「終わりからまた始まる」
「ゆ、ゆき君!」
ずっと傍らで見守っていたうつろは急いで雲行を抱き起こす。雲行の瞳は固く閉じられていた。
これは一種の賭けだった。成功するかどうかは定かではなかった。だから死んでしまったのではないかと不安になったのだ。
うつろは鼻と口元に手を持っていき、息をしていることを確認すると、ホッと安堵のため息を吐いた。どうやら気絶しているだけのようだ。とりあえずは一安心である。
「……きれい……」
うつろの瞳に光り輝く蝶の羽を背中にまとったたゆたの姿が映る。
彼女は蛹から蝶になれたのだ。魂胡蝶が蝶になるところを見たことはなくても、きっとそうなのだろうと思えた。
「愛してくれる人を犠牲にせずに蛹から蝶になれるなんて……そんな……」
驚きと嬉しさの混ざったような表情で胡蝶は言った。たゆたが自分と同じ辛い目に合わずに済んだことは喜ばしいことだが、こんなことが起こるだなんて彼女は思いもしなかったのだろう。
「たゆた様……」
瞳に涙を溜め、捧は愛しくて堪らない人に向けるような声でたゆたの名前を呼んだ。
捧がたゆたの頬に触れると彼女を包んでいたベールは消え、背中の羽も光の粒となって空中に散らばっていった。
「ん……? さ、さげ? どうした? 何故泣いている……あれ?」
「たゆた様っ!」
ようやくたゆたの大きな瞳が開かれた。捧は感情に身を任せてたゆたを抱きしめる。いつもの無表情で無感情な捧の姿はそこにはなかった。
やはりうつろの、雲行とたゆたならお互いを救い合えるという考えは当たっていたのだ。たゆたは目を覚まし、雲行も天邪鬼に体を乗っ取られることもなく、死ぬこともなかった。
「私、蛹になったよな? なのにどうして……」
たゆたの瞳に、固く目を瞑ったままの雲行の姿が映る。一瞬にしてたゆたの顔から血の気が引いた。
「ま、まさか雲行が私のために!?」
すぐさまベンチから下りると、たゆたはうつろとうつろに支えられたまま目を覚まさない雲行の傍に膝をついた。
「そうだけど違う。ゆき君はずっと天邪鬼の魂に憑かれてた。つまりゆき君は一つの体に二つの魂を持ってたことになる。キスしたのはゆき君だけどあ――」
「く、くくく雲行がわたわたわたしにききききキスっ!?」
「はい、そこ食いつかない。キスしたのはゆき君だけどあなたに奪われた魂は天邪鬼の。だからゆき君は死んでない」
「で、でも起きないぞ……」
優しく包むようにたゆたは雲行の頬に触れる。
「生きてるって。ほら。起きろ、ゆき君。愛しの彼女が起きたぞー」
うつろはパンパンと容赦なく雲行の頬に平手打ちをお見舞いした。何だか起こそうとしているというよりも、嫉妬とか悔しさとか色々な負の感情が混じっているような気がするが気にしたら負けなのだろう。
「い、痛い! 痛い痛いっ! 何!? 何なのっ!? 」
気絶していたにも関わらず、あまりの痛さに雲行は覚醒する。
「く、雲行……」
やはり雲行は生きていた。
これで二人はこれからも一緒にいることが出来るのだ。どんなことでも出来る。時間はたっぷりあるのだから。
たゆたは嬉しげに顔を綻ばせ、雲行に思い切り抱きついた。
頬を叩かれた痛みで目を覚ますと、いきなり良く分からない少女に抱きつかれ、雲行は心底驚いた。
「へっ!? な、何っ!? いきなり何ですか!?」
「生きていて良かった! ありがとう、本当にありがとう!」
「は? 何が? ちょっと話が見えないんですが? て、ていうか離れて下さい……」
「もう雨霧君、恥ずかしがらなくたって良いのよ」
「そうですよ、雲行。私が抱きしめていたたゆた様を奪いやがってとか思ってませんよ」
「く、雲行は嬉しくないのか?」
「いや、嬉しいも何も意味が分からなくて……あなた、誰ですか?」
すごく馴れ馴れしく抱きついてくるこの子は一体誰なのだろう。全然見たこともないし、喋ったこともないのに向こうは何故かこちらのことを知っているようだ。
「え? あの……水月たゆただよ?」
「は、はあ。そうですか。えっと……初めまして。俺、雨霧雲行って言います」
「そ、それは知ってるけど……」
「み、みたいですね……」
