「好きのキス」
「うつろ、今までごめんな」
街灯の淡い光が照らす道をうつろに引っ張られて歩きながら雲行はそう言った。
するとうつろは振り返り、不思議そうに首を傾げる。
「何が?」
うつろはそう言って、すぐに前方へと視線を戻した。たゆたがどこにいるか分からないので、見落とさないよう辺りをゆっくりと見渡している。
「何がって、おじさんもうつろもずっと俺のこと助けようとしてくれてたんだろ? だから俺が一人暮らししたいって言うのも反対してた。なのに俺、家出とかして……」
「ゆき君が私のためにあの家を出たがってたのは分かってるから。それに私、ゆき君のこと利用もしてた。私みたいな霊力の強い人間は妖怪に狙われやすい。でもゆき君といれば私の霊力も少しだけ弱くなって狙われにくくなる。これもゆき君に出て行ってほしくなかった理由。だから謝らないで」
「俺ってそんなに霊力ないんだ……」
利用されていた云々よりも自分に霊力がないことの方に心底がっかりしてしまう雲行。
「でも私は妖怪にとって餌でしかない。でもゆき君は毒。餌にはならない。ゆき君のことを不愉快に思う妖怪が大半なのは確かだけど、私なんかよりは仲良く出来る可能性がある」
「そっか……そういう考え方も出来るのか……」
それなら妖怪であるたゆたと両想いになれたのは、雲行だったからこそなのだろうか。もしかしたら元々彼女が人間だったということも関係しているのかもしれない。
つまり雲行でなければ、たゆたでなければいけなかった。
二人の出会いは正に奇跡と呼ぶに相応しい出来事なのかもしれない。
「そこの公園、感じる。あの子の気配」
ふいにうつろは立ち止まり、小さな公園を指差してそう言った。
雲行は当然何も感じないが、うつろが言うのだから彼女はきっとそこにいるのだろう。
雲行は大きく一つ深呼吸をする。絶対にたゆたを救ってまた色んなことを話したり、色んなところに出かけたりする。
そう、もう一度決意し直した。
「行こう、うつろ」
「うん」
素直にこくりと頷くうつろと共に、ゆっくりと公園の中に足を踏み入れた。
公園の中も街灯の淡い光で照らされていた。
こんな時間なのでいちゃいちゃしているカップルとか変なおじさんとか塾帰りの学生などがいるかもしれないと思ったが、意外にもそんな人達は全く見当たらなかった。
でも一人だけ、一人だけベンチの前に寂しく佇む女性を見つけた。その女性は静かにベンチの上の何かを穴が開くほど見つめている。
シックなメイド服に身を包んだ黒いショートヘアーの女性。そう、それはたゆたのメイドで唯一の家族である心地捧その人だった。
そして彼女が見つめているのは――。
「さ、捧さん? それ……たゆた、ですか?」
雲行は捧を驚かさないようにゆっくりと近付きながらそう問いかけた。捧は二人が近づいてきていることに気付いていなかったようで、ピクリと一瞬体を揺らす。
「そうです」
ベンチには薄いベールのようなものに包まれたたゆたが横たわっていた。これが蛹の姿なのだろうか。それは少しだけ蚕の繭に似ているような気がした。
「もう、間に合わないんですか?」
「十日になってしまったようですからね」
捧の見上げる先には時計台があった。短い針と長い針は重なり合い、きっちり十二という数字を指している。
あと一歩、間に合わなかった。
「たゆた……」
雲行はおぼつか無い足取りでベンチの傍に向かい、たゆたの隣にしゃがみ込む。
彼女は顔も腕も足も髪も全てベールで覆われていた。近くで見てみると、結婚式で花嫁が付けるウエディングベールのようにも思えた。
ベールは薄く、彼女の表情を読み取るのには苦労しない。彼女は幸せそうな笑顔を浮かべ、安らかに眠っていた。
「たゆた様から伝言です。気に病むなと。たとえ短い時間でも、自分は最後にみんなと過ごせて幸せだったからと」
たゆたの伝言が悲しくて切なくて、雲行は瞳からポツリポツリと零れ落ちる涙を止めることが出来なかった。
本当にたゆたは幸せだったのだろうか。もっともっと色んなことをしたかったのではないだろうか。こん兵衛も、クレープも、ビーフシチューも、もっともっと食べたかったのではないだろうか。やったことのないこともいっぱいあったはずだ。食べたことのないものもいっぱいあったはずだ。
やりたかったに決まっている、食べたかったに決まっている。
たゆたは本当に強がりだ。人に弱みを見せようとしない。人に甘えようとしない。
でも本当は小さくて弱い普通の女の子だ。守ってやらなければ壊れてしまうような、そんなちっぽけな存在なのだ。
