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「魂胡蝶」

 たゆたは必死に雲行達のいる集合場所、観覧車前へと走っていた。

後ろからあいつが追いかけてくる。どうしてもたゆたはそいつに捕まるわけにはいかなかった。

 足の長さも運動神経の良さも違う。でもたゆたには一つだけ武器がある。それは小さな体だ。様々なアトラクションや建物、自動販売機などの後ろに身を隠しながらたった一人で観覧車へと向かっていた。

 そろそろ閉館時間なので、出口に向かって歩いている人達の数がとても多い。その流れに乗らず、逆流しながらたゆたは走る。

 一人は怖い。人ごみは怖い。でもここで諦めることは出来ない。

「雲行……」

 たゆたの瞳から涙が溢れ出す。きっと恐ろしくて堪らないのだろう。一人で人ごみにいるというだけでも彼女にとってはトラウマを呼び覚ますことなのに、それ以上に人に追われているというこの状況がきっと怖くて堪らないのだろう。

「雲行……雲行……」

 君が辛い時は手を繋いであげると言ってゆびきりしてくれた雲行の温もりをたゆたは求めているのだろう。

 人と関わりを絶っていたたゆたにとってはきっと初めてのことだったのだ。

 引きこもりの自分を外に連れ出してくれる。優しく抱きしめてくれる。手を繋いでくれる。文句を言わずに話を聞いてくれる。ちょっぴり意地悪で、でも優しくて。自分の寂しさを埋めてくれる存在。

 そしてこんなに胸がときめく異性。そんな人間と出会ったのは初めてだったのだろう。

「雲行ぃ……」

 たゆたはもう走れなかった。手で口元を押さえ、木に寄り掛かる。このままでは追いつかれてしまう。でももう足が動かない。たゆたの体はガクガクと震えており、その震えは一向に治まる気配はなかった。

 そんな時、ガサリと何者かが草を踏む音がした。まさか追いつかれてしまったのだろうか。あれだけ必死に逃げ回ったというのに意味がなかったというのか。

 いや、もしかしたら雲行が探しに来てくれたのかもしれない。もうすぐ集合時間のはずだ。その可能性もなくはない。

 たゆたは微かな希望を抱きながら、恐る恐る音のする方に振り向いた。




「そろそろ閉館か。あいつらどこ行ったんだ?」

 そんなことを一人呟きながら雲行は出口に向かう人の波に流されるように歩く。

 お化け屋敷を通り過ぎ、昼ご飯を食べたレストランを通り過ぎ、空中ブランコを通り過ぎたがたゆたも一期も見つからない。

 もしかしたら室内のアトラクションを楽しんでいる途中なのかもしれない。だったらこんな風に探していてもあまり意味はないのかも。

 だが観覧車前に戻ればうつろの質問攻めに合いそうな気がしたのでもう少しだけぶらぶらすることにした。それにぶらぶらしている間にアトラクションを終えて出てくるかもしれない。

 雲行には連絡手段がないので、一期達とすれ違いになった時のことを考え、とりあえずあと十分探すことに決めた。

 とその時であった。

「たゆ……も……から……」

 そう微かに一期の声が聞こえたような気がした。近くにいるのだろうかと辺りを見回すが二人の姿は見当たらない。

 気のせいだったのだろうか。雲行は不思議に思いながら首を傾げる。

 しかし確かに一期の声だった気がするのだ。

 気のせいだったら恥ずかしいが、もしもの時のために名前を呼んでみることにした。

「一期? いんの?」

 雲行の呼び掛けに反応するかのように、地面を踏みしめる音がした。

 そして――。

「く、雲行っ!」

 たゆたの、雲行を呼ぶ声が聞こえた。

 雲行は声の聞こえた方を振り向く。

 見ると、少し分かりにくい場所に小さな東屋があった。明るい時ならすぐに見つけられただろうが、この時間にもなると、アトラクションなどの影になって見えなくなっていたのだ。

