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「最後の日まで」

 うつろ、すすき、一期の三人は学校に行くために次の日の朝早く屋敷を後にした。

 一期は何度も何度もたゆたに謝っていた。たゆたが気にするなと言っても家を出るギリギリの時間までひたすら謝り続けていた。

 すすきは、私百年生きれるかなーとか脳を冷凍保存してテクノロジーが進歩したら蘇生してもらおうかなーなどと言ったりして、相変わらずいつも通りだった。

 そして意外にうつろもすんなりと帰ってくれた。名残惜しそうに何度も雲行の方に目をやったり、たゆたを神妙な面持ちで見つめたりしていたが、帰る時はあっさりしていた。

 ちなみに胡蝶はというと――。

「まだ毎日こん兵衛食べてるの? ちゃんと栄養のあるもの食べなきゃ駄目よ。だからそんなに小さいのよ。そんなんじゃ……た、たゆんたゆんたゆたんに……な、なれないぞ!」

「余計なお世話だし、恥ずかしいなら無理しておかしなこと言うなよ」

 屋敷で雲行達と共に朝ご飯のこん兵衛を食べていた。

「先生、学校行かなくて良いんですか?」

「風邪ひいて動けないって連絡したから大丈夫よ。雨霧君こそ良いのかな? インフルエンザのくせにこんな山奥で可愛い女の子を二人もはべらせてるって学校に知れたらどうなっちゃうのかしら?」

「べ、別にはべらせてませんよ!」

 胡蝶は雲行のことを学校に連絡する気なのだろうか。それは非常に困る。

「せ、先生……俺のこと学校に言ったりとか……」

「あら、告げ口したりしないわよ。先生だって今日はおサボりだし。学校には適当に言っといてあげるわ」

「あ、ありがとうございますっ!」

 うふふと優しげに微笑む胡蝶はやはりいつもと変わらない顧問の白黒胡蝶先生だった。

 昨日胡蝶が一期に見せた態度は全てマヤカシだったのではと疑ってしまうほど、あの時の彼女は彼女らしくなかった。

 でもいつもの胡蝶がただの演技であって、昨日の胡蝶が本当の彼女なのかもしれない。

「ふーん。精神年齢十六歳でも教師はやっていけるんだな」

「十六歳なのは身体年齢だけよ。精神年齢は着々と育っていってるもん」

「どうだか」

「先生って十六歳なんですか?」

 胡蝶は麺を啜りながら、そうよと言った。どうやら無事蝶になることが出来た魂胡蝶は十六歳で成長が止まるようだ。不老不死なのだから当たり前といえば当たり前だが。

 そういえば今朝の胡蝶は化粧をしていないせいもあってか少しあどけなく見える。少なくとも二十代には見えない。普段はばっちりメイクで年齢を誤魔化しているということが良く分かった。

「と言っても体だけね。実際は二百年以上生きてるわよ。日本史の授業は実体験を話してるみたいなものなの。江戸時代とか私の全盛期」

「そ、それはすごい……。たゆたはまだ十五歳なんだよね?」

「あ、ああ。私は元々普通の人間だしな」

 雲行に話しかけられたたゆたは少し頬を赤く染めながらそう言った。昨日の今日なので恥ずかしさがまだ残っているのだろう。

 全然気にしていなかった雲行も途端に恥ずかしくなり、同じように顔を赤らめる。

「たゆた様は旦那様と奥様とこの胡蝶さんのせいで魂胡蝶になってしまったのです。私は一体誰を恨めばいいのか分かりません」

 捧がたゆたのコップにお茶を注ぎながら言う。

「誰も恨まなくて良いよ。誰も悪くない」

「いいえ、私が悪いのよ。人間を信じた私が馬鹿だった。あのね、たゆたの両親は不老不死の研究をしていたの。とても良い人達だった。外面だけはね。私は保管していた母の蝶を研究のために貸してあげたわ。少しでも彼らの役に立てばと思って。でも決して不老不死になるためには使わないでくれと念を押したの。彼らも約束してくれた。でも嘘だった。彼らは娘のたゆたを実験台にしたの。わざと怪我を負わせたりして治癒能力の研究材料にした。私はたゆたが可哀想で、どうしても怒りが抑えきれなくなって、彼らを懲らしめようと事故に遭わせた。殺すつもりはなかったわ。でも人間って案外弱いのね」

「たゆた様を実験台にした旦那様達も許せませんし、たゆた様の大切な両親を間接的に殺した胡蝶さんも許せません。でも片方は死人、片方は良かれと思ってしたこと。私は誰に怒りを向ければ……雲行で良いですか?」