「ごめんな……たゆた……ごめん……」
先程たゆたやすすき達が泣いていた時に泣かなかった反動なのか、とめどなく涙が零れてくる。本当に自分は情けないと思う。
「何で泣くの? ゆき君、諦めるの?」
そんな雲行の肩に、そっと温かな手が触れた。ぐしゃぐしゃな顔で振り返ると、うつろが苛立ちを含んだ表情でこちらを見つめていた。
「え……」
「やってみなきゃ分からない。まだ間に合うかも。だからやろう、ね?」
うつろは胸元からさっきの聖水を取り出してにこりと微笑む。
「……そ、そうだよな」
うつろの言う通りだった。何故こうも簡単に自分は諦めようとしているのだろう。まだ間に合う可能性はあるじゃないか。やってみる価値はあるはずだ。
「うん、そうだよ……。俺、やる。ありがとう、うつろ」
雲行はうつろに向かってこくりと頷く。うつろがいてくれて本当に良かったと心から思った。うつろには本当に助けられてばかりである。
うつろは雲行の意思を確認すると、固く締められた聖水のビンの蓋を回し始めた。
「無理よ。今からじゃ間に合わない。経験者が言ってるんだから信じなさい」
不意に後方から胡蝶の声がした。振り向くといつも通りの黒紋付きに、防寒用コートを羽織った胡蝶が立っていた。
「こ、胡蝶先生……」
「私も一度蛹になった口なの。それである人のキ、く、口づけで目覚めた。その人の魂と引き換えに」
「だ、だったら間に合うんじゃないですかっ!」
雲行は叫ぶ。しかし胡蝶はふるふると首を横に振った。
「あなたじゃ駄目なのよ。あなたじゃね。蛹になる前なら誰の口づけでも良かったの。所謂イージーモードね。でも蛹になってしまったら難易度が上がる。限られた人の口づけじゃなきゃ駄目なの。たゆたは蛹になる前にそんな人間と出会えなかった。だからゲームオーバーよ」
「限られた、人?」
今からその条件に合う人間を連れてきても遅いのだろうか。本当に蛹になる前に出会っていなければならないのだろうか。
と言うよりも、その限られた人とは一体どんな人物のことなのだろう。
「ゆき君じゃ駄目なの?」
「ええ、駄目。だって彼はこの間ハッキリ私に言っていたし」
「俺が、胡蝶先生にハッキリ言った?」
自分は胡蝶に何をハッキリ言ったのだろう。胡蝶と話した内容を順番に思い返してみる。
この間というのだからごく最近のことだろう。まず胡蝶と朝ご飯を共にしたあの日話したことを振り返ってみよう。
学校に行かなくて良いのかという話。胡蝶が十六歳だと言う話。たゆたが妖怪になった理由。たゆたのことが女性として好きかどうかの話。学校体験をさせてやりたいと言う話。
胡蝶にハッキリ言ったこと。雲行には一つしか思い辺りがなかった。
『雨霧君は、たゆたのことが好きなのかしらと思って。……お友達じゃなく女性としてよ』
『いいえ。そう言う感情は全くないです』
――あれだ。自分が胡蝶にハッキリ言ったことと言えばそれしかない。つまり雲行はたゆたのことを女性として好きではないからたゆたを救えないということだ。
けれどあれは天邪鬼のせいで逆のことを言ってしまっただけ。
ということはつまり。
「先生、大丈夫。俺ならいけます。たゆたを救えます」
「何を言ってるの? だってあなた言ったじゃない。たゆたに恋愛感情は抱いていないって。今だから教えるけど、蛹になる前のたゆたを心から愛していた異性の口づけしか効果ないのよ。だから無理。無駄よ、無駄。あなたにたゆたは救えない」
「胡蝶、あなたはやっぱり腐っても妖怪ね。言葉じゃなくても態度で分かるでしょ。ゆき君があの子のことを好きだってことくらい」
「――え?」
胡蝶は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。本当に彼女は全くといって良いほど雲行の気持ちに気が付いていなかったようだ。雲行が言った『そう言う感情は全くない』という言葉を素直に信じていたらしい。
先程までの余裕な態度はどこへやら。途端に焦りの表情を浮かべ、胡蝶は叫んだ。
「ええっ!? じゃあ駄目よっ! 雨霧君は死んでしまう! たゆたに私と同じ思いをしてほしくないっ!」
そう言って胡蝶は雲行の服を引っ張った。雲行のことをたゆたから引き離そうとしているらしい。
だが胡蝶は男性が苦手だった。だからあまり強く触れることが出来ないようだ。親指と人差し指で服をつまむのが精一杯らしく、引っ張る力もものすごく弱弱しかった。振り払うのが可哀想になってしまうくらいに。
「ゆき君なら大丈夫。だから邪魔しないで」
「そうですよ! 俺なら大丈夫ですから!」
