スイッチ
「……っ」
欲望に駆られた獣の様なその目に、ゾクッと肌が粟立つ。
拓ちゃんの顔が近づき始めると同時に瞼もゆっくりと閉じられ、鼻先が触れ合う程の距離に拓ちゃんを感じた。
アルコールの香りが鼻孔をくすぐる。自分から言い出したものの、本当にその瞬間が今から訪れるのだと思った途端に怖気づいてしまった私は僅かに顎を引いてしまう。でも、それを追いかける様にして拓ちゃんの顔がグッと近づきまた距離を狭めた。
もうどちらの吐息なのかもわからない。あと少しで口先が触れるといった距離まで近づいた時、一気に拓ちゃんがその距離を広げた。
「……拓ちゃん?」
「ご、ごめん。やっぱこんなのおかしいって。――俺、どうかしてた」
拓ちゃんは姿勢を元に戻すと、間が持たないのかワイングラスに注がれた赤い液体をグイッと一気に喉の奥へと流し込んだ。
「そもそも、遥さんだと思えばいいっ、てのがおかしいよ。――そんなの那都に対しても、勿論……遥さんに対しても失礼だよ」
一時でも誘惑に負けそうになった自分が許せないのか、いつもの憂いを帯びた表情から一変し、怒りに満ちた顔をしていた。
「なんで? 私はいいって言ってるじゃない。それに、もうすぐ結婚するお姉ちゃんに義理立てする必要もないでしょ?」
私は私でさっきは一瞬怯んでしまったくせに、一度言ったからには引き下がれないとばかりに拓ちゃんに詰め寄った。
空になったワイングラスをテーブルに置き、拓ちゃんがボトルを手にする。
「那都も好きな人いるんだよね? ……こんな身代わりみたいなことするなんて、その人にも悪いって思わない?」
トポトポとまた新たな液体が注ぎ込まれるのを見つめながら、先ほどの強い口調とは違っていつもの柔らかい口調で拓ちゃんが言った。
私の事を思ってか、馬鹿げた考えを改めさせようと説き伏せる。だが、拓ちゃんのその優しさがかえって私を苦しめる結果となった。
私の好きな人は拓ちゃんだから、私にとっては身代わりでもなんでもない。その事を伏せこんな暴挙に出た私は、拓ちゃんに優しくされる資格などないのだ。
お姉ちゃんに対する想いと男の性を利用し、背格好と声が似ていると言うだけで抱いて貰えるんじゃないかと浅はかな夢を見た。
今、拓ちゃんの目に私はどんな風に映っているのだろう。
男であれば誰でもいい淫乱女? 酒に飲まれ、片想いの侘しさを誰かと身体を重ねる事で満足感を得ようとする寂しい女?
もうどっちでもいい。
今言えることがあるとすれば、事実を言えば最後、もうこんなチャンスは二度と巡って来ないだろうという事だった。
「そんなの……。じゃあ、好きな人がいたらずっとエッチをしちゃいけないってわけ? 両想いになるまで我慢しなきゃなんないの? 拓ちゃんはお姉ちゃんの事好きなのに彼女とかいたよね?」
「それは――。その、男の生理現象とか……さ」
男の性という話辛い内容だったからか、拓ちゃんは口ごもってしまった。
「そんなの女だって一緒だよ。男は良くて女は駄目だなんておかしい。女はどんなに寂しくても人恋しくても、好きな人とじゃないとエッチをしちゃダメなの? 誰とも肌を重ねちゃいけないの!?」
「あ、いや、その。……那都? 大分酔ってる?」
語気を強めて言ったせいか、拓ちゃんは返す言葉が見つからないといった感じだった。
「遥だ――って、言ってるでしょ」
「……無理だよ、那都は那都なんだから」
さっきは寸前までいったと言うのに、掌を返したかのように頑なに拒否をする。これ以上何を言えば拓ちゃんを頷かせることが出来るのかと、半ば諦めながら視線を落とした時、視界の端にあるモノを見つけた。
「じゃあ、こうすればいいよ」
「――?」
胸ポケットの中に畳まれて入っていた拓ちゃんのネクタイをするすると取り出した。それを広げ拓ちゃんの目を覆う。
「こうやって私の声だけ聴いてれば、お姉ちゃんだと思えるでしょ?」
「――っ! な、那都、いい加減に! ……な、つ?」
手首を掴んで阻まれ、どうしても受け入れてもらえないのだと知る。恥ずかしさと悲しさのあまりに感情が高ぶり、涙が次々と頬を伝って顎の先から自身の手の甲へと落ちて来た。
「お、願い」
小刻みに震える手で、もう一度ネクタイを拓ちゃんの目元に近づける。
「お願い。い、ちど……一度だけだから、二度とこんな我儘言わないから。――私をお姉ちゃんだと思って抱いてよ」
「……。」
振り払われることを覚悟で恐る恐る二度目に伸ばした手は、もう遮られることは無かった。
◇◆◇
「……ん」