「ええっ!? 何で俺!? 」

 捧は温かいお茶の入ったポットを雲行の頭の上でぶらぶらと揺らす。冗談なのだろうが、捧が言うと冗談に聞こえないのが本当に恐ろしい。

「たゆた様のために犠牲になってはくれませんか? 良いでしょう、一度くらい」

「え、えーっと……一度で終わる気が……」

「雲行を困らせるな。その話はもう決着が着いたはず。何度同じ話をすれば気が済むのだ」

 捧は無表情ながらもぷうっと頬を膨らませて拗ねてみせた。

 捧がたゆたを失いたくない気持ちは痛いほど分かる。たゆたと二人きりでずっと暮らしてきた彼女はたゆたがいなくなれば主人を失う。一人ぼっちになってしまうのだ。

 自分の命を引き換えに愛する人を救う主人公の物語、そんなドラマや映画は何度も観たことがあるし、感動もした。あのドラマの、あの映画の主人公達は、雲行と同じ立場にいたならばきっと自分を犠牲にしてでもたゆたを救うのだろう。

 しかし雲行にはそのドラマの主人公になる勇気はなかった。死ぬのは怖い。まだ死にたくない。雲行は良くも悪くも普通の少年なのだ。

「ごめん……たゆた」

「ん? 何故雲行が謝るんだ?」

 たゆたは不思議そうに小首を傾ける。

 雲行が普通の少年であるのと同じようにたゆたも普通の少女であるはずなのに、彼女は何故こうも気丈に振る舞えるのだろう。

「さーて、そろそろお暇しようかしら」

 ごちそうさまと手を合わせてから胡蝶はすっくと立ち上がった。

「そうか。帰れ、帰れ」

「もう一生来ないで下さいね」

 たゆたはそれだけ言うと、はむはむといつも通り最後に残しておいたきつねに噛り付き始めた。たゆたにも捧にも帰宅する胡蝶を見送る気は全くないらしい。

「あら、そっけないわね。まあ良いわ。雨霧君、玄関まで送ってくれる?」

「あ、はい! えと、そう言えば今さらですけど俺、男ですよ?」

「触られなければ大丈夫。一期がうざい理由の一つが必要以上に引っ付いてくるところ」

 たゆたがきつねに噛み付きながら不満げな顔でこちらを見つめていたのが少し嬉しかった。




 玄関で胡蝶は黒紋付きに良く似合う下駄を履いた。

 いつも着物を着ている訳、それはきっと洋服よりもそちらの方が二百年を生きてきた彼女にとっては着慣れているからという単純な理由なのだろう。

「そうそう。雨霧君に一つだけ聞きたいことがあったの」

「何ですか?」

「雨霧君はたゆたのことが好きなのかしらと思って。……お友達じゃなく女性としてよ」

 胡蝶の雪のように白い頬にほんのりとピンク色が差した。こんなことで顔を赤くするなんて、たゆたの言う精神年齢十六歳というのはあながち間違いではないかもしれない。

「いいえ。そう言う感情は全くないです。……あ」

「そう、そうなの。それなら良いの。気にしないでね。じゃあまた学校で会いましょう」

 普通に好きだと伝えるはずだったのだが、失敗してしまった。でもまあ今すぐ筆記用具を用意することも出来ないし、別に胡蝶に本当のことを伝える必要もないのでそのまま訂正しないでおいた。

「あ、待って! 胡蝶先生! 一つ、頼みごとしても良いですか?」

「なあに?」

 胡蝶は振り返り、可愛らしく小首を傾げたのだった。




 それから学校デートの約束をした日まで、雲行とたゆたは一緒にいられる最後の時間を最大限に使うかのように朝から晩まで話をした。今度は記憶喪失と嘘を吐かなくても良いからもっともっと色々な話が出来た。

 好きなテレビ番組とか、授業中のおもしろエピソードとか、この間読んだ漫画の内容とか、お気に入りの音楽とか、部活の話とか、そんな他愛もない話をたくさんした。

 たゆたの話は相変わらず屋敷で起こった捧とのエピソードが中心だった。だが遊園地に行ったおかげで話せるエピソードが一つ増えたため、一期とどんな乗り物に乗ったとか、すすきにどんなことを言われただとかを嬉しそうに話してくれた。

 色々と大変なこともあったけれど、それでもみんなと遊園地に行ったあの日はたゆたにとってとても有意義なものになったようで雲行はホッとするのだった。

「鶴、完成ー」

「おお、すごい! 雲行は意外に器用だな!」

 お子様ランチを頼んだ時に付いてきた折り紙で折り鶴を折ってやると、たゆたはとても喜んだ。

「どうやったらそうなるんだ? 全然上手く折れない」

 自分の手の中のぐしゃぐしゃな鶴と雲行の作ったきれいな鶴を見比べため息を吐くたゆた。

「足の生えた鶴ー」

「うわ、きも! きもい! 私もそれ作る!」

「ちっちゃい鶴ー」

「うわ、ちっちゃい! 可愛い! 作る!」

「連鶴ー」

「うわ、すごい! それすごい! 作りたい!」

「次は……」

「うう、作り方教えてくれよ。いじわる!」

「編み物は上手いのに折り紙はへったくそだね。へったくそー」

「あれはものすごーく練習したからだ! いじわるいじわるっ!」

 こんな風に今までとほとんど変わらない日常を二人は過ごしていた。時々捧が自分もたゆたをいじめたいから混ぜてくれと言い出して二人の間を邪魔してくるところも実に今まで通りだった。