 そしてそこに一期とたゆたがいた。

 たゆたは一期にベンチに押さえつけられ、迫られていた。

「な、何して……」

「雲行……」

 一期が静かにこちらを振り返る。

 その表情は何とも言えないものだった。罪悪感に押し潰されそうな、そんな表情だ。

 決して良い雰囲気になっているわけではないことをすぐに雲行は理解した。

「く、雲行! こいつをどかしてくれ!」

「え!? あ、でも……」

「雲行、お願いだ。邪魔しないでほしい。俺はこの子とキスする必要があるんだ。じゃないと俺は……」

「えっ!? キ、キスっ!?」

 たゆたからは一期をどかせるように言われ、一期からは邪魔をしないでくれとお願いされる。雲行は板挟みになってしまった。一体どちらの言うことを聞けば良いのだろう。

 正直言ってこのまま一期にたゆたの唇を奪われるのは嫌だった。けれど彼の悲痛な表情を見ていると止める気にはなれないのだ。

「雲行、私の言うことを聞いてくれ! このままじゃ危ないのは一期君だ!」

「え、ど、どういうことだよ……」

 たゆたは自分とキスをすれば危ないのは一期だと言う。どういうことなのか全く理解できない。それとも自分を襲えば捧に粛清されるという意味だろうか。

「雲行! 良いからほっといてくれ! お願いだから!」

「何度言ったら分かるんだ! 君は大きな勘違いをしている! 私とキスしたって君の願いは叶わないんだ!」

 たゆたは一期から逃れようと必死に小さな手足を動かし、暴れている。

「雲行! 私を信じてくれ! 彼は勘違いをしているんだ! このままでは彼の命が危ないんだ!」

 たゆたはそう叫びながらこちらを切羽詰った表情で見つめてくる。

 雲行にとって付き合いが長く信用に足るのは一期の方だ。普通なら一期の方を信じると思う。

 でもたゆただって嘘を吐くような人間には思えないのだ。一期のことを心から救おうと思っているようにしか見えない。

 もし本当に一期が勘違いをしているとしたらこのままでは一期が危ないのではないか。

「お願いだ! もう自分のせいで人が死ぬのは嫌なんだ!」

 次の瞬間には体が動いていた。

 雲行は一期に力いっぱい体当たりし、たゆたから彼を遠ざけることに成功した。

 突然体当たりされた一期は地面に倒れ込む。一期は悪くないが、体格差があるのでこうするしかなかった。

 雲行はベンチのたゆたを抱き起こす。するとたゆたはありがとうと小さく呟いた。

「く、雲行……何でだよ……」

 一期の瞳は潤んでいた。雲行に裏切られたとでも思ったのだろう。

 でも雲行に裏切ったつもりはない。むしろ一期を助けたいがために起こした行動である。

「俺はキスしないと駄目なんだよ! じゃないと、じゃないと不老不死になれないっ!」

「ふ、不老……不死? な、何言ってんだよ、お前……」

「雲行、その子は人間じゃない! 妖怪だよ! 初めて会った時、この鈴が知らせてくれた! その子は不老不死の妖怪なんだ!」

 一期はおもちゃみたいな鈴を突きだしてそう言った。りんと小さく鈴が鳴る。

 雲行には信じることが出来なかった。不思議な子だと感じることはあったし、この世のものとは思えない美しさに魅力を感じることはあったけれど、それでもたゆたは普通の女の子だ。

 妖怪の存在は信じている。でも彼女がその妖怪だとは思えなかった。

「な、なに馬鹿なこと言ってんの? たゆたは普通の女の子だよ!」

「膝、見てみろよ! 今朝こけたんだぞ? あんなに血が出てた! なのにもう跡形もない! おかしいと思わないか? 人間だったらこんなにすぐ治るはずないだろ!」

 一期にそう言われ、雲行はたゆたの膝に目をやった。

 絆創膏は剥がれ落ち、地面に落ちていた。一期に剥がされたのだろう。絆創膏の剥がれたたゆたの膝はつるっとしていた。今朝怪我をしたのがまるで嘘のように綺麗だった。

 一期の言う通り人間ならこんなに早く怪我が治るはずがない。

「で、でも……そんなこ――」

 雲行の言葉を遮るようにたゆたが言った。

「君は勘違いをしている。私に人を不老不死にする力はない。私に出来るのは異性の魂を奪うことだけだ。つまり私とキスすれば君は死ぬ」

「そんなことないっ!」

「ど、どういうこと?」

 たゆたが何を言っているのか分からない。普通の人間に異性の魂を奪うことなど出来やしない。キスで異性を殺すことなど出来ない。

 ということは一期の言っている通り、本当にたゆたは妖怪なのだろうか。

笑って食べて喋って泣いて照れて怒ってまた笑って。そんな普通の女の子と変わらないたゆたなのに、本当は人を死に追いやる恐ろしい妖怪なのだろうか。

「証明しよう。捧、遅いぞ」

「ふん。良いところだったのに……残念でなりません。雲行のせいですよ」

 いつからいたのだろう、いつの間にか後ろに捧が立っていた。それにうつろとすすきもいる。うつろはたゆたのことを思い切り睨みつけ、嫌悪感を露わにしている。それとは対象的に、すすきは全く状況が飲みこめないようで不安げな表情を浮かべていた。

「捧、しゃがめ」

 捧は眉間に皺を寄せつつも、たゆたに言われた通り目線が合う高さまでしゃがみ込んだ。たゆたは捧の顎をクイッと右手で持ち上げる。そしてなんと自分の唇を捧の唇に重ねたではないか。

「なっ!」

 雲行には何とも刺激が強すぎる光景だった。恥ずかしくて直視出来ない。すすきも雲行と同じ気持ちのようで、恥ずかしそうに頬を赤く染め、斜め下を向いていた。

 早く終わってくれと心で念じていると、たゆたと捧のキスはすぐに終わりを告げた。

 捧は相変わらずの無表情だったが、たゆたの頬は紅潮していた。何ともなさそうに振る舞っていたが、やはり彼女自身も相当恥ずかしかったらしい。

「よーく見ておけ」

 そう言うとたゆたは自分の親指に噛み付いた。捧も同じように自分の親指を噛む。

 二人の指から同時に赤い鮮血が流れ落ちる。とても痛々しくて、雲行は目を背けたくなった。

 血の流れる親指をまっすぐ一期に向けながらたゆたは言う。

「私はこの通りすぐ傷口が塞がる。跡形もなく。それは私が不老不死だからだ。しかし私とキスした捧はどうだ? 君の言うことが正しいなら捧の傷もすぐに塞がるはずでは?」

 たゆたの言う通り捧の親指からは今もなお血が流れ続けていた。傷が塞がる気配はない。それと比べてたゆたの親指はまるで血なんか流れていなかったかのように綺麗な状態に戻っていた。