水月たゆた。どこかで聞いたことがあるようなないような、そんなあやふやな印象を持つ名前だ。
頭の中がごちゃごちゃしていて、雲行は正直混乱していた。このたゆたという少女のことだけでなく、この数日間の記憶がすごく曖昧だったのだ。
「あの、からかってるのか?」
「そ、そっちこそ。ねえ、うつろ。何なのこれ?」
「ゆき君こそ何なの。そんな冗談全く面白くないよ」
「じょ、冗談じゃないよ。意味が分からないんだけど」
雲行に冗談を言っているつもりは一つもなかった。でもうつろは雲行が冗談を言っていると勘違いし、真剣に怒っているようだ。でもそんなことを言われたって分からないのだから仕方ない。
するとシックなメイド服の女性が何かを思いついたようにパンと両手のひらを合わせた。
「私は誰でしょう」
「捧さんですよね」
彼女のことは良く知っている。山の大きな屋敷でメイドをしている心地捧だ。いつも無表情で無感情、人をいじめるのが大好きな変わった女性である。雲行もことあるごとにいじめられているのだ。
「では私は誰のメイドでしょう」
「……あれ、誰かのメイドでしたっけ?」
おかしな話だが、メイドの捧が誰かに仕えていた記憶は全くといって良いほどなかった。
二週間ほど前に家出して、山で遭難しているところをメイドの捧に助けられ、両親のことを何か知っているのではないかと思い、話を聞き出すために屋敷に居候させてもらった。
それからうつろが心配して迎えに来てくれた。次の日にはみんなで遊園地に行った。
そして今日はみんなで夜の学校でクリスマスパーティをしようと集まったのだ。クリスマスツリーのキャンドルをすすきが用意していたから多分そうだ。
そこでうつろが天邪鬼の話をし出して、学校からこの公園に場所を移して、それでどうにか無事に天邪鬼を追い出すことが出来て――記憶はところどころ抜けていたし、やはりものすごく曖昧だったがこんな感じだったはずだ。
「たゆた様のです。あなたはバカですかアホですかドジですかマヌケですか」
バシバシと力任せに雲行の背中を捧は叩く。暴力を振るわれる意味が全く分からない雲行は理不尽だと両手で背中を押さえながら叫ぶ。
捧がこのたゆたという少女に仕えるメイドだなんて記憶はない。もし本当にそうだったとしても雲行は知らなかった。だってあの屋敷には捧しかいなかったのだから。
この数日間を屋敷で共に過ごしたのは捧だけだ。
「こ、こらこら。捧! 止めてやれ!」
「あれですよ。記憶喪失は衝撃を与えるのが一番ですから」
「じゃあ私も手伝う」
「私も出来る限り手伝うわ! 信じられない!」
「こら、うつろん! 加勢するんじゃない! それに胡蝶! 触れないからってその辺に置いてあったバットで殴るな! 死ぬぞ!」
夜の公園で三人の女性から叩かれる高校生男子なんてそうそういないはずだ。しかも女性の中の一人はバットという武器を装備している。傍から見たらどんな風に映るのだろう。 その筋の人にとってはご褒美なのだろうか。
「もう止めて下さいよ! 意味が分かりません! 俺、何かしましたか!」
「現在進行形でしています。たゆた様の心を傷付けています」
「やめてやってくれ、みんな! 私は別に良いから!」
「ほら! 彼女もそう言ってますよ!」
「あなたは黙りなさい」
雲行が何か言う度に怒りの黒髪女子三人衆の攻撃は激しさを増す。
「ゆき君、本当にたゆたんのこと忘れちゃった?」
「忘れたも何も、俺、こんな子知らないよ!」
「何でたゆた様にだけそんな態度を取るんですか? 男のツンデレとかいりません」
「そうよそうよ! 誰得よ!」
「え!? 別に普通でしょ!? だって俺達、初対面で! しょ、初対面で……?」
何故か初対面という単語に違和感を覚えた。この少女のことは知らないはずなのに、どこかで会ったことがあるような、そんなおかしな感覚がした。
折れそうなほど細くしなやかなで、人形のように小さな肢体、絹糸のように艶やかなプラチナブロンドの長い髪、吸い込まれそうなほど深い海の色をした瞳、大人っぽさを感じさせる右目の下のホクロ、陶器のように白く、もちのように柔らかい肌、愛らしい桜色の頬、甘い甘い恋の味がする唇。