 そうやって、たゆたと過ごせる最後の時間はみるみるうちに過ぎ去っていった。

 そして遂にたゆたが蛹になる前日、九日の夜がやってきた。

「たゆた、用意出来た?」

「うん。ばっちりだ!」

 たゆたはそう言ってくるりと回ってみせた。今日のたゆたはカッターシャツの上にクリーム色のセーター、紺色のネクタイ、チェック柄のプリーツスカートという雲行の通う高校の学生っぽい服装をしている。本物の制服を買うことは出来なかったが、出来るだけ似た服を着ていこうと努力した結果である。

「じゃ、そろそろ行こっか」

「うん!」

 雲行も久しぶりに学ランを着ていた。普通の高校生が行うデートを演出するためだ。

「ではまたあとで。気を付けていってらっしゃいませ」

 前日だというのにいつもと変わらぬ様子の捧に二人はいってきますと元気にあいさつをし、一緒に作ったお弁当を片手に目的地の高校へと向かうのだった。




 十時半頃、二人は雲行の通う高校に到着した。外から確認してみると、職員室の電気が消えていた。少なくとも職員室で残業をしている教師はいないようだ。

 しかし警備員はいるはずなので、辺りを警戒しながら門をよじ登り、校内に侵入した。いつも門の開いている時間に通っているため、泥棒のように侵入するのが何だか新鮮に感じてしまう。たゆたと出会わなければ、もしかしたらこんな体験をすることはなかったかもしれない。

「よし、今のところ異常なし。急いで俺のクラスに向かおう」

「雲行のクラスは一年B組だな!」

「うん、良く覚えてるね」

 よしよしと頭を撫でてやるとたゆたは嬉しそうに微笑んだ。

 雲行は鞄から懐中電灯を取り出し、左に握る。そして右手でたゆたの手を握り、走り出した。

 校舎のドアは本来ならこの時間にはもう閉まっている。でも雲行はあの日胡蝶にお願いしておいたのだ。九日の夜にたゆたに学校体験をさせてやりたいので校舎のドアの鍵を一つだけ開けておいてほしい、と。

 そのお願いの通り、正面玄関の一番右端のドアだけ鍵がかかっていなかった。

「胡蝶先生、ナイス」

 そう小声で呟きつつ、雲行はゆっくりと物音を立てないようにドアを開いた。後は雲行のクラスである一年B組に向かうだけである。

 雲行はもう一度たゆたの手を強く握り直した。

 とその時であった。

 向こうの方からこちらに近付いてくる足音が聞こえた。きっと警備員だろう。雲行はたゆたの手を引き、靴箱の裏に隠れた。

「こんな時間に誰なんだ? 泥棒か?」

 たゆたは声を潜めながらそう言った。靴箱の陰からちらりとのぞいてみると、やはり見回りをする警備員のおじさんであった。

 体を密着させ、出来るだけ小さく縮こまりながら警備員が通り過ぎるのを待つことにする。

「警備員だよ。見つかったら追い出されるだろうから静かにね」

 シーッと口元に人差し指を持っていきながら雲行はそう言った。するとたゆたは一生懸命両手で自分の口を押さえ始めた。そこまでしなくてもと思いつつ、必死な彼女がとても愛しくも思えた。

 たゆたのあの甘い匂いが雲行の鼻孔をくすぐる。長い長い睫毛を蓄えた大きな潤んだ瞳がこんなにも近くにある。ぷっくりとした柔らかそうな唇、ほんのりピンク色に染まった頬、陶器のような肌、どれも雲行の心をこんなにもかき乱す。

