘の十五歳だ! それに十二月で十六になる! バーカバーカバーカ!」
「あ、そうなんだ。良かった、納得! 通りで小学生にしては色気があるなあと……」
またも雲行は思ったことをさらりと口に出してしまった。年下の少女に邪な感情を抱いたわけではなく、全うな感情だったということが分かり、安心してしまったせいだ。
だが今のは変態ぽかったかも、と言ってしまってから雲行は慌てた。たゆたの反応を見てみると、案の定顔を真っ赤にしてわなわなと震えていた。
「い、いいい色気っ!? な、なな、せ、セクハラか!? さ、捧に殴られたいか!?」
拳にはーはーと息を吹きかけている捧を見て、雲行はブンブンと首を横に振った。雲行はMではない。だから殴られるのは全く嬉しくない。
「発言には気を付けるんだな! こ、今度な変なことを言ったら捧の拳が飛んでくるということを覚えておけ!」
「は、はい……たゆた様……」
しゅんと小さく縮こまってしまった雲行を見て、たゆたはすぐに不器用な笑みを浮かべた。強く言い過ぎたと感じたのだろうか。
「べ、別にそこまで怖がらなくても良い。……そうだな。捧の言う通り記憶が戻るまではここにいると良い。何かの縁だ」
「ほ、本当にっ!? あ、ありがとうっ!」
「一度拾った捨て犬は責任を持って飼わなければなりませんからね」
「彼は人間だがな……」
たゆたは呆れた表情で捧を見つめた。
「もう二時を回ってしまったな。私はもう少し仕事の続きをしてから寝る。捧、彼を空き部屋に案内してやってくれ。じゃ、おやすみ」
そう言って口元に手を当てながら欠伸を一つすると、たゆたは部屋を出ていった。
捧とはあまり二人きりになりたくなかったが、こうなってしまっては仕方がない。たゆたの後を追うわけにもいかないので、大人しく捧によろしくおねがいしますと頭を下げておく。
「頭を下げるだけでは足りませんね。ひれ伏して下さいますか?」
「そ、そう言うのって頼むものなんですか!?」
「ひれ伏して下さいますか?」
どうやら彼女は決して頼んでいるわけではないようだ。言葉は丁寧だが、NOとは言わせない見えない圧力が彼女の言葉にはあった。
雲行は泣く泣く時代劇の一場面かのように、捧の足元にひれ伏した。靴にキスをして絶対服従を誓って頂けますか? なんて言われるのではないかとビクビクしながら。
「あなたはこれからたゆた様の血となり肉となります。覚悟はよろしいですか?」
「へ? えっと……それはどういう……?」
顔を上げて捧を見ても、先程と変わらない無表情で彼女はそこに立っている。表情から彼女の感情を読み取るのは、どうやら不可能に近いようだ。
小さな沈黙と妙な緊張感に包まれ、雲行の額に冷や汗が伝った。
「それでは張り切って犬小屋に向かいましょうか」
「俺、れっきとした人間ですっ!」