「あ、あれ?」
甘い甘い恋の味。何故自分はそれを知っているのだろう。この子とはたった今会ったばかりのはずだ。それなのにまるでこの子とキスをしたことがあるようではないか。
いや、そんなはずはない。自分はうつろとしかキスをしたことがない。しかもそのキスは目的のために仕方なくしたものであった。
あれ? そういえば、自分は一体何のためにうつろとキスをしたのだろう。
「うっ!? いたっ……」
何故かそれ以上を思い出そうとすると、頭が割れそうなほど強く痛んだ。そしてその後もズキン、ズキンと脈を打つように重い痛みが続くのだ。それは気を失ってしまいそうなくらいに激しい痛みだった。
しなければならない理由があったことは確かなのに、それがなんだったのか全く分からない。何か大切なことを忘れているような気はするけれど、頭痛が酷くて考えることが出来なかった。
「頭、痛い?」
「う、うん。思い出そうとすると酷い頭痛が……」
「そっか……」
うつろはたゆたの方を向き、ぺこりと申し訳なさそうに頭を下げた。
「私の作戦ではあなたも救えてゆき君も助かるはずだった。でもやっぱり副作用があった。多分天邪鬼の魂と一緒にゆき君のあなたに関する記憶も一緒に吸い取られてしまったんだと思う。ごめん、私の力不足」
「な、何を言っているんだ! うつろんがいなければこうしてまたみんなと喋ることも出来なかった。だからたとえ雲行が私のことを覚えていなくても私は幸せだよ。ありがとう、うつろん!」
「本当にごめん……」
雲行は二人の真剣な会話から、冗談などではなく本当にこのたゆたという少女に関する記憶をなくしてしまったらしいということを理解した。
雲行は途端に気になり始め、ちらりと彼女の顔を一瞥する。
雲行の視線に気付いたたゆたはにこやかに微笑みながらこう言った。それはとても痛々しげな微笑みだった。
「初めまして、ではないのだが一応自己紹介をしておく。私は水月たゆたと言う。こう見えても今日で十六歳だ。よろしくな?」
最後に握手を求めるように、たゆたは右手を差し出した。
戸惑いつつも、雲行は手を握る。その柔らかく冷たい手を握ったのは初めてではないような気がした。
「やっぱり俺、君のこと忘れちゃってるのかな。俺達ってどんな関係だった?」
「それはもうお二人は心からあいし――」
「やめろ、捧。思い出そうとすると頭痛がするんだろ? なら無理に思い出す必要はない」
このたゆたという少女は強がっている。雲行は何故かそう感じた。
彼女と過ごした日々の記憶は全くない。忘れてしまうようなことなんて、彼女の言う通り別に思い出さなくても良いのかもしれない。特に大切ではない思い出なのかも。
でもそれでは駄目だと心の奥底のもう一人の自分が言っている。思い出せ、思い出せと何度も心の声が言っている。とても悲痛な声で叫び続けている。
雲行ははっきりと自覚した。今はまだ思い出せないけれど、自分のためにもこの子のためにも思い出さなくてはいけないのだということを。
「思い出す。俺、絶対君のことを思い出すよ。もしかしたら何気ない言葉から断片的にでも思い出すことが出来るかもしれない。だからお話しようか、たゆた」
呼び捨てするつもりはなかった。それなのに何故かこの方がしっくりきてしまって『たゆた』と呼んでしまった。
でも何だかすごく懐かしさの感じる名前だった。それに愛おしさも感じた。
「く、雲行……。うん。うん。いっぱいいっぱいお話しよう。雲行のこともっと知りたい。私のことももっと知ってほしい」
静かに涙を流すたゆたの姿はとてもとても美しくて雲行は不覚にも見惚れてしまった。前にもこんな風に誰かの美しさに目を奪われ、見惚れてしまったことがある。それがいつだったかは分からないが、確かにそんなことがあった。
一目見たあの日から、雲行は彼女のことが好きだった。
「うん、帰ろう。一緒に帰ろう」
自分の体ではないかのように口からするりと言葉が出てきた。でも決して自分の言いたくないことを言ってしまったという感じではなかった。
「え、い、一緒に帰るのか? まずはうつろんのところに帰った方が……」