 そんな衝動を悟られないように、雲行は必死に気持ちを押さえるのだった。

「もう行ったみたいだな」

 たゆたはまた声を潜めながら、靴箱の陰から顔を覗かせた。彼女の言う通り、もう足音は聞こえない。どうやら上手くやり過ごせたようだ。

「よし、じゃあ教室に行こう」

 雲行はキョロキョロと辺りを見回しつつ、懐中電灯を点けた。

 一年の教室は四階にある。学年が上がるごとに階が下がっていくのである。

 足音を立てないように、けれど急ぎ気味に二人は階段を駆け上がる。土足は厳禁なのだが警備員に見つかればそこで終了なので、そんなこと気にしている暇もなかった。

 何の問題もなく四階に辿り着くと、二人は急いで教室の下の方にある小さなドアから中に潜り込んだ。

 教室内は月の光が差し込んでいるおかげで良い感じの明るさを保っていた。もう懐中電灯は必要なさそうである。

「ふー、やっと一息!」

 雲行は自分の席に腰掛けつつ、大きく息を吐いた。そして自分はどこに座れば良いのだろうと困ったようにキョロキョロしているたゆたを隣の席に座るよう促した。

「ド、ドキドキした」

「だねー。見つかったらどうしようかと思ったよ。教室は鍵がかかってるからそうそう見つからないと思うよ」

「ありがとう、雲行。私のわがままに付き合ってくれて」

「いやいや、まだ早いよ!」

 雲行はひょいと立ち上がり、教卓まで歩いていった。たゆたも真似して立ち上がろうとしたが、雲行はそれを制止しこう言う。

「出席を確認します。雨霧雲行君。はいっ! 水月たゆたさん!」

「え? あ、わ、私か! は、はいっ!」

 たゆたは右手を挙げながら勢いよく立ち上がった。

「別に立ち上がらなくていいですよ、水月さん」

「へっ!? は、はい! す、すみません!」

 今度は恥ずかしそうに顔を真っ赤に染めながら椅子に腰掛け直す。

「出席は二名ですね。じゃあ授業を始めます。前回の続き、教科書の三十ページから。水月さん、読んでくれる?」

「や、あの……きょ、教科書、持ってません……」

「なに? 忘れてきたの? 仕方ないですね。雨霧君、見せてあげて。はい、先生!」

 雲行はさぬきの造と自分の会話を演じてから、急いでたゆたの隣の席に戻った。

 机の中をがさごそと探って現代文の教科書を取り出す。全教科置き勉しているので机の中を探れば何でも出てくるのである。

「はい、これだよ。竹取物語」

「す、すまない。え、えと……い、いまはむかし。たけとりの……えっと……何だこれ」

「おきな」

「お、おきな? というものありけり。のやまにまじりてたけをとりつつ……よろづのことにつかいけり。なをばさぬきの……ぞう?」

「みやつこ」

「みやつこ? となむいひける」

 雲行は急いで教卓へ向かう。一人二役は大変だ。

「はい、ありがとう。でも隣の雨霧君に聞き過ぎですよ?」

「す、すみません……」

「雨霧君に教えてもらっておくように。キーンコーンカーンコーン。おや、チャイムが鳴りましたね。では今日の範囲はテストに出るからきっちり復習しておきましょう」

 雲行は教室を出ていく真似をしてから、また自分の席へと舞い戻る。

「高校の勉強というのはとても難しいんだな。少し独学していたのだが、全然駄目だ」

「大丈夫。俺だって良く分かってないし。さて、そろそろお昼だから弁当食べようか!」

「お昼、異常に早いな!」

 二つの机を引っ付けて、二人は向かい合うようにして座る。そして鞄から一緒に作った弁当を取り出し机の上に広げた。弁当箱は一つしか用意できなかったので、二人でこの一つの弁当をつつくことになる。

「では、いただきまーす」

「いただきまーす」

 二人は仲良く手を合わせ、いただきますをした。実は晩御飯を抜いてきているのでお腹はペコペコだった。だから雲行は授業をさっさと終わらせたのだ。

 弁当の中身はとても平凡なものばかり。卵焼きにウインナー、ミートボールにブロッコリー、鶏のからあげにプチトマトにマカロニサラダに海苔を巻いたおにぎり。

 しかしどんなに平凡な食べ物でもたゆたと一緒に食べるととても美味しく感じるのだ。たゆたもそんな風に思ってくれていれば嬉しいのにと雲行は思った。

「いっつも俺、この席に座ってるんだ。で、一番前の真ん中が一期。あそこで堂々と寝てるんだから勇者だよな」

「先生に怒られないのか? 大丈夫なのか?」

 なかなか箸で掴めないプチトマトと格闘しながら、心配そうにたゆたは言う。

「起こす先生もいるけど大抵はほったらかされてるかな。豊穣はあの窓際の席。常に窓の外を楽しそうに観察してるよ」

「すすきんらしいな」

 ミートボールを頬張りながらたゆたは笑った。

「うつろの席はあの一番後ろ。何かいつも視線を感じるから怖いんだよな」

「それだけ雲行のことが好きなんだろう。良い幼馴染ではないか」

「そ、そうなのかなあ。じゃあたゆたは? 俺のことどれくらい好き?」

 不思議と恥ずかしい気持ちはなかった。

「へっ!? ど、どれくらいって……こ、これくらい?」

 たゆたは人差し指と親指でアルファベットのCを作ってみせた。その指と指の間の距離が好きの度合いなのだろうか。だとしたら小さすぎやしないか。

「そんだけ? 俺はこれくらい好き!」

 両手をめいっぱい広げながら雲行はそう言った。

 それに対抗してたゆたも一生懸命両手を広げるが、どれだけ頑張っても小さな彼女が雲行に勝てるはずがなかった。

「全然駄目じゃん」

「むー、ずるいぞ。手の長さが違うんだから当然だろ」

 そう言いながらたゆたは悔しそうに腕をバタバタさせる。そのせいで、箸が手からすっぽ抜けてカラカラと床に落ちた。

「あ! お箸が!」

「もう、暴れるから」

「うう……」

 雲行は床から手探りで箸を探し当て、机の上に置いた。学生が掃除しているため、教室の床はあまりきれいではない。案の定、箸は埃だらけだった。

「これじゃあ食べられないな。仕方ない」

 雲行は自分の箸でからあげを挟み、たゆたの口元に近付けた。

「はい、あーん」

 たゆたは戸惑いと照れの混じったような表情を浮かべながらも、大人しく口を開いた。からあげを口に運んでやると、彼女はもぐもぐと咀嚼し、ごくんと飲みこんでから小さく呟いた。