「そ、そんな……嘘だ……。わ、分かった! い、異性なら良いんだろ! だからきっと俺なら不老不死に!」

「往生際が悪い。そこまで言うならしても良い。でもやめておけば良かったと後悔する暇もないぞ。君は一瞬で死ぬのだからな」

「そ、そんな……」

 一期は悔しそうに唇を噛み締め、沈痛な面持ちで地面に膝をついた。

 いつでもどんな時でも楽しそうに笑っている一期がそんな表情を見せるとは思ってもみなかった。何とか励ましてやりたいのだが、彼が不老不死になりたかった理由が一つも分からなくてかける言葉が見つからない。

「期待に沿えなくてすまないな。でも不老不死なんて何も良いことはないぞ」

「胡蝶ちゃんが……胡蝶ちゃんが言ってたのに……。不老不死になれるって……ずっと胡蝶ちゃんと一緒にいられるって……」

「こ、胡蝶? 胡蝶ってもしかしてあの胡ちょ――」

「そうよ! この胡蝶ちゃんでーす!」

 たゆたの言葉を遮るように、ふいに若い女性の声がした。それはとても良く聞き慣れた声だった。こんなところで彼女の声を聞くとは思わなかったみんなは驚き、一斉に声のする方に振り向く。

 いつの間にそこにいたのだろう、その声の主はベンチの上に立っていた。

 黒紋付の上に防寒用コートを羽織った若い女性。そう、そこにいたのは顧問の白黒胡蝶であった。

「こ、胡蝶ちゃん!」

 一期は希望の光を見いだしたかのような声色でそう言った。しかし胡蝶はまるでゴミでも見るかのように冷たい視線を向けるだけだった。

 すすきもうつろも、そして雲行も突然の胡蝶の登場に驚きを隠せなかったが、誰も言葉を発さなかった。自分達が口を出して良い雰囲気ではないことを感じ取ったのだろう。

「やはり君か……。また余計なことを……」

「余計なことだったかしら? 私は少しでもあなたに罪滅ぼしがしたいと思ったのだけれど。だってこのままじゃあなたは死ぬのよ?」

「死ぬのではない。蛹になるだけだろう? だから良いんだ。人の魂などいらん」

「永遠に蛹のままということは死ぬのと同じよ?」

 雲行にはたゆたと胡蝶の会話の意味全ては理解出来なかったが、たゆたがこのままでは死ぬ、もしくはそれと同じような状態に陥ってしまうということだけは分かってしまった。

 一体どういうことなのかと問い詰めようとしたが、自分に全く興味を示さない胡蝶に痺れを切らせた一期が先にたゆたと胡蝶の間に割って入った。

「ね、ねえ! 胡蝶ちゃん! 胡蝶ちゃんの言ってた『この鈴が反応する少女とキスすれば不老不死になれる』って言うのは嘘じゃないよな! 俺も不老不死になれるんだよな!」

 一期はそう言いながらじりじりと胡蝶ににじり寄る。

「馬鹿ね。そんな簡単に不老不死になれるわけがないでしょう?」

 高圧的な態度とは裏腹に、胡蝶は一期を恐れるかのようにベンチから降り、後ろへ一歩、また一歩と後退っている。何故か出来るだけ一期との距離を取りたいようだ。

「そ、そんな! でも胡蝶ちゃんだって仲間が出来たら嬉しいって……」

「騙したのよ。そんなことも分からないの? 私はね、あんたみたいなのが大っ嫌いなの。簡単に不老不死になりたいとか言うようなやつが大嫌い。何が胡蝶ちゃんと同じ立場に立ちたい、よ。何が胡蝶ちゃんの気持ちを分かってあげたい、よ。何が胡蝶ちゃんと永遠に生きたい、よ! 軽々しくそんなこと口にしないで! 私はあんたなんか大嫌い! 自分の愛情を一方的に押し付けないでよ!」

 胡蝶はそう一気に捲し立てた。はあはあと肩で荒い息をしている。

 やはり雲行達の勘違いではなかったようだ。一期は胡蝶のことが好きだった。そしてその胡蝶のために不老不死になりたいと思っていた。

 しかしそれは一期の一方通行な愛でしかなく、胡蝶にとっては迷惑極まりなかった。胡蝶は一期のことが嫌いだったのだ。

 だから騙して一期を殺してしまおうとした。そう言うことなのだろう。

「馬鹿は死ね! でも誰かの役に立ってから死ね! 今すぐたゆたと口づけし、魂を捧げなさい! そうすればたゆたは救われる! 蛹にならず、蝶になれる! 永遠に生きていけるの!」