「あ! そ、そうだよね。お、俺、なに言ってるんだろう……」
うつろは確か雲行が傍にいると霊力が弱まって妖怪に狙われにくくなると言っていた。だからおばさんには悪いが、これからもうつろのために傍にいてあげるべきなのだろう。だから雲行は鏡花家に帰る必要がある。
しかし――。
「帰って来なくて良いよ。ゆき君がいなくても私は大丈夫。怖がってないで、自分の力を生かして頑張る。でも学校はちゃんと来てね? 全然会えなくなるのはや」
「え、で、でもうつろ……」
「明日日曜だし、改めてたゆたんの誕生日パーティやろう」
そうたゆたに向かって微笑んでから、うつろは煮え切らない雲行を残し一人で立ち上がった。そして胡蝶を見据えてこう言った。
「迷ってた妖怪退治、やっぱ協力する。私を強い巫女にして、私に殺してほしいんでしょ? 大丈夫、絶対強くなって殺してあげる」
「あらあら、心強いわね。アタックし続けた甲斐があったわ。じゃあ早速行きましょうか?」
「うん。泥船に乗ったつもりでいてくれていい」
泥船だったら沈んじゃうじゃないと胡蝶はクスクス笑った。
そして二人は雲行とたゆたと捧の三人を残し、夜の闇へと消えてしまったのだった。
「巫女さんうつろんが妖怪退治……」
「そんな誘い、受けてたんだ。全然知らなかった……」
うつろは妖怪が怖いと言っていた。だから妖怪退治なんて本当はしたくもないだろう。それに雲行が近くにいなければもっともっと妖怪はうつろを狙う。彼女は怖くて堪らないはずだ。
それでもうつろは胡蝶の妖怪退治に協力すると決意した。雲行に頼らず自分の力で強くなると決意したのだ。恐れていたって強くはなれない。
うつろのピンと伸びた背中を見ていると、何だか自分にも勇気が湧いてくる気がした。
「俺達も帰ろうか、たゆた! あ、えっと……迷惑じゃなければ……」
「め、迷惑なわけがないだろう! 一緒に帰ろう!」
「う、うん。あの……あ、ありがとう」
このドキドキは一体何なのだろう。この嫌な感じが全くしない胸の高鳴りの正体は。
雲行は頬を赤く染めながら立ち上がり、たゆたにスッと手を差し伸べる。たゆたは嬉しそうに頬を緩ませ、その手を取った。
柔らかい彼女の手はやはりどこか懐かしく、一生離したくない気持ちに駆られた。
たゆたはすぐに手を離そうとした。しかしどうしても離したくなかった雲行はギュッと強く握りしめてしまう。そんな雲行を、たゆたは驚いた様子で見上げた。
「あ、ご、ごめん……。あ、あの……」
「い、いや……えと……手、繋いで帰ろうか?」
「う、うん。約束、したし。……ん?」
「そう、だな」
また言うつもりのなかった言葉がするりと出てきた。でもやはり嫌な感じはしないのだ。これが本当の自分が言いたいことなのだろうと何となく雲行は気付いていた。
「私を放っておいてお二人でいちゃいちゃなさるのですね。それもまた一興でしょう」
顔は無表情なのだが捧はどう考えて拗ねていた。しゃがみこんで人差し指で地面にぐるぐると何やら大量に渦巻きを書き込んでいる。
「い、いちゃいちゃなんてしてませんよ!」
「ほう、それでしていないと。じゃあいちゃいちゃとは一体なんじゃろな」
「ほ、ほら。拗ねるな、捧。三人で手を繋いで帰ろう」
小さい子供をあやすような口調でたゆたは捧に手を差しのべる。見た目はたゆたの方が小さい子供だが、その彼女の態度はすごく大人っぽく見えて、またドキリとした。
「さて、またこん兵衛三昧の日々が始まりますよ」
「良いだろ、こん兵衛! 美味しいもん!」
「こん兵衛……な、何故か名前を聞くだけで吐きそう……」
「そんなに嫌だったのか、雲行……」
巫女と妖怪が二人きりで夜道を歩く。普通の人が見れば巫女装束の女性と和服の女性が二人で歩いているという光景にしか見えないが、分かる人が見ればおかしな光景に見えるだろう。これから二人は妖怪退治のコンビを組むらしいから、もっと滑稽な関係になる。
「雨霧君のこと連れ帰っちゃえば良かったのに。たゆたのこと忘れてるんだからあなたにも勝ち目あったんじゃない? 出会いから始めるようなもんだし」
