正義とは?
「あのー」
副担任が新人さんと聞き、とりあえず挨拶だけでもしておこうかと真面目君へと声を掛けるがまるで反応が無い。与えられた席に座っている彼は頭を抱え込み『うー』だの『あー』だのと先ほどから何やらぶつくさ言っている。私が背後に居る事すら全く気付いていない様子だった。
「那都先生? どうしたの?」
困り果てている私を見かねてか、私と同じくして新人さん、即ちチャラ男が副担任となってしまった山中 史見先生が声を掛けてくれた。
私と同い年な史見先生は短大卒という事でかれこれ八年のキャリアがあるが、内向的な性格のせいか頼りなさげな雰囲気を未だに醸し出している。二年目の私ですら助けてやりたいと思ってしまう様な、園の中でも唯一私が気を許せる良き先輩であり、良き同僚。そして良き友達であった。
そんな史見先生は既に打ち合わせを始めているのか自分の椅子を持ってきて、真面目君の隣のチャラ男の横に座っていた。
「史見先生ー、さっきから何度も声かけてるんだけど。……鬼頭先生、体調でも悪いのかな?」
泣きつく様にしてそう訴えかけると、背中を向けていたチャラ男が頭を仰け反らせながら割り込んで来た。
「あー、コイツならさっきの下ネタ自己紹介がウケなかったからヘコんでるだけっスよ。俺はマジウケしたし、気にすんなって言ってやったんスけどねー」
史見ちゃんに話しかけたというのに自分は何でも知っているとでも言いたいのか、チャラ男はさも自慢げにそう言った。
喋り方もイライラするけど、この“世の中を舐めてます”って感じが駄々漏れていて何だか腹立たしい。
止めとけばいいのに、つい余計な事を言ってしまった。
「……そもそもあの挨拶って、チャ――じゃない、山本先生がけしかけたんじゃないの?」
あの時の様子からしてきっとそうに決まってる。当の本人はそのせいで相当落ち込んでいるというのに、人の気も知らずヘラヘラとしている態度がどうにも気に入らない。
私の眉間に皺が集まり始めているという事にも気づかず、チャラ男はペラペラと調子に乗って話し始めた。
「そうっすよ? だってコイツの名前超ウケルじゃん。『鬼頭 一太』をちょっと読み方変えるだけで、“亀頭が一番太い”って名前になるんスよ! こいつの親は何を思ってこんな名前をつけちゃったんだかっ! っぷ! やべ、また思い出したら腹痛ェ」
「――っ!」
「や、山本先生、そういうのは……」
――パシンッ
「っ!?」
「あ、……うそ」
失礼な発言をした山本先生を言い諭すよりも先に、つい手が出てしまっていた。
乾いた音が職員室中に響き渡る。先ほどまではざわついていたのが嘘の様にシンと静まり返り、一部始終を目撃していた史見ちゃんはもとより、気付けば頭を抱えていたはずの鬼頭先生、それに職員室に居るみんなの視線が私へと集まっている。
それらを感じながらもすぅっと息を吸い込むと、思っている言葉を一気に吐き出した。
「あんた! ふざけんのもいい加減にしなさいよ! あんたのそのくだらない悪知恵のおかげで当の本人はこんなに落ち込んでるって言うのに、それを詫びるどころか親御さんの事まで馬鹿にするなんて、人として最低だよ!?」
「……。」
「な、なっちゃん!?」
「ふみちゃんいいの、止めないで。こういう輩は口で言うだけじゃダメなんだから」
園では一応職場だからと“先生”付けで呼び合っているのに、混乱してしまっているのかお互い普段の呼び方になってしまっていた。
「いい? あんたちゃんと鬼頭先生に謝んなさいよ!? でないと一生口きいてやんないんだからねっ! ねー、史見ちゃん!」
「な、那都先生、そんな子供みたいなこと……。し、仕事なんだから」
「え? ――あ」
いつの間にかお仕事モードに切り替わっていた史見先生にそう言われると、改めて仁王立ちで腕組みをし、鼻息が荒くなっている自分に気が付いた。途端、身体の中からぐんぐんと熱が上がり頭の上から今にも湯気が出そうになる。シンとしていた職員室が少しずつざわつき始めるのがわかると、余りの恥ずかしさ故、私はすぐにその姿勢を崩す事が出来ずそのまま固まっていた。
――だがそれもすぐに沈静化する。
「――あっ、まっ、槇園長!?」
「え?」
誰かが発したその言葉により、あれほど熱くなっていた身体が一気に冷めていくのがわかった。
◇◆◇
「しかし……、櫻井先生は初日から色々とやってくれますね」
ついさっき園長室から出て来たと言うのに、私は又園長室に呼ばれる結果となってしまっている。園長は呆れた表情で椅子に腰かけると足を組んで溜息を吐いた。
「あのー、園長はもう帰られたのでは……?」
「忘れ物を取りに帰って来たんですよ。そうしたらコレです。はぁ、これでは会議に間に合いませんね」
机の上に置いてある黒いファイルを私に見せつけるようにして揺さぶると、そのまま右の袖を捲って時間を確認した。
「……申し訳ございません」
「――そんな、心にも思っていない様な形だけの謝罪などいりません」
「そんな事」
「あるでしょう? 会議が遅れるとかそんなの私の知ったこっちゃないって今思ったでしょう?」
「……っ」
――確かに思いましたけどっ!?