「そんなのって……胡蝶ちゃん……酷いよ……」

 一期はガクリと地面に崩れ落ちた。

 大好きな人の口から発せられる『死ね』と言う言葉ほどショックなものはないだろう。

「酷いのはどっち? 私が一度でもあんたを好きだと言ったことがあった? 不老不死になってほしいと頼んだ? ありがた迷惑なのよ! そんなの私は望んじゃい――きゃあっ!」

 とその時、何故か胡蝶がそう小さく悲鳴を上げた。どうやら突然バランスを崩してしまったようだ。何とか受け止めてもらい、転倒せずにはすんだが、非常に危ないところだった。

 胡蝶がこけそうになった理由はたゆたにあった。たゆたが胡蝶に膝かっくんをしたのだ。

「な、何するの!」

「君にとって一期君の愛が迷惑ならば、君の罪滅ぼしも私にとって迷惑だ。私は蛹になると決めた。誰の魂も必要ない。だからこれ以上一期君をいじめないでやってくれ。君なら一期君の気持ちが分かるだろう?」

 たゆたの視線はまっすぐ胡蝶の瞳を捉えていた。儚げな笑顔を浮かべながら、鈴の音よりも澄んだ声でたゆたはそう言う。

「ば、馬鹿の気持ちなんて私には……あれ……馬鹿は?」

 胡蝶は不思議そうにきょろきょろと辺りを見回した。

 どうやら一期の姿を探しているようだ。しかし見つからない。どこへ行ったのだ、逃げてしまったのか。そんな風に呟きながら、最後に自分を支えてくれている人物に胡蝶は目を向けた。

 胡蝶を支えてくれているのは紛れもなく一期だった。こんなに近くにいるのだから辺りを見回したって見つかるわけがなかったのだ。胡蝶はそうだったのかと納得するように頷いた。

 そして――。

「いやあああああっ! 男ー! いやああああっ!」

 まるで怪物にでも出会ったかのような悲鳴をあげ、そのままガックリと気絶してしまった。

 一期は自分の腕の中で意識を失っている胡蝶と、雲行達の方を交互に見やりながら「え?」と小さく驚きの声を上げた。

「胡蝶ちゃん、男性恐怖症だったのか。通りで普段からいちごんを異様に避けてるわけだ」

 話に付いていけていなかったすすきが久しぶりに言葉を発した瞬間だった。

「胡蝶は母を父に殺されたらしい。まあ、間接的にだが。それから男性が怖いようだ」

「ど、どうして胡蝶先生のお父さんはそんなことを?」

「彼女の母は、妖怪だということを黙って父と結婚したらしい。上手く人間に化けて。でも気付かれた。そして殺されてしまったんだ」

 雲行は絶句した。

 胡蝶はいつでもにこにこしている優しいただの日本史の教師にしか見えなかった。実は妖怪で、そんな過去があったなんて、雲行は今まで考えもしなかった。

 しかし一期は何かのきっかけで彼女の正体を知り、大好きな彼女の救いに自分がなれたらと思っていたようだ。

「一期君に一つだけ教えてあげよう。不老不死になる方法、それは私を殺すことだ。私は死ねば本物の蝶になる。その蝶を煎じて飲めば不老不死になれる。しかし私を殺せるのは力のある同性、つまり巫女だけだ。殺したくば力のある巫女を連れてくることだな」

「お、俺はもう……」

 一期は言葉に詰まって俯いた。瞳に映るのは気を失った胡蝶の顔。彼は今、どんな気持ちでその大好きな女性の顔を見つめるのだろうか。

「まあ気が向いたら来てくれ。いつでも待ってるから。でも最近の巫女はバイトが多いらしいから見つけるのは困難だろうな」

 雲行はちらりとうつろを盗み見る。うつろは腐っても巫女だ。しかもアルバイトなんかではなくれっきとした神社の家系である。もしかしてうつろにはたゆたを殺す力があるのだろうか。

 でも妖怪なんていないと言い張っていた彼女にそんな力があるとは到底思えなかった。

 だってこうして実際に妖怪はこんな近くに存在していたのだから。

 自分の信じていた妖怪の存在を確認することが出来て、不謹慎ながら雲行は少し嬉しく思ってしまうのだった。

「多分みんな訳が分からないと思っているだろうから説明しておく。もうここまで来たら隠す意味はないし、君達も素直に信じてくれると思うのでな。私と胡蝶は妖怪だ。魂胡蝶という。魂胡蝶は十六の誕生日までに異性とキスし、魂を奪えば芋虫の状態から蛹を介さず蝶になれ、永遠の命を手にすることが出来る。だが誕生日までに魂を奪えなければ蛹になり百年間眠り続けることとなる。私は蛹になることを選んだ」