「は、恥ずかしい。でも……ありがとう」

「いえいえー。たゆたのことが大好きだからね。何でもしてあげるよ」

「く、雲行の口から好きって聞けて嬉しいな……。この間は何故か筆談だったし」

 たゆたの言う通りだった。さっきから思った通りのことが言えている。天邪鬼な言葉なんて一つも出てこないのだ。

「あれ、本当だ! 良かった! 治ったみたい!」

「な、治った? 何が治ったんだ?」

「何かずっと自分が全く思ってないこと言っちゃったり、逆の意味の言葉が出てきたりしてたんだけど、今日はそれがないみたいなんだ。だから良かったなーって」

 それを聞いたたゆたは訝しげな面持ちで言う。

「何だ、それ。おかしいだろ。大丈夫なのか? 誰かに相談したか?」

「いや、たゆたに初めて話した。でももう治ったから問題なし!」

「いやいや、問題あるよ。絶対おかしい。病気ではないだろうし……だとすると」

 たゆたがそう言いかけた時、廊下で何やら物音がした。

 足音ではない。何かを擦るような音だ。その音は着実に一年B組に近付いている。警備員なら足音を立てるはず。ではこの音は一体何なのだろう。

 恐ろしくなって、雲行とたゆたはギュッと抱き合った。通り過ぎてくれと願うが、その願いに反し、その音は雲行達のいる教室の前で消えた。

 そして二人が入ってきた教室の下の小さなドアがゆっくりと開いていく……。

「ぎゃー! おばけー!」

 たゆたが我慢出来ずに叫ぶ。警備員に見つかるのではないかとか、そんなことを気にしている場合ではなかった。

 開いた小さなドアから白い何かがぬっと伸びてくる。しっかりとは見えないが、それは人間の手のようだった。やはりたゆたの言う通り幽霊なのだろうか。いじめられて自殺した少女の霊とかがさまよい歩いているのだろうか。

 雲行とたゆたは瞳をキツく閉じ、もう一度強く抱き締め合った。

「おばけは酷い。自分も妖怪のくせに」

「しゃ、しゃべったああああっ! って、あれ?」

 気怠そうな声色、ぶっきらぼうな口調。どこか聞き覚えがある。と言うよりも、雲行はその声をつい最近まで毎日聞いていた。忘れるはずがない。

「う、うつろ?」

 そう、その白い腕の主は、お勤め中にやってきたのか、何故か巫女装束のうつろだった。うつろは教室内に無事侵入し終えると、立ち上がってパンパンと袴の埃を払った。足音を立てないようにほふく前進してきたと呟きながら。

「わ、巫女さんうつろんだ! 巫女さんだったのか!」

 当然と言えば当然だが、たゆたはうつろの巫女姿を見るのは初めてなのだ。

「うつろんっ! 埃がっ! 鼻にっ! 口にっ!」

「あ、ごめん」

 うつろだけかと思いきや、何と一期もいるではないか。一期は穴にはまって動けなくなった某くまさんみたいになりながら必死に手足をバタつかせ、やっとのことで教室に入ることに成功した。

 この二人がいるということは彼女もいるのだろう。思った通り、最後にすすきが余裕の表情で小さなドアを通り抜けてきた。

「みんな……一体どうしたんだ?」

「胡蝶ちゃんが教えてくれたんだー! 学校体験するって話!」

「誕生日ケーキもあるぜ。みんなで食べよう!」

「そういうこと」

 どうやら胡蝶が気を利かせてくれたようである。

 でも正直雲行はまだたゆたと二人きりでいたい気持ちの方が強かった。

「み、みんな……ど、どうもありがとうっ!」

 でもたゆたがとても嬉しそうに笑うので、そんなことはどうでも良くなってしまうのだった。

「灯り用にキャンドル持ってきたからとりあえず置くねー」

 すすきが持っていたバッグの中から可愛らしいクリスマスツリーの形をしたキャンドルを取り出し、順々に机の上に置いていった。それにうつろがマッチで火を灯していく。すぐに教室内はキャンドルの暖かい光に包まれた。月の光も幻想的でなかなか良かったが、これもこれで良いものだ。それに先程よりも周りを見やすくなった。

「そういえばもうすぐクリスマスだったか」

「うん! 少しでもクリスマス気分を味わえたらなって!」

「ついでにケーキ食べよう。ろうそくに火、付けやすいし」

 そう言ってうつろは持っていた白い箱を机に置き、中から崩れないようにゆっくりとケーキを取り出した。色とりどりのフルーツがたくさん乗った美味しそうなショートケーキだ。チョコレートで出来たネームプレートには『たゆたんお誕生日おめでとう!』と書いてある。

