嘘吐き
「私なんて単なる副担任でただ子供たちと一緒に遊んでただけなのに、最後はみんな泣きながら抱き付いてきてくれてね。もう嬉しくて嬉しくて涙が止まらなかったよ」
「そうかー、那都はよっぽど子供たちに気に入られてたんだね」
とりあえず、ここにいても仕方ないからと、当てもなく走り出した車の中。私は今の自分の気持ちを隠す為にさっきからずっと卒園式であったエピソードを話している。今ここで仮に涙が流れてしまったとしても、卒園式の事を思い出し感極まって――、と思ってもらえるだろうと思っての事だった。
『一年間良く頑張りましたのお祝いをしよう』と拓ちゃんが突然言い出し、週末でお店が忙しいはずなのに、マスターに無理を言って休みを取ってくれた。場所は私が決めていいと言っていたから、前から行って見たかったホテルのバーを指定したものの、その店には拓ちゃんのお店の常連客が働いていてその人達に茶化されるのが嫌だからと、あっけなく拒否された。
運転する拓ちゃんの横顔が好きなのに、今日は全く見ることが出来ない。
仕方なく窓の外を見ながら止めどなく話を続けていると、見覚えのある景色に思わず声を上げた。
「――あれ? 拓ちゃん、どこ行くの?」
「ん? ホテルリッチで豪華ディナーを食べた後、バーで飲むんでしょ?」
「え? だって、拓ちゃんさっき嫌だって」
「よく考えたら、俺って凄く小さい事言ってたなぁってちょっと反省した。今日は那都が主役なんだから那都の行きたい所でいいよ」
あんなに顔を見ないようにしていたのに、そんなことを言われてつい振り向いてしまう。私が拓ちゃんに顔を向けたと同時に包み込むような優しい笑顔を向けられ、トクンと胸が弾む音が聞こえた。
浮いたと思ったら沈んだり、沈んだと思えばまた浮いたりと、何かと忙しない私の気持ちは最後の最後に浮上することが出来た。
ホテルの地下駐車場へゆっくりと入っていく。入り口に一番近い場所に停め、車から降りた拓ちゃんを見て私はある事に気付いた。
「あれ? 拓ちゃん、そのスーツって」
「ん? ああ、そう。那都が見立ててくれた奴だよ。こんな時しか着る機会ないからね」
「やっぱり! うん、凄く似合ってるよ!」
「あはは。店員さん勧めるの上手だなぁ」
拓ちゃんは恥ずかしそうにして視線を逸らすと、緩めていたネクタイをキュッと結びなおした。
大学を卒業した後、私は紳士服の販売員の仕事に就いたが、入社当初は接客が上手く出来なくてどのお客さんについてみても全く買ってもらえず意気消沈していた。この業界に向いていないのかもと拓ちゃんに相談した翌日、突然店に現れた拓ちゃんが私の勧めるがままにスーツを一式買っていってくれた。
そんな拓ちゃんの優しさに触れた私はつい気が緩み、勤務中だというのに店の中で号泣してしまったのを今でも覚えている。
町場のバーで働いている拓ちゃんにはちゃんと制服があるからスーツなど必要ない。購入した所で着る予定もないと言うのに、仕事が上手くいかない私を元気づける為に大金はたいて買ってくれたのだった。
今日は今日で卒園式に出ていた私に合わせ、その時に買ったスーツを着てくれている。仕事柄なのかも知れないが人を喜ばせることを生き甲斐にしているような拓ちゃんに、また感動して涙腺が緩んだ。
◇◆◇
「おいしかったー、また来たいね」
「うん、そうだね」
食事を終えた私たちは次の場所へと移るためエレベーターホールへと向かう。絨毯敷から大理石になり、ヒールの音がコツンコツンと響いている。エレベーターの扉は鏡の様になっていて、そこには赤い顔をした私に向かって何かもの言いたげにしている拓ちゃんの顔が映っていた。
「なに?」
