シロクマハワイ
Part.0 コマーシャル
「どんな小説を書くの?」と彼女は聞いた。
「シロクマハワイって言う北極に住むシロクマの話。コーヒーが好きで、タバコも吸う」
ゆっくり言葉を選びながら答えると、彼女は不思議そうな顔をした。もしも僕が彼女だったら同じような反応をするに違いない。だが、それが事実なのだ。
ユキ先生、期待の新作怪奇小説に乞うご期待!
Part.1 消化試合
空き家になった部屋で二人並んで寝そべって、終わりが近付いてるのを確認する。いや、もう全ては終わって、僕らはただ消化するかのように日々を送っているのだ。ヒンヤリとしたフローリングと、小さく聞こえる彼女の吐息を気にしながら、それを少しでも有意義にするかのように僕らは会話していた。
「どんな小説を書くの?」
と彼女は何気なしに聞いた。難問だ。ゆっくり天井をみながら考える。
「シロクマハワイって言う北極に住むシロクマの話。コーヒーが好きで、タバコも吸う」
そう答えたら彼女は不思議そうな顔をした。もしも僕が彼女だったら同じような反応をするだろう。だが、それが事実なのだ。僕はシロクマハワイについて書いている。それが有意義であるのかどうかはさておき、それが僕の小説なのだ。
Part.2 シロクマハワイ
シロクマハワイの時間は止まり続けている。常にとても寒い冬のままだが、それでも昼になれば太陽が空気を和らげるように暖めてくれる。その時になったら彼はゆっくりとベットから起き上がり、外に出ている背の高い椅子と丸い机でコーヒーを飲む。余計なものは何も入れずに、とびっきり濃いのが好みだ。椅子は二つあるが、誰も訪れる予定は無く、訪れたことも無い。自分が一人であるということを忘れない為だけに二つ目の椅子が存在しているのだろうか。あるいは待ち続けている誰かの為に椅子があるのかもしれない。本当のことは誰も知らない。そんなのはシロクマハワイの勝手だろうと言えばその通りなのだ。もっとも推論するのも私の勝手であるが。やがてタバコを喫いはじめ、陽がくれて暗くなると小屋へ戻る。窓の隙間からサンドイッチを食べる姿が見える。そして食後にまたコーヒーを飲み、彼の一日はゆるやかに終わって深い眠りにつく。
雪国の中で小さな寝息を立てる彼はハワイでノンビリする人間のようだった。
Part.3 君と電信柱
話し終えると、彼女は黙り込んだ。この部屋が壁紙と同じ真っ白い雰囲気で満ちる。それは重苦しいものや気楽なものでも何でもなく、ただそこにある一つの雰囲気的存在で、その中における二人の関係は偶然に配置された電信柱のようだった。電信柱があるのは必然であるのだが、その電信柱でなければならなかったのだろうか。無数の電信柱から選ばれた二本で、いくらでも代替の利く二本。そんな風に、もし彼女が居なかったら、僕は他の女の子と同じようにこうしていただろう。そう考えると、尚更今この場に居るのが彼女であるということが特別に感じられた。だが、これは当たり前のことで、さらに言えば人間は電信柱とは違う。それは確かなことだ。気が確かならば電信柱相手にシロクマハワイの話をしない。
Part.4 優しいカラス
やっぱり駄目かしら、と彼女は言った。それは私が今まで聞いた言葉の中でもっとも意味のない言葉の一つだった。特に私たちの間では。白昼、二人の間だけで静かな沈黙が闇夜のように続く。そこには星も、月さえも存在しない。そしていつもとは違って、うんと寒い冬の夜のようだった。黙りこくる私に、彼女は諦めたかのように立ち上がり、ゆっくりとカバンを手にとって背を向け、サヨナラと言った。私はなにも言わず、黙ってその姿を見ていた。さよならを言うのは少しだけ死ぬことだ。そんな言葉を思い出した。
彼女も私も、何か死んでしまった。それが何かはまだわからない。だが、実感として死んでしまったのだ。それは生きていて、サヨナラの四文字が殺してピリオドを打ったのだ。空は憎いほどの快晴で、カラスが鳴いてた。まるで私を慰めるかのように。それはつつましくて鮮やかな声だった。
Part5. カァ
部屋を射す影が伸びてきた。昼下がりの暖かな陽射しは弱くなって、希望を配ってるような青空も元気をなくしはじめている。
「結局何も解決してないじゃない」
確かに。まるで今の状況みたいだね、と思った。僕はこんなとこに寝そべって時間を無駄にして良いのだろうか。何か有意義なことをするべきではないか。だが、なにも口にはしなかった。窓をみるとカラスが居て、僕と目が合うと小さくカァと鳴いた。まるで肯定するかのように。カァと答えたら彼女は不思議そうに僕をみた。カァ。
Part7. 絵画の裏側