「もしかしてうつろの手作り?」

「う、うん。不本意ながら」

「何!? うつろん、すごい! ありがとう! 私のためにこんな美味しそうなケーキを作ってくれて!」

「あなたが食べるとこにだけわさび練り込んでるけど」

「ええっ!? そんなっ!」

 そう言って意地悪な微笑みを浮かべるうつろだったが、ただ単に照れているだけだと言うことを雲行は分かっていた。というよりも、多分たゆた以外は分かっていただろう。

「じゃあろうそくに火、点けるぜ」

 大きなろうそくが一本と細いろうそくが六本。一期は一定の間隔をおいて細い方のろうそくをケーキに立てた。そして大きなろうそくでキャンドルから火をもらってくると、それで細いろうそくに火を灯していく。最後に大きなろうそくを立てて完成だ。

「すごいっ! 誕生日にケーキなんて久しぶりだ! とっても嬉しい!」

 たゆたはきゃっきゃと子供みたいに声を上げながら喜んでいる。こんなに喜んでもらえたら作った本人も鼻が高いだろう。

「じゃあ、せーの」

 すすきのせーのに合わせてハッピーバースデートゥーユーをみんなで歌った。たゆたの大きな瞳の中でろうそくの火がゆらゆらと揺れる。

 歌が終わると同時にたゆたは思い切りろうそくの火を吹き消した。吹き消す時に願い事をすると叶うと言われているが、彼女は何か願い事をしたのだろうか。

「たゆたん、お誕生日おめでとー!」

「おめでと!」

「まあとりあえずおめでとう」

「たゆた、おめでとう!」

 何だか素直じゃない人が一人いるが、みんな思いを込めてたゆたに祝いの言葉を贈った。

 するとたゆたはぽろぽろと瞳から大粒の涙を流し始めたではないか。

そして泣き声交じりにこう言った。

「ありがどうみんなありがどう……がぞぐいがいにだんじょうびをいわっでもらうのなんがはじめででうれじぐでうれじぐで」

 すごく聞き取りにくかったが、彼女の言いたいことは何となく分かった。

 でも自分と二人きりの時よりも嬉しそうな彼女の姿に、雲行はちょっとだけムッとしてしまうのだった。

「もうたゆたん、泣くなよー。あたしまで悲しくなって……うう……うわーんっ!」

 たゆたに釣られてすすきまでもが泣き出してしまう。

「すすきんが泣くから俺まで涙出てきただろー! 止まんないしどうすんのこれ!」

 そんなすすきを見て、一期まで涙を押さえられなくなってしまったようだ。

 たゆた、すすき、一期の三人でわんわん泣く様子は正に地獄絵図だった。涙と鼻水でぐしゃぐしゃに濡れた顔は酷いなんてもんじゃない。恐ろしい。

「みんな泣かないでくれ。死ぬんじゃない、眠るだけだ。だから泣かないで」

「何で? 百年後、起きたらあなたを知っている人は誰もいない。怖くないの? 何でそんなに気丈に振る舞えるの?」

 うつろがたゆたの瞳をまっすぐ見据えながらそう言った。

 雲行もそれはずっと思っていたことだった。ただの少女とたいして変わらないはずのたゆたがここまで気丈に振る舞える理由は一体なんなのかと。

「そ、それは……」

「答えは分かってる。胡蝶があの時言っていたこととあなたが言うことに食い違いがあった。多分胡蝶のが本当。百年後、目を覚ますなんて嘘。あなたは一度眠ったら永遠に目を覚まさない。でしょ?」

「い、いや! そんなことは……」

「じゃあ目を見て言って? 言えないでしょ?」

 何故かたゆたはうつろの目を見ようとしない。

「え? た、たゆた……ほ、本当なの?」

 雲行が信じられないといった表情でそう聞くと、たゆたは答えにくそうな表情で俯いた。そんな態度を取るくらいなら、嘘でも良いから否定してくれた方がまだ救いがあったかもしれない。