 たゆたが誕生日パーティーはしたいけれどすることは出来ないと言ったのも、間違えて頬にキスをしてしまった時に怒ったのも、こういう理由があったからだったのだ。

 たゆたは好きとか嫌いとか、そんな青春の一ページを飾る甘酸っぱい感情で動いていたわけではなかった。

 それなのに知らなかったとはいえ雲行は勝手に自分に気があるのではと期待したり、嫌われているんだと怒ってみたり、拗ねてみたり、本当にただの馬鹿でしかなかった。

「だからあの夜さっさと雲行の魂を奪ってしまえば良かったのです」

「そんなことがあったの!?」

 うつろが恐ろしい形相で捧を睨みつけた。今にも掴みかからんとする勢いである。魂を取られそうになったのだから、雲行もここは怒る場面なのかもしれない。

 でも怒りよりも、やはり彼女は自分のことを好きなわけではなかったことに対する落胆や相手のことを何も知らずただただ自分勝手なこと行っていたことに対する自責の念が先に来て、怒るに怒れなかった。

「あの時はすまなかった。捧にけしかけられたとは言え、一度でも君の魂を奪おうとした自分が恥ずかしい。謝っても許してはもらえないかもしれないが、本当にすまない」

「嫌だ。謝っても絶対許さない。……あ、れ?」

「うん、そう……だろうな……」

 おかしい。自分が言おうと思ったこととは全く違う言葉が口をついて出てしまった。

 雲行は普通にもう謝らなくて良いということを伝えようとしたはずだった。こんなとげとげしい言葉をかけるはずではなかった。

 どれだけ自分は素直じゃないのだろう。何だか恐ろしさすら感じ始めてくる。

「聞きたくないかもしれないが、雲行にはもう一つ話したいことがある。歩きながらでも、聞いてもらえると嬉しい」

 たゆたの言葉でやっと気付いた。いつの間にか閉園の放送が遊園地内に響き渡っていたのだ。そろそろ出口に向かった方が良さそうである。

 雲行はこくりと頷き、今度は思った通りに頷けたことに安堵するのだった。




「うつろーん。そんなに睨んでも眼力で人は殺せないよー」

「へ? いや、別に睨んでない。見つめてるだけ」

 六人は遊園地から最寄り駅までの道をのろのろと歩いていた。前をうつろ、すすき、捧、そして一度目覚めてまた気絶した胡蝶を背中におぶっている一期の四人が、何か話があるらしい雲行とたゆたはその後ろにいた。

 うつろは先程から後ろを執拗に振り返り、たゆたを睨んでいた。いや、彼女曰く見つめているだけらしいが。

「大丈夫ですよ。たゆた様はもう蛹になることを心に決めておられます。たゆた様は自分で決めたことは決して曲げないお方ですから私が強行突破しない限り雲行は安全ですよ」

「あなたが一番危ないみたい」

 うつろはたゆたを見つめるのをやめ、刃物の様に鋭い目つきで捧を睨み始めるのだった。

「でもまさか胡蝶ちゃんが妖怪だったなんてなー。ずっと探してた妖怪がこんなに近くにいたとは思わなかったよ」

「俺、胡蝶ちゃんのこと好きでめちゃくちゃ見てたから気付いちゃったんだよ。胡蝶ちゃんが人間じゃないって。でも胡蝶ちゃんが人には話すなって言ったからずっと黙ってた。何か、ごめんな」

「いやいや! 良いんだよ! あたしも何かごめん! 違う話しよっか! ほら、そこに生えてる雑草の気持ちでも考えてみようよ! 捧さんどうぞ!」

「馬鹿は死――」

「やめよう! やっぱみんなでスキップしよう! ほら楽しい! 楽しいね!」

 危うく空気を読まない捧のせいで一期の傷が思い切り抉られるところであった。危ない危ない。

 すすきは気を取り直して一人楽しそうにスキップをし出した。そんな気を使っている感バリバリのすすきの行動も一期の傷に塩を塗っている気がしないでもなかった。

 一方その頃、雲行とたゆたは視界の端に揺れるすすきのスキップを少々邪魔に思いながらとても大切な話をしていた。

 雲行がうつろの家を出た理由の一つに関する話、そう雲行の両親のことを。

「話したいことっていうのは君の両親のことだ。君はこの話を聞きたくて記憶喪失を装っているらしいからな。話すかずっと迷っていたのだが、もっと早く話しておくべきだった」

「さ、さっきの話、やっぱ聞いてたんだ……」

 先程のうつろとの会話はばっちり聞かれていたらしい。記憶喪失を装っていたことももうすっかりばれてしまっていた。

 でもやっと両親の行方を知ることが出来るので、結果オーライなのかもしれない。ひた隠しにしていたが、やはりたゆたは雲行の両親についての情報を持っていたのだ。

「七年ほど前、君の両親は私の屋敷にやってきた。事故で自らの両親を亡くしたばかりだった私は突然の来客がとても嬉しかった。妖怪と友達になりにやってきたという理由も嬉しかった。私みたいな存在はただ疎まれるだけだと思っていたから」

 話をし出すと同時にたゆたの顔が血の気を失い始める。そして額に汗も滲み出した。

「だから自分が妖怪だという話や、この山奥なら深夜は特に色んな妖怪と出会うこと出来るという話をしてしまった。舞い上がっていた私は人間にとって夜の山は危険だということをすっかり忘れてしまっていて……。妖怪の自分を基準に話してしまったのだ」