「強がらないで! 今すぐ離れなさい! 先生の言うことが聞けないの!」
「あなたが離れて下さい、胡蝶さん」
ずっと黙っていた捧が突然胡蝶の首根っこを掴む。そしてそのまま雲行から遠ざけてくれたのだった。捧の方が胡蝶より小柄なはずなのだが、彼女はそれを軽々とやってのけた。その光景はまるで親猫に連れていかれる小猫のそれと良く似ていた。
胡蝶ではなく、捧の方が実は妖怪なのではないだろうか。そんな気しかしない。
「たゆた様を助けてあげて下さい、雲行。お願いします」
「誰が助けてやるかよ。俺はもう帰るぞ」
「は?」
それは、天邪鬼の最後の足掻きだった。
「もう無駄。さっさと成仏してしまいなさい。そうすれば輪廻転生して人間になれるかも」
「はっ、成仏に輪廻転生ねえ。神道の巫女がそんなこと言うとはな」
「へえ違うの? まだ勉強中だから知らなかった。もう無宗教で良いかな。巫女だけど」
そう言って不敵に笑いながらうつろはビンに唇を付け、聖水を口に含んだ。
え? それって俺が使うんじゃないの? と雲行は驚き、目を見開く。
「あの、うつろ?」
その時だった。うつろの柔らかい唇が雲行の唇と重なったのだ。それと同時にうつろが口に含んだ聖水が雲行の口の中に流れ込んでくる。
巫女から口移しで聖水をもらわなければならないという決まりがあったのかもしれないが、そういうことなら先に言って欲しかった。ちゃんと心の準備をしておきたかったのだ。
雲行の顔が一瞬にして真っ赤に染まる。火が吹き出してもおかしくないくらいだった。
「これで私、諦めるよ」
名残惜しげに唇を離すと、うつろは聞こえるか聞こえないかの声でそう言った。
だが恥ずかしくて死んでしまいそうな雲行に、うつろの言葉の意味を考えている暇はなかった。
「うっ、何か……」
しかしいつまでも恥ずかしがってはいられなかった。喉の辺りにものすごい熱さを感じた雲行は両手でグッと首元を押さえる。
「そこに天邪鬼がいる。もうすぐだよ。早く」
うつろにそう言われ、雲行はすぐさまたゆたに向き直った。たゆたは先程と変わらず安らかな微笑みを浮かべている。
でも雲行が見たいのはこんな微笑みではない。彼女の色んな表情を見ていたい。笑っていなくても良い。怒ったり、拗ねたり、泣いたり、驚いたり、怖がったり、痛がったり、照れたりする。そんなたゆたのことを傍で見ていたい。
だから――絶対に救ってみせる。
「もう起きなよ、たゆた」
雲行は壊れ物でも扱うかのように、たゆたの頬に優しくに触れた。
まだたゆたは温かかった。というよりも眠っているだけなのだから当たり前か、そんなことを雲行は思う。
そしてゆっくりと顔を近付け、ベールに包まれた彼女の唇に自分の唇を重ねた。
次の瞬間、何かが喉の奥から吸い出てくるように感じた。天邪鬼の魂がたゆたに吸い取られようとしているのだろう。
でもなかなか出ていってはくれない。天邪鬼も抵抗しているのだろう。
直に火を当てられているのではと感じるほどに喉が熱くなってくる。このままでは天邪鬼の魂が吸い取られる前に喉が焼き爛れてしまうのではないか、そんな不安が雲行の脳裏を過ぎった。
このままでは駄目なのではないだろうか。こんな触れるだけのキスじゃ、天邪鬼を倒すには至らないのではないだろうか。
体は熱があるのかと思うくらい火照っているし、顔は今までの人生一の赤さを記録している。それに手足だって尋常じゃなく震えている。
それでも一生懸命恥ずかしさを捨て去り、たゆたにもっと力強くて想いのいっぱい詰まったキスをした。
もう一度一緒に、もう一度二人で、あの観覧車に乗ろう。今度は途中で喧嘩なんてしないで、微笑み合ったまま一周を終えよう。
そんなことを考えながら、精一杯のキスを眠り姫に贈る。
「――む?」
耳にではなく、直接脳に響いてくるような、そんな悲鳴がした。
そしてあんなに酷かった喉の熱さも急に消え去った。更にふわりと浮かべそうなくらい体も軽くなってくる。
どうやら先程の悲鳴は天邪鬼の断末魔だったらしい。最後まで抵抗していた天邪鬼も遂に力尽きてしまったようだ。
雲行はゆっくりとたゆたの唇から自らの唇を離した。
これで天邪鬼の魂はたゆたのものになったはず。きっとたゆたは救われる。それに自分も天邪鬼の呪縛から逃れられるのだ。
その時、ぴくりとたゆたの瞼が動いた。良かった。きっともうすぐたゆたは目を覚ますだろう。
安心したせいか、急に全身の力が抜けてしまい、雲行はそのまま地面に倒れ込んだ。
最後に雲行の瞳に映ったのは、光り輝く蝶の羽を背中にまとった美しいたゆたの姿だった。