 だってどう考えても彼女の態度からは肯定の意しか読み取れないのだから。

「否定しないってことは肯定か」

「……うつろんは鋭いな。うつろんみたいな巫女なら私を殺せるかもしれない」

「まだ修行中。でもご希望とあらばいつか殺してあげる」

「そ、そんな物騒なこと言うなよ! どういうことだよ、たゆたっ!」

死ぬのではない、百年後に目を覚ます。それが雲行の心の拠り所だったのだ。

 でもたゆたはこのままでは永遠に目を覚まさないという。蛹になったまま永久に眠り続けるというのだ。

 そんなもの、死んだのと同じではないか。

「ごめん、雲行。でも本当のことなんだ。黙っててごめん」

「そんな大事なこと黙ってるなよっ! 永遠に目を覚まさないなんて……そんな……」

「どっちにしろ雲行達とは一生話せなくなるのだし、意味合いは一緒だろう?」

 たゆたはゆっくりと立ち上がり、窓際の机に一人腰掛けた。月の光で照らされるたゆたは相変わらず妖艶だった。

「一緒じゃない。全然一緒じゃないよ、たゆた! そんなの何の希望もないだろ!」

「むしろ永遠に目覚めない方が嬉しい。一人の世界で生きるくらいなら死んだ方が良い」

「そんなのって、そんなのってないだろ。死んだ方がマシなんてこと絶対にないよ……」

「だから君には教えたくなかったんだ。気に病むだろうと思ったから。なのにうつろん、鋭すぎだ。君の瞳は妖怪に対抗する強い力を持っているね」

 こちらに背を向け、冷たい窓に手を付けながらたゆたは言う。

 たゆたは雲行のためを思ってずっと黙っていてくれた。雲行が気に病むことがないよう一筋の希望を残してくれていたのだ。

 でもこうなると話は変わってくる。

 どうにかして彼女を救ってやりたい。自分の命を捨ててでも彼女を生かしてやりたい。そんな気持ちが雲行の胸の中で渦を巻き始めるのだった。

「お、俺……たゆたのためなら自分の命なんていらない。俺の魂をたゆたにあげる!」

「優しい君ならいつかそんなことを言い出すんじゃないかと思っていた。ありがとう。もっと一緒にいたかったな。もっといっぱいお話したかったな。でも――」

 その時、ひゅうと冷たい冬の風が教室の中に吹き込んできた。

風のせいでせっかく灯したキャンドルの火が一気に消えてしまう。教室を照らすのはまたしても月の光のみとなった。

「――さよならだ」

 もっと注意して見ていれば良かった。何故彼女はいきなり窓際に移動したのだろうかと不思議に思っていれば良かった。

 たゆたはまるで水の中に飛び込むかのように、背面から開け放たれた窓の向こうへと落ちていった。

「たゆたんっ!?」

「嘘っ!」

「た、たゆたっ!」

 校庭に飛び降りたたゆたの腕や足はおかしな方向に折れ曲がっていた。ここは四階だ。普通の人間なら重体、もしくは死亡である。 

 でも彼女は普通の人間ではなかった。彼女は普通に見えても、怪我なんか一瞬で治ってしまうような妖怪なのだ。

 たゆたはすぐに立ち上がり、校庭を駆け抜けて夜の闇の中に消えてしまった。

「たゆた……たゆたあ……」

 雲行はガックリと床に崩れ落ちた。瞳から涙がとめどなく零れ落ちる。

自分にはたゆたを救うことが出来なかった。本当に、自分は弱い人間だ。

「泣かない」

 そう言って不意に雲行の両頬を引っ張るうつろ。笑いたくもないのに、雲行はうつろによって無理に笑顔を作らされてしまう。

「ゆき君、追うよ。ゆき君ならあの子を救えるかもしれない。それに、あの子ならゆき君を救えるかもしれない」

「……ど、どういうこと?」

「この数日間ずっと迷ってた、悩んでた。ねえ、ゆき君。最近自分の意に反する言葉を言ってしまうでしょ?」

「う、うん。でももう治ったよ?」

「治ってない。あと一日だからってそいつが油断してただけ」

「そ、そいつ?」

 雲行は意味が分からず首を傾げる。すすきや一期も話に付いていけない様子であほみたいにポカーンと口を開いていた。

「ゆき君には幼い頃から天邪鬼の魂が憑いてる。ゆき君の体を乗っ取ろうとしてる。今までずっと天邪鬼をゆき君から安全に引き剥がす方法を探してた。無理に引き剥がせばゆき君の命に関わるから。でももう時間がない」

「時間が……ない?」

 うつろは力強く頷いた。

「そう。もうすぐ乗っ取りが完了してゆき君は言葉だけじゃなく体まで操られるようになってしまう。いつかゆき君という人格も消える。その前にどうにかして引き剥がさなきゃ。だから……」

「たゆたとキスすれば、天邪鬼の魂だけを吸い取ってもらえるかもしれないのか」

「流石ゆき君。でも今のままじゃ駄目。少し天邪鬼を引き摺り出す。この聖水で」

 うつろはいくつものお札が貼られた小さな小瓶を胸元から取り出してそう言った。

「でもこれを使うのはギリギリ。じゃなきゃ逆上した天邪鬼にゆき君が殺されてしまうかもしれない。賭けだから上手くいくかは分からない。でもやらなきゃゆき君もあの子もこのまま終わる。それならば、この可能性に賭けてみない?」

「やっぱやめとこう。こんなことしたら天邪鬼が可哀想だ。え? あれ?」

「はいはい。天邪鬼本人、お疲れ様。ゆき君行くよ。まだ間に合う」

「絶対行かないよ。俺は行かない。行くなら死ぬ! え!? あれ!? 」

「お前はまだゆき君を殺さない。乗っ取れる可能性が残ってるから。こんな逸材諦められないもんね? 霊力がない、むしろマイナスな人間なんてそうそういないもの。あなあたはよわっちい妖怪だから、強い妖怪にいじめられてばっかだったんでしょ? ゆき君を乗っ取れば他の妖怪に興味を示されなくなりいじめられることもなくなる。むしろこんな霊力がない人間は妖怪にとって毒でしかない。自分をぼんやりした存在にしてしまうゆき君は不愉快な存在でしかない」