 人ごみに流された時と同じように彼女は小刻みに震えている。ピンク色の肌は今や見る影もなく土気色に変わってしまっていた。

「い、嫌なら無理して話さなくても……」

 雲行は体調を心配してそう言ったが、たゆたはそれを無視して話し続ける。

「案の定、君の両親は深夜に禁足地である神域に入ってしまい、神隠しに遭ってしまった」

 神隠し。本で読んだことがあった。そんな名前の映画も観たことがある。神域で人間が行方不明になる事象のことで、神の仕業だとされているものだ。

「か、神の類でも天狗などならばまだ良かったのだが、君の両親が捕まったのは鬼だった。わ、私が駆け付けた時にはもう彼らは……うっ」

 たゆたは吐くのを必死に堪えるように右手で口元を押さえ、俯いた。

これ以上は駄目だ。たゆたの体が持たない。

「もう良いよ、たゆた! 分かったから!」

「うっ……お、鬼に、鬼に食わ……か、彼らの体は……わ、私は、私にはどうにも出来なくて、彼らを置いて……逃げて……うっ、うえ……」

「もう良いって! ほ、ほら! 手、繋いであげるから。落ち着いて、たゆた」

 雲行はたゆたの空いている方の手を握り、もう一つの手で彼女の背中を摩ってやった。

「うっ……ご、ごめん。雲行、ごめん……」

「俺がいるから。大丈夫だから」

 いくらか背中を摩ってやると、何とか吐き気は治まったようでたゆたはゆっくりと顔を上げた。それでもまだ顔は酷く青ざめているし、汗も震えも止まっていない。

「……雲行の手って温かくてすごく落ち着く。こんなすぐに治ったことないよ……」

「う、うん。分かったからあんまり喋るな」

 たゆたが黙っていた理由、それはやはり両親のことが彼女のトラウマになっていたからだった。それに両親の悲惨な最期を雲行に教えたくはなかったという理由もあるのだろう。

 でもたゆたが謝る必要も罪の意識を感じる必要もないと思った。

 多分自分の両親はたゆたの話を聞いていなくとも夜に出かけたに違いない。日が落ちれば妖怪の世界というのは有名な話だ。きっとそれは両親も知っていたはずだ。妖怪が活発な時間も、神域のことも、そこが危険だということだってきっと知っていただろう。それでも好奇心に任せて危ないことをする人達だったのだ。

 きっとものすごくショックだっただろう。両親を亡くしたすぐ後に、両親の面影を重ねた人間も亡くしてしまったのだ。そして自分のせいだと強く強く思い込んでしまったのだろう。でも決してたゆたが責任を感じる必要はないと雲行は思った。

「たゆた、辛いのに、話してくれてありがとう」

「雲行こそ辛いはずだ。何も出来なくて、本当にごめんなさい。私さえしっかりしていれば……」

 瞳に涙を溜め、青白い顔でたゆたは言った。

 どうにかして彼女を安心させてあげなければ。自分は気にしていないということを伝えなければ。雲行はそう思い、出来るだけ柔らかい表情と声で話し始めた。

「もう七年も前の話だしさ。警察が探しても無理だったし、実際半分以上……というか九九・九パーセントくらい諦めてたんだ。両親がいなくても楽しく過ごしてたしね。もうすぐ失踪期間満了だからその前に自分でも探してみるかーっていう軽い気持ちだったし」

「それでも雲行にとっては大切な両親のはずだ。それなのに私のせいで……私のせいで雲行の大切な人が……」

 またたゆたの体の震えが大きくなった。汗が額からたらりと流れ落ちる。

 雲行はたゆたを落ち着けるように、ギュッと手を握り直した。

「たゆたの話を聞かなくたって父さん達は絶対深夜に妖怪探しに行ったよ。だってそのためにあの山に行ったんだもん。だからさ。たゆたは……一生罪の意識を背負っていけ。忘れるな。俺は絶対にお前を許さないからな」

「うん……」

「へっ!? いや! 俺、今なんて言った!? こんなこと言うつもりじゃ!」

 またしても自分の口から出てきたのは、自分が思ってもいない言葉だった。

 もしかして、自分は心のどこかでこんな嫌なことを思っているのだろうか。こんな汚い心の持ち主なのだろうか。心の奥底にある真意が出てしまっているのだろうか。

 雲行はどれが本当の自分の気持ちなのか分からなくなってしまいそうだった。

「本当にすまない。どれだけ謝っても足りないと思う。私さえいなければ君は今でも両親と暮らせていただろう。何か少しでも君にしてやれることはないか? 私に出来る事なら何でもする」

 たゆたは声を詰まらせながらそう言った。

 別に何もしてもらわなくても良い。たゆたは何も悪くないのだからこれ以上気にせずいてくれればそれで良い。雲行はそう伝えようと思った。確かに思ったのだ。

 でもやはり口から出たのはたゆたを傷付ける言葉だった。

「何もしてほしくない。もう俺の前に姿を現すな。俺は妖怪なんか大っ嫌いなんだよ! お前なんかさっさと蛹にでも何でもなれば良いんだ! ……え? ちがっ! 違うから!」

