疑似恋愛
「――? あ、拓ちゃん赤ワインでいい? それともビールにする?」
シンクの下の扉を開け、以前お父さんが会社の人からもらった赤ワインを探していると背後に人の気配を感じた。振り返ればしゃがみ込んでいる所為で私の姿が見えなかったのか、拓ちゃんは部屋の入り口でキョロキョロとして私を探している。
すぐにワインの瓶と瓶がぶつかり合う音で私の位置を確認したものの、拓ちゃんの足はそれ以上進むことは無かった。
「那都。俺、帰るからちゃんと鍵閉めときなよ」
残りの荷物を足元へ置き、玄関の方向へと半身傾けた。
「えー、ヤだ。一緒に飲もうよ。お姉ちゃんだって『留守番してて』って言ってたんだし」
拓ちゃんを引き留めるためすぐに立ち上がるとワインボトルをテーブルの上に置き、拓ちゃんへと近づいた。
「でも――」
「今日は私の言う事何でも聞いてくれるんじゃなかったの?」
中々首を縦に振らない拓ちゃんに焦れ、背後に回って両手で背中を押してソファーの前まで連れていくと、腕を掴んで無理に座らせる。腰を落ち着かせたことで諦めがついたのか、俯きながら額に手をあて小さく溜息を吐くと、『ビール』と小さく呟いた。
「乾き物だったらあるけど、拓ちゃんは飲むときは食べないよね?」
「うん、何も要らないよ。グラスも洗うの大変だから缶のままでいいし」
「それは流石にアレでしょ。お店じゃないんだし、たった二個のコップ洗う位どってことないよ」
缶ビールと生活感漂う味気ないコップをお盆に乗せ、ソファーへと向かう。対面へと座るとテーブルの上で何故か横になっているワインボトルが気にかかった。
「これ、わざと?」
「あ、うん。これ立てて保存してたでしょ。最近買ったものじゃなさそうだし、コルクが渇いてると開ける時折れちゃうから湿らせてる」
「へぇー、そうなんだ。……あ! 私注ぐよ」
「ああ、いいっていいって。今は職場の飲み会じゃないんだし」
拓ちゃんがお盆の上に乗ったコップを手に取ると、それを斜めに傾けて静かに注ぎ始めた。三分の二辺りまで黄金の液体が注ぎ込まれたと思ったら、角度を変えてコップを縦に持ち変える。高い位置からビールが注がれ、ふわっとおいしそうな泡が立ちあがった。
「わあ! 缶ビールなのに生ビールみたい!」
「あはは、たったこんな事で喜んで貰えるなんて嬉しいね」
思えばこうして二人でゆっくりと飲む事なんて初めてかも知れない。外食する時はいつも車で出かけるから拓ちゃんは一滴も飲まないし、拓ちゃんのお店に飲みに行っても自分の飲み物は自分で作ってしまう。
長い付き合い故、拓ちゃんの事なら何でも知っていると自負していたが、知らないこともまだまだあるんだなとほんの少しの寂しさを覚えた。
ビールを何本か開けた後、次に赤ワインのボトルに手が伸びた。拓ちゃんによるとこの貰い物のワインは結構いいものらしく、コルクを折って台無しにしては勿体ないからと、プロの手によって慎重に開けられようとしていた。
「……そう言えば、遥さんって今日何かあったの?」
ワインのコルクをゆっくりと抜きながら何の前振りもなくそんな事を言い出した。手元を見詰めながら何気なくされたその質問は、極々自然に聞いた単なる世間話程度なのだとわざと強調しているかの様にも思える。本当はお姉ちゃんが出て行った後、すぐにでも聞きたかったのだろうが気になる余りにタイミングを逃し、アルコールが少し回って来たところで制御能力を失ったのか、結果的に不自然なタイミングでその質問はなされた。
「あー、今日は両家の初顔合わせだって。結納の日取りとか式の日取りとかも決めるって言ってた」
「……へぇー、そっかー。色々と忙しくなるんだろうな。……いー、よっと。――良かった。コルク折れなかった」
特に気にも留めていないのだと思わせる様な言葉ではあったが、栓を開ける拓ちゃんの手元が僅かにブレた事に私は気付いていた。
幼馴染であればもう少し気になって色々と聞いて来るんじゃないだろうか。
淡々としたその素振りが返って‟本当は気になって仕方が無い”と言っているように聞こえた。
空き缶が並び、ワインのボトルも既に底が見え始めていい感じに酔っ払って来た。アルコールを胃に入れれば入れる程頭がボーっとする私とは相反し、どうやら拓ちゃんは逆に冷静になっていくタイプの様だ。
グラスを空にしては『そろそろ帰る』と言う拓ちゃんを、呂律の回らなくなった舌で何度も何度も引き留めた。
「あれ? もうワインがにゃい。もう一本持ってくるー」
台所へ向かおうと立ち上がった私を止める為に拓ちゃんが目の前に立ち塞がった。
「もう止めときなよ。いくら家だからって流石に飲み過ぎだって」
「いいじゃーん、酔っ払ったら拓ちゃんが介抱してくれるんれひょ?」
押し退けようとした両手首を拓ちゃんに掴まれる。視線を上げれば私を覗き込むようにして眉尻を下げながら困った様な顔して笑った。
「那都は既に酔っ払いと化しています。遥さんに怒られるからそろそろ止めた方がいいって」