「くっ……」

 何だかすごい衝撃の事実を聞いてしまった気がする。

 自分の口から「くっ……」とか悔しがる声が漏れたけれど、別に悔しくも何ともない。むしろものすごく切ない気持ちに襲われていた。

 こんなにずっと妖怪と友達になりたいと思っていたのに、自分は霊力がマイナスであり、妖怪には興味を示されないし、むしろ不愉快な存在でしかないという。

 でもそれなら何故妖怪であるたゆたは自分のことを好きになってくれたのだろう。

 そう、不思議に思った瞬間であった。

「こらっ! 誰かいるの!?」

 教室に向かって走ってくる足音と一緒に怒鳴り声が聞こえた。どうやらこの声は警備員ではなさそうだ。警備員の声は聞いたことがないが、この声には聞き覚えがあった。

「さぬきの造じゃんっ! あいつまだ学校いたの!?」

「独身だからってこんな時間まで学校にいることないのに……。あいつの説教、校長の話より長いぜ?」

 あのヒステリックな甲高い声は紛れもなく担任のさぬきの造だった。警備員以外にも学校に残っている人間がいたのだ。独身の寂しいアラ還国語教師が。

「すすきん、いちごん。片付け、頼んで良い?」

「うん! 大丈夫だよー」

「雲行とうつろんは早くたゆたんの所に行ってあげないとな!」

 すすきと一期は仲良くグッと親指を立ててそう言った。

「でもどうするんだよ、うつろ。もう来ちゃうよ、さぬきの造!」

 雲行は鞄を手に取ると、弁当箱を光の速さで片付け突っ込んだ。

「正面突破」

 そう言ってうつろは教室の前のドアから堂々と廊下に繰り出した。雲行もうつろに腕を引っ張られてさぬきの造の前に潔く飛び出す形になった。

 雲行とうつろの顔をさぬきの造の懐中電灯が順々に照らしていく。

「雨霧君と鏡花さん? あなた達、こんな時間になにやってるの! 何か怪しいことやってたんじゃないでしょうね! まさか巫女服プレイとか! なんて不潔な!」

「な、なに言ってるんですか、先生……」

 このおばさんは生徒になんてことを言うのだろうか。欲求不満なのだろうか。

「さまよえる霊の供養をしていました。しかしどうやら怒らせてしまったようです」

「嘘を吐くんじゃありません! 職員室でお説教ですよ! 来なさいっ!」

「私は本物の巫女ですよ? 先生だって一度は鏡花神社に参ったことがおありでしょう? 嘘なんか吐きません。さまよえる霊はかなり昔にこの学校に通っていた女生徒でした。教師をかなり恨んでいるようです。全員呪い殺す、そう言っていました。あっ!」

 何かを見つけたような声を上げるうつろ。するとさぬきの造はビクリと大げさに体を揺らした。教師を恨んでいたという話に彼女は相当ビビっているようだ。

「な、何? どうしたの、鏡花さん!」

「動かないで。先生のすぐ後ろ。彼女がいます」

「ええっ!? たたた、助けてっ! 助けてちょうだい、鏡花さん!」

「静かに。彼女は騒がしいのが嫌いなんです」

 口元に人差し指を当て、うつろは言う。

 うつろの話を本気で信じて怖がっているさぬきの造が面白くて、雲行は笑いを堪えるのに必死だった。出来るだけさぬきの造の方を見ないよう努めている。

「先生、学校を出ますよ。私の近くにいれば彼女は手を出せません」

 うつろは震えるさぬきの造の背中をぐいぐい押して、階段を下りるよう促す。

 その時、背後からさまよえる少女の悲痛なささやきが聞こえた。

「ねえ……先生……どうして私を見捨てたの……恨んでやる……恨んでやる……」

 どう考えてもすすきの声だったが、怯えるさぬきの造には効果抜群であった。きゃあああと大人気ない悲鳴を上げながら一人で階段を駆け下りていってしまった。

 これで少なくとも今日はもう四階まで上がってきたりしないだろう。すぐに荷物をまとめて帰るはずだ。ちょっとした問題になるかもしれないが、そのことは後で考えよう。

「すすきん、グッジョブ」

 教室の下の小さなドアからピースしているすすきに向けて、うつろは称賛の言葉を贈った。

「ほら。そんな気持ち悪い笑い浮かべてないで行くよ、ゆき君」

 うつろは持っていた懐中電灯のスイッチをオンにし、雲行の顔を照らした。

必死に笑いを堪えていた雲行は未だにうすら笑いを浮かべている状態だった。自分では分からないが、そんなに気持ち悪い顔をしているのだろうか。

「ご、ごめん。い、行こう」

 すすきと一期が声を潜め、いってらーと手を振っている。雲行とうつろも小さな声で行ってきますと返した。そして足早に階段を下り、来た時と同じように正面玄関の開いたドアから外に出て、門をよじ登り、夜の学校から脱出したのだった。

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