「ううっ……ご、ごめんなさい……」

 遂にたゆたは泣き出してしまった。両手で必死に拭っているが、とめどなく涙は流れ続けている。

「違う! 違うよ、たゆた! 俺、こんなこと言おうなんて思ってなくて! だ、だって俺、妖怪もたゆたのことも大す……ぐっ」

 雲行は、自分がどれだけたゆたのことを想っているかを伝えようとした。意地なんて張らないで思い切って言ってしまおうと思った。

 自分はやはりたゆたのことが心から好きなのだ。両親のことなんて二の次に思えるくらい彼女のことでいつも頭がいっぱいなのだ。

 それなのに、言葉が出てこなかった。『大好き』という言葉を声にすることが何故か出来なかった。

 やはりどこかおかしい。自分の心の問題とかではなく、自分の体が、声が、まるで誰かに乗っ取られているかのような気持ち悪い感覚がする。

「な、泣かないで! ほら、拭いて拭いて! てか鼻水出てるし!」

 雲行はポケットからティッシュを取り出してたゆたの顔をきれいに拭いてやった。どうやら体はちゃんと自分の思い通りに動くらしい。

「雲行はこんな最低な私にも優しいぃ……うわああああんっ」

 せっかく拭き取ってあげたのに、またたゆたの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになってしまう。これでは可愛い顔が台無しだ。雲行は仕方なくもう一度たゆたの顔を拭いてやる。

「もうティッシュないからこれ以上泣くなよ」

 空になったティッシュの袋をひらひらとたゆたの前でちらつかせながら雲行はそう言った。たゆたは必死に涙を堪えているせいか、変な顔をしながらこくりと頷くのだった。

「あのさ、俺が今から言うことは全部正反対の意味です。行くよ。たゆたはこれ以上何も気にしなくて良い。許すも何もたゆたは全く悪くないんだから。それに俺、妖怪もたゆたのことも大好きだよ。……あれえ!?」

「それはつまり……ご、ごめんなさい」

 何故か今度はちゃんと思った通りのことを言えてしまった。しかも今から言うことは全部逆だと明言した時に限ってだ。

 これでは先程言った、妖怪のこともたゆたのことも嫌いだし、絶対に許したりはしない、お前が悪いということと全く同じ意味ではないか。

「もう! どうしたら良いんだよ! 俺、どうしちゃったんだ!?」

 たゆたに罪の意識を持つ必要はないと伝えることがどうしても出来ない。君のことが好きだということを伝えることが出来ない。一体どうすれば良いのだろう。

 体は自由に動く。でも言葉は自分の思っていることと裏返しになってしまう。

「そうだ!」

 雲行は気が付いた。

 そしてすぐに持っていた鞄から求人誌とペンを取り出し、隙間に文字を書き込んだ。

「これ! 読んで!」

 文字を書き終え、ちゃんと思った通りのことが書けているのを確認して頷くと、鼻をすすりあげるたゆたの顔の前に突き出した。

「え、えと……さっきまでのは全部嘘。たゆたのことをからかっただけ。たゆたは何も悪くないから気にしないで。俺は妖怪大好きだし……たゆたのことも……大好きだ……よ……ううっ……嘘だぁ……」

 口で言ったらまた正反対の言葉になってしまう。雲行は求人誌の違うページを開き、また空いている隙間にカリカリと文字を書き込んでいった。

「嘘……じゃない。初めて会った時……一目惚れしたんだ……。それからずっと……たゆたのことが……好き……。う、うううっ……」

 口に出して読まれると恥ずかしいことこの上なくて、途中でたゆたの口を押さえようかと思ってしまった。でも顔を真っ赤にしながら読み上げるたゆたを見て止めた。

 雲行はまたしても泣き出してしまったたゆたの頭をポンポンと優しく撫でてやる。雲行もたゆたと同じくらい顔が真っ赤だったが、もう日も落ちているので前を歩くうつろ達に気付かれることはないだろう。

「ごめん、何か。迷惑だよね」

「そ、そんなことない。嬉しい、すごく嬉しい。わ、私も雲行のことが好き!」

「え? い、いや別に俺が言ったからって無理して言わなくても良いんだけど……」

「む、無理なんかしてない!」

「な……ホ、ホント?」

 雲行は腰を抜かしそうになるくらい驚いた。まさかたゆたからそんな答えが返ってくるとは思っていなかったのだ。「ありがとう、でもすまないな」とか言われることを想定していた。だからたゆたの口から好きと言う言葉が出た瞬間心臓が止まりそうになった。

 というか一瞬止まったかもしれない。

「いつの間にか好きになっていた。雲行といるとドキドキする」

「へ、へえ……」

 本当は天にも昇りそうなくらい嬉しくて堪らなかったが、何とか平静を保っていた。ここでわーいとか喜ぶのは全然男らしくないと思ったのだ。

 でもあまりにも薄すぎる雲行の反応は、たゆたを不安にさせてしまったようだった。

「あ、あの……へ、変か?」

「うん、変。すっごく変。……違う!」

「え? そ、そうなのか?」

 またまた思ったことと真逆な言葉が出てきた。そのせいで私は変なのか、とたゆたが考え込んでしまった。雲行は慌てて先程の求人誌を取り出し、本当に思っていることを書き込む。