そんなの、この場を丸く収める為に謝っているだけだってあんたもわかっているんだったら、いちいち問い詰めないでよね。
何と言うか、この園長かなり意地が悪いわ。
「全く、今朝の事といい先ほどの事といい。正義感が強いってのはいいことだと思いますが、時と場合によっては困る事もあるのですね、一つ勉強になりました」
ああ、そうだ。そう言えば私はこの人を借金取りだと思って追い払ったんだった。結局あれは何をしてたんだろう?
「ふぅ。あの後苦情の電話が何本か入ったらしく、細田理事長は対応に追われて大変だったんですよ。……貴方は掃除をしていて気付かなかったのかも知れませんが」
「ひぃっ! 申し訳ありません!」
『本当はこんな事まで貴方に言うつもりはなかったんですけどね』と、園長は項垂れながら額に手を当てている。そんなことになっていたとは露知らず、呑気に掃除をしていたなんて流石に申し訳ないとばかりに思いっきり頭を下げた。
「――あの、そう言えば今朝は細田園長……、あ、や、理事長と何を話してたんですか?」
恐る恐る頭を上げながら尋ねると、机の上に手を組んだ園長の目は鋭さを増していた。
「今はその話をしているわけではないでしょう。話をすり替えないでいただきたい」
「……すみません」
園長から話を振って来たんだから聞いてもいいかと思ったのに、あっさり拒否されてしまった。
「子供たちのお手本とならなければいけない先生ともあろうお方が、事もあろうか暴力で解決しようとするなど言語道断です」
「……はい」
「三歳児でもわかることですよ」
「……仰る通りです」
うう、耳が痛い。あの時は無我夢中でやった事ではあったが、冷静に考えると確かに先生たるもの一番してはいけない事を堂々としてしまった。
「しかも殴った相手が悪い。まさか市長のご子息に手を上げるなんて。私がこの園を再建するためにあの市長にどれほど時間と金を使ったとお思いですか」
「……はい? 今何と?」
今変な日本語が聞こえた気がする。“ゴシソク”とかなんとか――。
「ですから。私は傾きかかっているこの園を立て直すために、何か月も前から――」
「あ、そこではなくもっと前です」
話をぶった切った事が気に入らなかったのか、無表情な園長の顔が一瞬歪んだ気がした。
「暴力で解決しようとするなど」
「その後ですね、殴った相手が云々の所をもう一度仰ってください」
「――。貴方が平手打ちしたあの山本先生のお母様は、ここの市長の山本 君子氏です。これでおわかりですか?」
「はい? 市長のお子さん?」
「はい」
「山本先生が?」
「ええ。山本市長の三男です」
「……ごっ、ゴシソクじゃないですか!?」
「先ほどからそう言ってます。――後、櫻井先生はちょっと日本語の使い方がおかしいですね」
目の前が真っ暗になっていると、『貴方は色々と注意が必要みたいですね』と言いながら、園長は黒いファイルに何かを書き込み始めた。
「はぁ。もういいですよ、仕事に戻ってください」
「は、い」
何だろう、今日が始まってまだ数時間しか経っていないというのに、凄く長くて濃ゆい気がする。良かれと思ってやったことが全部裏目に出て、この仕事を続けられるのかと一気に不安になって来た。
借金取りだと思って追い払ったのは実は新園長で、イジメを排除しようと思ってひっぱたいたのが市長のゴシソクで。園長のあの口振りからすればゴシソクに臍を曲げられると困るみたいな感じだったし、息子が殴られたともし市長が知ってしまったら……。
ああ、想像するのも怖い。
さっきまでは園長室に入りたくないと思っていたが、今はこの部屋から出たくないとさえ思っていた。
「ああ、それと、山中先生を呼んで下さい。念のため彼女にも話しておかないと」
「わかりました。――あの、一つ窺ってもいいですか?」
園長室の片付けを言い渡される時も私の顔を見てちゃんと名前を言い当てたが、史見ちゃんの名前もすんなりと出て来た事に私は疑問を抱いた。
「何でしょう?」
「その、槇園長は園に来るのは今日が初めてですよね?」
「ええ、先ほども『初日から』と申し上げましたが?」
「私の名前も史見先生の名前も既にご存知の様ですが、まさか全員の名前と顔が既に一致していたりするんですか?」
――だとしたら、ちょっと怖いんですけどっ!?
「さぁ? それはどうでしょう。質問はひとつだけとの事だったので、それについては答える必要がありませんね」
感じ悪っ。聞くんじゃなかった。
この園長は謎だらけではあったが、比較的教えてもらえそうな謎について聞いてみようと急に思い立ったのだが、やはり一筋縄ではいかない。
「そ、それくらい、別にいいじゃないですか」
「ここで無駄口をたたいている暇があるなら、早く戻って鬼頭先生と今後について話し合ったらどうですか?」
そう言いながら槇園長は黒いファイルに再び視線を落とす。左手に持ったペンをサラサラと走らせながらチラッと私に視線を向けると、何故だか面白そうにクッと口の端を上げた。