横に並んでいる拓ちゃんを見上げる。
「いや、さっきのお店で結構飲んでたけど大丈夫? ただでさえ那都はあまり飲めないのに。プライベートでも酔っぱらいの相手はマジ勘弁な」
「大丈夫だよ……。それよりバーは何階?」
「あー、えーっと……、確か三階」
「上ね」
一歩前に出て、上に上がるボタンを押すとポンッと軽い音がした。
エレベータの扉に映った拓ちゃんはどこかソワソワしている。右を見たと思えば左を見たりと、まるで誰かに見つかるのを避けようとしているかの様だった。
やがて、エレベーターの扉がスッと開き、拓ちゃんは観念したのか自ら進んでその箱の中に足を踏み入れる。
「那都?」
「……。」
扉を押さえて待ってくれていたが、あんなに行きたがっていたはずなのに、私は決してその箱の中へ入ろうとしなかった。
「……あ、すいません。お先にどうぞ」
乗り合わせている人に頭を下げると、拓ちゃんはエレベーターを降り顔を俯かせている私の前で立ち止まる。
「どうかした?」
態度を急変させた私を咎めることもせず、優しい声音で問いかけられた。
「何か……、やっぱりここ最近忙しかったから疲れてるのかな。さっきまでは平気だったのに急に酔いが回ってきたみたい」
「大丈夫? 吐き気とかない?」
「ううん、それは大丈夫、平気だよ。――でも、今日はもう帰りたい」
「……そっか。じゃあ、ここはまた今度来ような」
「う、ん」
――嘘吐き。
拓ちゃんも私も嘘吐きだ。私が吐いた嘘に拓ちゃんは気付かない振りをすると、何も言わず下へ降りるボタンを押した。
◇◆◇
「ただいまー」
拓ちゃんの家に車を置いた後、いいって言ってるのに帰りの車の中で終始無言だったのが余程気に掛かったのか『心配だから』と隣の私の家まで送ってくれた。ヒールを脱いで玄関へと上がり、園児や保護者から貰った花束やサイン帳を拓ちゃんから受け取る。最後の一つに手を伸ばした時、背後からパタパタとスリッパの音が近づいてくるのがわかった。
「あ、なっちゃんお帰りなさい」
聞きなれた声に振り返ると、姉の遙が両手に沢山の荷物を持ってこちらへ駆け寄ってきていた。
「――? お姉ちゃんどうしたの? そんなに大荷物持って。こんな時間からどこか行くの?」
「そうなの。――あ、拓ちゃんいらっしゃい」
「こんばんは」
お姉ちゃんは余程急いでいるのか玄関にいる拓ちゃんに適当な挨拶だけするとすぐに視線を私に戻し、靴を履きながら事の成り行きを話し始めた。
「お父さんが飲みすぎちゃってあちらさんのお家でダウンしちゃったのよ。是非うちに泊まっていって下さいって言って下さったのはいいんだけど、寝巻きとかお父さんのお薬とか何も持ってきてなかったから、私が取りに帰ってきたの」
「あ~あ、お父さん初っ端から何やってんだか」
「かなり緊張してたみたいだから、悪酔いしちゃったみたいね。……じゃあ、そういう事で今日は私もお母さんもお父さんもみんな泊まらせて頂く事になったから、後は宜しくね。――あ、拓ちゃん良かったら、なっちゃんと一緒に留守番しててくれない?」
「えっ?」
「お姉ちゃん! 私もう子供じゃないんだから一人でもちゃんと留守番できるってば!」
「念には念をよ。……あ、いけない早く行かなきゃ! じゃあね、ちゃんと戸締りするのよ」
「はいはい、いってらっしゃーい」
扉が閉まったのを確認すると、まだ玄関で立ち呆けている拓ちゃんに声をかけた。
「と言うことだから、一緒に留守番してってね」
「え? 那都、さっきと言ってること違……」
「いいじゃない。酔いも冷めちゃったしせっかくだから飲み直そ?」
どうしようかと迷っている拓ちゃんを玄関に一人残したまま、私はリビングへと向かった。