次に私が意識を戻したのは早朝に近い深夜だった。身体にかけられた拓ちゃんのジャケットの所為か、ずっと側に拓ちゃんが居てくれているのだと思い込み、安心してすっかり眠ってしまっていた様だった。
ソファーに横たわっていた上半身を起こし、改めてこの部屋に拓ちゃんが居ない事を認識する。
「……ふっ、……うぅ……」
数時間前の記憶が鮮明によみがえる。それを思い出してしまったことが、私の目からまた大粒の涙を流させた。
◇◆◇
「流石にこの時間だと人も車も少ないな」
いつもより一時間も早く家を出ると、同じ道のりでも全然違った景色に見える。まだ開店準備すらされていないシャッターが閉まっているお店や、普段すれ違う事の無い人達。全く別の環境に変わったかの様なこの風景と同じように、沈んだ今の気持ちもリセットされるような、そんな気がしていた。
あれから拓ちゃんとは全然会っていない。夜に働く拓ちゃんとは大体いつもこんな感じであって、別にお互い避けていると言うわけでもなく、いわばこれが通常運転だ。ただ、通常と違う点があると言えば、あの夜がきっかけで長年想い続けてきた拓ちゃんへの想いを断ち切ろうと思える様になったと言う事だろうか。
報われない恋に酔いしれるには、もう限界を感じていた。
「仕事、……頑張ろう」
まだどのクラスを受け持つのかまでは聞かされてはいないけれど、四月から一クラス任されるという事は正式に発表されている。ただでさえ涙もろい私がいつまでもグダグダ引きずっていると、ふとした時に絶対泣き出してしまうのは目に見えている。
私情を挟んで仕事に影響が出てはいけないと身を引き締め、仕事に集中することにした。
「……? あれ?」
職員用扉の前に人影が見える。自分以外でこんな時間に来る先生が居るのかと首を捻りながら近づいて行くと、その人影が一体誰だったのかが次第にわかり始めた。
「困りますね、今更そんな事を言われても」
「いや、だからと言ってそんな大金うちにはありゃせん。ない袖は振れないっていうだろうが」
一目見て高級品だとわかる品の良い濃紺のスーツを着た細身の男性。と、細田園長。心なしか、手入れも何もされていない伸ばし放題な細田園長の眉毛が、いつにも増して八ノ字になっている様な気がする。スーツを来た男性は腕を組み、細田園長を上から見下ろすようにしているその様はとても威圧的に見えた。
「大金……って、貴方の奥さんが普段バラ撒いている金額に比べれば屁でもないでしょう?」
「なっ!? アレはそんなに無駄遣いをしているのかの??」
「はぁ。自分の嫁が普段何をしているのかも知らないとは、貴方はなんともお気楽な人だ」
その会話の内容からして、お金絡みで揉めているのだという事がわかる。そして、細田園長が切羽詰っているというのも一目瞭然だった。
「まぁ、その事はこの際どうでもいいでしょう。さっ、早く中に入りましょう。先生方が来る前に金庫からお金を取り出しておかないと――」
「ちょっと!」
このスーツを着ている人はきっと借金取りだとアタリをつけた私は、このまま黙って見過ごすことが出来ずに気付けば男の腕を掴んで制止していた。腕を掴まれたことでスーツの男はゆっくりと振り返り、眼鏡のブリッジを中指でクッと押し上げる。
「……何ですか、貴方は」
「さっ、櫻井先生?」
私の顔を見た細田園長の顔はまさにギョッとした表情をしている。そりゃそうだ。奥さんは勿論、園の誰もが細田園長に借金があって、こんな早朝から借金取りに脅されているなんて知らないだろうし、園長からすれば知られたくもないことであろう。
私は何も言わずにただ園長に向かって真顔で一つ頷き、すぅっと大きく息を吸い込んだ。
「……っ、火事だー!!」
「っ!?」
「え? 櫻井先生!? か、火事とな??」
辺りをキョロキョロと見回している細田園長と、態度こそは冷静だったが細めていた目を大きく見開き、明らかに動揺している借金取り。
「火事だー! 火事ですよー! 逃げて下さいー!!」
声を振り絞りそう叫ぶと、向かいのマンションの窓が次々と開く音が聞こえた。
「……園長。また後で来ます」
「は? へ?」
「火事ですよー!」
呆れている借金取りと、状況が呑み込めていない細田園長、そして無駄に叫ぶ私。借金取りが去ったことで、その珍妙な光景はすぐに終わりを告げた。
こんにちは、まる。と申します。
ご訪問有難うございます。
シリアスな展開は当分お預け(?)となります。
これから登場人物がかなり増えると思いますが
目次欄の「登場人物」などで確認しつつ、読み進めて頂けると有難いです。
それでは、今後とも『オサナジコ』をよろしくお願い致しますm(__)m