「忘れてても、二度と思い出せなくても、もう一度ゆき君はあの子のこと好きになる。ゆき君の反応見たでしょ?」
「みんなに合わせてるだけで彼自身はすっかり忘れてるみたいだったけど…?」
「だからあなたは妖怪なの。いや、恋愛のれの字も分からないただの餓鬼か。精神年齢小学生ー」
「た、たゆたより酷いっ! 目上の人に失礼じゃないっ! わ、私だって恋愛のれの字ぐらい分かるわよっ! あの字ぐらいまで分かっちゃうわよ!」
頬を膨らませ、ぶんぶんと子供みたいに手をばたつかせる胡蝶。言っていることと裏腹に、これでは本当に子供のように見えるのでやめた方がいい気がする。
「マジですか」
「むー、信じてないわねー!」
そんな風にうつろが胡蝶をからかっていると、道の向こうから制服姿の小柄な少女と大柄な少年が歩いてきた。ケーキやキャンドルの片付けを頼んで置いてきたすすきと一期だ。
「うわ、一期いるし……」
「あれ? うつろんと……胡蝶ちゃん? あまぎりんとたゆたんはどうなったの!?」
うつろは自信満々の表情でグッと親指を立てる。それを見た二人は嬉しそうに笑った。
「助かったんだな!」
「うー本当良かったよー。じゃあ誕生日パーティー仕切り直さなきゃね!」
「うん。明日やろうって言っといた」
「ふっふっふ、あまぎりんはたゆたんと一緒に帰ったわけですなー」
すすきは酔っぱらいのおっさんみたいにニヤついてみせる。
「帰ったけど……ゆき君、たゆたんのこと忘れちゃった」
「え……」
「全部、忘れちゃったのか?」
「うん、たゆたんの記憶だけ全部」
すすきと一期は顔を曇らせ、頭を垂れる。
「でもでも……一緒に帰ったってことは、希望はあるんだよね」
恐る恐る顔を上げ、すすきはうつろと胡蝶の顔を交互に見やる。
すると胡蝶は自信たっぷりに胸を張ってこう答えた。
「あるわよ。もし思い出せなかったとしても雨霧君はまたたゆたを好きになる。雨霧君を見てれば分かるわ」
「そう、だよね。そうだよね、胡蝶ちゃん!」
「おい。私の言ったことを自分の意見みたいに言うな」
「あら? そうだったかしら?」
そんなこと言ってたかしらと涼しい顔で胡蝶ははぐらかす。自分の意見を取られたうつろは怒り心頭といった表情で胡蝶を睨みつけた。
「今すぐ殺してあげようか」
「無理よ、無理。あなたみたいなよわっちい偽巫女じゃ私は殺せないわよー」
「試してみなきゃ分かんない」
ふふふと怪しい微笑みを浮かべてうつろは一期の後ろに回り込む。そして一期の背中に手をやると、もう一度嫌らしい笑みを胡蝶に向けた。
胡蝶はうつろが何をしようとしているのか大体理解出来てしまったようで、ぎくりと表情を歪めた。
「そ、それはちょっと……」
「問答無用。いけ、いちごん爆弾ー」
「え? ちょ、うつろん!? 何っ!? 」
うつろは全身の力を込めて一期の背中を押した。バランスを崩した一期は胡蝶の方に思い切り倒れ込んでしまう。
「ご、ごめっ」
男の一期に抱き締められる可哀想な胡蝶の図の出来上がりある。いや、ある意味一期も被害者かもしれない。
「ぎゃ、ぎゃあああああっ! 男おおおおおっ!? 助けてええええええ!」
静かな静かな夜の街に、助けを求めて泣き叫ぶ女性の声が響いたのだった。
「何か今、誰かの悲鳴が聞こえなかったか?」
「動物の鳴き声でしょう。ここはアマゾンの奥地ですから」
「いつからこの住宅街はアマゾンの奥地になったんだ」
「あれ、知らないの? ここ、一年前からアマゾンの奥地だよ?」
「え? そ、そうだったのか? 雲行が言うならそうなのかもしれないな。雲行は地元民だし」
「雲行、勝手に私の嘘に乗っからないで下さい。嘘乗っかり料をいただきますよ?」
「ご、ごめんなさい」
「嘘かよ! 信じた私が馬鹿だったよ!」
全ての記憶を失くしたように見えても、心の奥底にはきっと小さな記憶の欠片が残っているのだ。
それをまた集めればいい。一つの大きな結晶にすればいい。いっぱい遊んでいっぱい話して、ささいな言葉の断片から探し当てればいい。
決して一から始めるわけではない。
百あるうちの一を埋めれば、二人はきっとまたあの時の二人に戻れるだろう。