子供扱いされた事もだが、拓ちゃんの口からお姉ちゃんの名前が出てついムッとしてしまった。
「別に、……いいじゃん」
「え?」
私の言葉が聞き取れず、拓ちゃんの顔がぐっと近づく。
「別にいいじゃん」
もう一度同じ台詞を言うと上体を元に戻し、また困った顔をして笑った。
「良くないよ。俺の株がさがっちゃうだろ」
「何よ、それ」
「――那都?」
単に名前を呼ばれただけだったが、拓ちゃんのその声はまるで私の様子を窺っている様な声音だった。
普段、これ位の事ならスルーしていたというのに、お酒が入っていたから気が大きくなったのだろう。言いたくても言えなかった本音が、私の口から次々と堰を切って飛び出してきた。
「株って――。そんなにお姉ちゃんから良く思われたいの? お姉ちゃんはもう結婚するんだよ? もう拓ちゃんがどんなに頑張っても、お姉ちゃんが拓ちゃんを見てくれる事は無いんだよ!?」
「那都、何言って……」
「とぼけないでよ!」
掴まれた手を振り払い、ポカンとしている拓ちゃんを睨み付けた。
「拓ちゃんがどんな気持ちでお姉ちゃんを見てたかなんて、私ずっと前から気付いてたんだから」
「――。」
少し半開きになった拓ちゃんの口元がキュッと結ばれる。私を見ていた視線を僅かに逸らし、ただ押し黙っていた。
「もういいじゃない、お姉ちゃんは他の人と結婚しちゃうんだよ? いい加減諦めなよ」
私、何言ってるんだろう。自分だって拓ちゃんの事をずっと諦めきれずに今の今まで来たと言うのに。
言葉を発するたびに自分に言い聞かせている様な気持ちになって、胸が痛い。
拓ちゃんは大きく深呼吸すると、ソファーへと腰を落とした。膝の上に肘を付き両手で頭を抱え込んでいる。
「……から?」
「え?」
今度は私が聞き取れなくて拓ちゃんの横へ座った。
「那都は――、いつから気づいてた?」
「――っ」
やっぱり認めるんだ。お姉ちゃんを好きだって事。
心のどこかで『そんなんじゃない』って言ってくれるんじゃないかと期待していた自分がますます惨めに思えた。
「やっばいな……。遥さんに気付かれてたらどうしよう。俺、超迷惑ヤローだよ」
俯いていた顔を上げると、背もたれにもたれかかり天を仰いだ。細められた目は瞬きもせずただ一点を見詰めている。
拓ちゃんはきっと、『好きだ』と相手に気持ちを伝えるよりも失ってしまう事の方が怖いと感じ、自分の気持ちに蓋をして閉じ込めていたんだと思う。手を伸ばせば届く距離に相手が居るというのにその手を伸ばす事すら出来ず、ずっと一人でもがき苦しみながら。
――それって、まるで私みたいだ。
私が拓ちゃんに対する想いと、拓ちゃんがお姉ちゃんを想う気持ちは多分きっと同じ。凄く好きで、触れたくて。でも、相手は自分ではなく別の人が好きだという事を知って諦めて他の人と付き合ったりもしたけど、すぐ側にいる分、完全に吹っ切るのはそう簡単ではなかった。
「――わかるよ、その気持ち」
「那都? ――、……っ!」
私は腰を浮かせソファーに片膝を乗せた。宙を見つめている拓ちゃんの顔を上から覗き込むと、そっと口唇を触れさせる。
「なっ、何す……」
突然の出来事に余程驚いたのか、お姉ちゃんの事を想って細めていた目を大きく見開き、肩に両手を置かれて再びソファーへと座らされた。
「私も一緒だよ。……ずっと片想いしてる人がいるの。でも、その人全然私の事なんて眼中になくってさ、平気で私に彼女を紹介しちゃうような鈍い人なの。……だからさ、この際同類同士慰め合おうよ」
拓ちゃんの足の上にそっと手を置くと、上半身を摺り寄せた。
「何言ってんの、そんな事出来ないって! ……第一、那都は大事な幼馴染なんだし」
「大事な幼馴染って、……お姉ちゃんだって拓ちゃんの幼馴染だよ? そんな幼馴染のお姉ちゃんと本当はこういう事したいんじゃないの?」
「……っ、」
「お願いだから幼馴染って理由だけで私っていう人間を全否定しないで。私を一人の女として見てよ」
「そんな……。例えそうだとしても、やっぱり那都とはこんな事……」
私の顔を一切見ることなく、膝に肘を付いて手の甲で口元を隠している。
女としてもやはり受け入れてもらえないのだと知り、またショックを受けた。
「じゃ、あ、さ。――私をお姉ちゃんだと思ってよ。性格は全然違うけど、背格好と声は似てるって良く言われるしさ」
口元に置かれている拓ちゃんの大きな手を取ると、それをそのまま私の頬にあてる。水を触る仕事をしているからか拓ちゃんの手の甲は少し乾燥していたが、掌から伝わる拓ちゃんの体温が直に伝わりその温かさに自然と瞼が閉じられた。
「私をお姉ちゃんだと思って……、――抱いてよ」
「な、つ」
「違う」
「え?」
「遥だよ、拓ちゃん」
「……。」
ゆっくりと目を開けると、先ほどまでとは全く違う表情をした拓ちゃんがいた。
目の前には、私の良く知る愛おしそうにお姉ちゃんを見つめる時の拓ちゃんの眼差し。
「た、くちゃん」
今まで決して自分には向けられる事のなかったその視線が、今、自分に向けられていた。