「え? また読むのか? えと、ウソウソ。全く変じゃないよ。それじゃあこれで……俺達……りょ、両想いだ、だから……恋人同士って……ことになるのか……な?」

 今までで一番なくらいに顔を真っ赤にしてたゆたは文章を読み切った。

自分で書いておきながらも、やはり読み上げられるのは恥ずかしくて堪らなかった。熱でもあるのかと思うくらい顔も体も熱かった。こんなことは生まれて初めてだ。たゆたも同じような熱っぽさを感じているのだろうか。

「そ、それは……とても嬉しいことだな。で、でも……なれないよ。私はもうすぐ蛹になる。そうしたら、もう雲行とは喋れないし、一緒にどこかへ出かけることも出来ない。そんなの恋人って言わない。だからもうさよならしよう」

 そうだった。雲行はすっかり忘れていた。たゆたは十六歳の誕生日までに異性の魂を奪えなければ蛹になり、百年間眠り続けることになる。たゆたの言う通り、眠り続ければ喋ることもどこかへ出かけることも出来なくなる。

 そしてたゆたは雲行の死んでしまった後の世界で目を覚ますのだ。

「異性の魂以外に蝶になる方法はないの、かな?」

「ないよ。でも良いんだ。最後に友達が出来て嬉しかった。雲行と出会えて良かった。雲行に好きになってもらえて私はとっても幸せ者だ。それに百年後、君とは会えなくても君の子孫とまた会えるかもしれない。そう考えると楽しくなってくるだろう?」

 一滴も涙を零さずにたゆたはそう言った。

 でも足が、体が小刻みに震えていた。必死に涙を堪えているのだろう。強がっているのだろう。彼女は妖怪だが、それでも小さな十五歳の少女には変わりない。きっと怖いはずだ。

 雲行は求人誌のページを捲り、思いの丈を思い切り書き殴った。

「ま、またそれか? 何の遊びだよ。えっと……そ、そうか。どうもありがとう。でも、ごめんなさい」

 たゆたは、今度は目を通すだけで口に出しては読まなかった。

 雲行が求人誌に書き殴ったのは『そんなの俺は嫌だよ!』という一言だった。

「どうしようもないことなんだ。それが私の運命だから」

「そんな……そんなのって……」

「ありがとう、雲行。こんなちっぽけな私を好きになってくれてありがとう。同じ時間を過ごせなくて、ごめんね」

 今日、何度目の涙だろうか。たゆたの頬を一筋の涙が伝った。それと同時に、雲行の瞳からも涙が一つ、また一つと零れ出す。

「な、泣くなよぉ。確かハンカチがポケットに……」

 たゆたはごそごそとポケットからハンカチを取り出して、それを雲行に差し出した。

 しかし雲行はハンカチを受け取らずにハンカチごと彼女の手を握る。

「たゆたが辛い時は手、繋いであげるって約束してたから」

「う、うん。ありがとう。でもこれだと円になって歩けないぞ」

 言われてみればそうだったので、仕方なく右手を離し、左手だけ繋いだままにした。

空いた右手でたゆたの髪を一房掴み、そっと優しいキスを落とす。本当は本物のキスがしたかった。でも彼女とキスをすれば雲行は魂を奪われてしまう。

 彼女のためなら自分の命なんていらない、と思えるほど雲行は強くなかった。やはり死ぬのは怖かった。それにそんなことをしてたゆたが喜ぶはずもない。

「ねえ誕生日プレゼント、何が良い? 俺に用意出来るものなら用意するよ」

「そ、そんな気を使わなくて良い! 私はそんなに君に甘えていられない。それに君は早く元の生活に戻らなければ」

「そうだね。じゃあ戻る……じゃなくて!」

 言いたいことが言えなかったため、書く場所がなくなってきた求人誌にまた急いで『甘えてくれて良いんだよ。作れるうちに思い出を作っておきたい。出来るだけ最後まで一緒にいたいんだ』と書いた。

 それにしても雲行の言葉を操っている何者か(がいるのかは不明だが)は雲行とたゆたの間を引き裂きたいのだろうか。ちゃんと思っていることが言えることもあるし、言えない時もある。この違いは一体何なのだろう。

「う、うーむ。じゃ、じゃあ雲行と学校に行ってみたい。誰もいない時間帯で良いから、一度だけ……普通の人間みたいに学校に通ってみたい」

「そんなことで良いの? クレープじゃなくて良いの?」

「そ、そんなことって! クレープの方がチープだろ! べ、別に無理ならクレープでも一向に構わないが!」

「ウソウソ! それじゃあ」

 『九日の夜、二人で学校デートしよう』と最後の隙間に書き込んだ。たゆたはそれを見てデートと小さく呟くと、恥ずかしそうに頷いた。

「あまぎりーん! たゆたーん! 電車来たー! 早く切符買っておいでー!」

 雲行とたゆたはすすきのその大きな呼び声で、二人だけの世界からやっと引き戻されたのだった。

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