四年前に私がまだ大学生の頃、六番目に付き合ってた男は無駄なことが大好きで、余計な事ばかりしていた。色々と物好きで、古い洋画にハマったかと思えば、その次は絵画教室に通うかどうか悩んでた。結局は美大の友達に指南してもらう事になって、綺麗な風景を描いてた。それは幻想的で温かな色合いをした都会だった。自然や田舎の光景を描いた方が楽しいのに、と言っても、彼は決まってその駅前や繁華街が好きだからと答えた。混雑しててうるさくて、何処にも優しさが無い、何処にでもある都会なのに、彼の絵の街はいつも美しく見えて、安心させた。油絵に挑戦したこともあって、その時は初めてのデートで待ち合わせた駅前の絵だった。それを見て、私にも彼の気持ちがわかった気がした。そんな気持ちで街を見てた彼も、その街も好きになった。
今あるのは未完成のままのその絵と数枚の水彩画だけだが、それらを並べて眺めているといつだってもう居ない彼の体温を感じる。そしてそれがある限り、私は冷たい都会の中でもあの時のままの私でいれる。彼の優しさを思いながら、今夜もいつもの濃い化粧をして仕事へ向かった。絵画の裏側で働くために。
Part8. 電車の鼓動
「私は田舎の方が好きだな」
「ここみたいな?」
「悪くないわね」
二人で居るのには心地良いかもしれない。一人でいるにはあまりにも孤独過ぎるから。だから僕は夜になると、遠くで響く電車の音に安心して眠る。時折、真っ暗で一切物音が無い中、世界中にたった一人で居るかのような空虚さに不安になって気が狂いそうになる。もちろんそんなことはありえない。非現実的だとわかってるが、それは常識を超えた一つの事実として自分を支配するのだ。この部屋の外の世界と自分が剥離されたような強い恐れが全身をくまなく包み込む。明かりの無い、完全な暗闇と絶望。その中で響く電車は、僕とこの世界を再び繋げて、この悪夢から醒ましてくれる。自分の世界は彩りを取り戻していき、心がリセットされる。たった一つの物音で絶望から救ってくれるのだ。
僕も田舎が好きだな、と答えた。それでも、その瞬間には何よりも強い生を感じるから。
Part.9 青、白、赤
青の車椅子は彼のトレードマークだった。常日頃から丁寧に手入れし、銀色部分はよく磨かれて眩しいくらいに輝いていた。
いつの日か、海沿いを歩いている時に「青が好きなんだ」と彼が言ったのを覚えてる。海岸沿いの施設で、海の深い青とその空の青さの隙間に溶け込む水平線のように、彼は青がよく似合っていた。堅牢なサーファーでもその優雅さには敵わないくらい魅力的で、絶世の美男子でもそこでは彼に引けをとった。何故車椅子に乗ってるのかを聞いても彼は答えず、今まで何があったのかについても同じようにはぐらかされ、誰もそれを知らなかった。それでもそこに嫌味なものはなく、やがて誰も気にしないようになった。この施設では誰だって、大なり小なり問題と秘密を抱えてるのだ。私もその一人なのだから。
何時もと同じように彼を押して海沿いを散歩してる時に、彼は「遠くに行きたい」と呟いた。私は海をみていた。カモメの群れが遠ざかる。
「何処にでも連れてくわ」
と私は言った。そして二人は「何処に連れていけば良いのかな」と思った。彼は、まずは高いところから海がみたいと言って、私たちは近場で最も見晴らしの良い診療所の屋上に出かけた。五階建ての古い小さなビルからは小さな街が見える。白い布団がはためいて、音を立ててる。
「あなたはとても孤独なのね。」
「フランツ・カフカのように。」
フランツ・カフカのように。
それからのことは覚えていない。彼にとって、記憶障害の私は都合が良かったのだろう。海と彼の青、雲と布団の白、そして赤の三色だけがボンヤリとしたイメージとして残った。そして一人で車椅子をゆっくりと押して海沿いを歩きながら、カフカの事を考える。目で追っているカモメの群れが遠くに飛んで、水平線に溶け込んだ。今、私はとても孤独だ。フランツ・カフカのように。
Part.10 夢十夜
部屋はもう真っ暗で、僕は明かりをつけずに寝そべったまま、ボンヤリと手の届く先を見つめる。そこには闇、闇、闇。ねえ、と呼び掛ける。誰に向かって? 声がうっすら反響した。それは行き場を探しているかのように広がって、静かに空気に溶けた。
「もし、」
「もし、私も孤独だといったら?」
「何処か誰も僕らを知らない街に出掛けよう。例えば海沿いの」
「診療所があるような」
「そして外に出ている背の高い椅子と丸い机でコーヒーを飲もう」
「悪くないわ」
けど僕は何処だって良かった。何も無いど田舎の墓場の隣だって、ゴミ捨て場が目前にある都会の小さなアパートだって、彼女さえ居れば良かった。彼女は僕の電車の音なのだから。出しっ放しの椅子にも誰かが座ることが必要で、電信柱的な偶然の出会いであってもそれが彼女であって欲しいと心の底から思った。そしてこれから僕らは優しい夜を過ごして、肯定してくれるカラスの声で目覚めるのだろう。こんな夢に見た日々が続くことを祈りながら。