微妙な距離感
「那都せんせー、お先ー」
「あ、お疲れ様でしたー」
今日の所は外から見えるところだけ片し、続きは明後日以降にやると毎年決まっている。“外から見える所だけ”なのはそれなりに理由があるらしく、どうやら近隣に住む住民の目を気にしてのことらしい。なんでも、“あの幼稚園は片付けもせず放ったらかしでだらしない”といった印象を与えかねないからとかなんとかで、その話を耳にした時は幼稚園も客商売染みて来たもんだなと、ある意味感心するものがあった。
昨今の少子化の影響で年々園児の入園数が減り、どこの幼稚園もその事で頭を悩ませている。園に特徴を持たせようとピアノや英会話などのお稽古事。近所のスイミングスクールと提携し、冬でも温水プールに入れてスクールまでの送迎は勿論幼稚園バス。何かと目新しいことをしなければどんどん置いてけぼりを食らう今の時代をどうにかして生き残るには、一人でも他の園に子供が流れないようにと策を練らなければならなかった。
その様は一般企業と何ら変わりはなく、幼稚園といえども既にビジネス化していた。
一番下っ端の私はほかの先生方が帰るまで片付けを続けている。『いいからもう帰りなよ』と皆口々に言ってくれるが、かといって自分が先に帰るのはやはり気が引ける。とりあえず、セキュリティの設定ボタンを押すのは自分の役目なのだと思っている以上は、他の誰かよりも早く帰ることなど全くもって頭になかった。
「那都せんせー! 彼氏が迎えに来てるよー。もういいから早く行ってあげなよ」
大川先生がニヤニヤしながら大声で言った。それを聞いた周りにいる先生達も黄色い声を上げている。
職員用扉に目を向けると、先生方の後方に拓ちゃんの黒のクーペが止まっているのが見えた。
「……で、ですから、違いますって! 皆さんに勘違いされるので、そういう事は言わないでください!」
「はいは~い、じゃあまた明後日ね。お疲れさま~」
わかったのかわかっていないのか。曖昧な返事をすると先生方は駅に向かって歩いて行った。
「もう」
最後の点検を行い、セキュリティーの設定ボタンを押す。上靴からヒールに履き替え、拓ちゃんの待つ車へと急いだ。
近くまで行ってみればいつものように座席を全部倒し、すやすやと眠りについているのが窓ガラス越しに見える。コンコンと軽く窓を叩くとピクリと長い睫毛が揺れ、拓ちゃんの双眸がゆっくりと私を捕えた。
私だと認識したのか、柔らかな笑みを返す。
いつも見慣れているはずなのに、大川先生にあんなことを言われてしまったせいか、思わずドキッと大きく胸が跳ねた。
「ごめんね、お待たせ」
「いや、大丈夫。寝てたし」
助手席に乗り込みそう告げる。拓ちゃんは座席を元の位置に戻した後両腕を上げると、片方の肘を持って脇腹を伸ばす様な仕草をしながら小さく欠伸をした。
「もしかして昨日帰り遅かった? 私が今朝家を出る時はまだカーテンが閉じられてたけど」
「うーん、昨日って言うか今日? ……は客引きは早かったけど、休み貰ったから仕込みとかしててちょっと遅くなったかな。でも七時半過ぎには家にいたと思うよ」
「相変わらず昼夜逆転してるね」
「まー、こんな仕事してると仕方ないよね」
人と真逆の生活を送ることに何の不満もないのか、眉をしかめるどころか少し嬉しそうに眉尻を下げた。
「で、今日はどこに行くんだっけ?」
くあっ、とまた小さく欠伸をした後、ドリンクホルダーに置いた飲みかけのブラックコーヒーを口に含み、コクンと喉に流し込む。
「んーとね、今日はホテルリッチでディナーを食べて、んであそこのメインバーで飲みたい!」
「あー、……あそこは駄目」
「なんで? 拓ちゃんのお店の常連さんがいるから?」
「そ」
「えー? そんなの不公平だよ。あっちの人は拓ちゃんのお店で飲めて、拓ちゃんは飲みに行っちゃ駄目だなんて」
むぅっと口先をとがらせると、参ったなぁと言う風に長い前髪をかきあげた。
「向こうは誰も駄目だなんて言わないよ。むしろ『いつでも飲みに来てください』って言ってくれてる」
「じゃあ――」
その言葉を聞いて口角が上がり始めた時、次に放たれた言葉に先ほどまで少しドキドキしていた胸がきゅうっと締め付けられた。
「俺が女の子連れてたら絶対茶化されるってわかるもん。いくら幼馴染だーって言っても絶対信じないよ、あの人たち。正直、ちょっとそれがめんどいかな」
「――っ」
きっと拓ちゃんにとっては何てことのない台詞なのだという事はわかっている。でも、ずっと拓ちゃんの事を好きだった私にとって、その台詞は少々酷なものだった。
私の気持ちを未だ知らない拓ちゃんは、新しい恋人が出来る度、家族よりも友人よりも先に彼女を私に会わせてくれる。
――『那都は特別だから』、『那都は大事な幼馴染だから』
毎回毎回、彼女が代わる度に紹介しなくていいよと言うと、決まってそんな言葉が返ってきた。
決して気を使って言ったわけではない。拓ちゃんの彼女を紹介されるのが辛くなってそう言ったのだなんて、拓ちゃんはきっと永遠に気付かない。拓ちゃんの新しい彼女に会う度、ある一人の女性と雰囲気が似ていると私が感じている事さえも気付かないだろう。
私とは全く違うタイプのその女性を見詰める拓ちゃんの眼差しは、私に向けられる視線とは全く違うものだった。
「い、いいじゃない? この際、彼女だって言っちゃえば。別に何て思われ様が拓ちゃん今彼女いないんでしょ? 問題なくない?」
「まぁー、そうなんだけどね」
問題はそこじゃないんだよ、と言わんばかりに拓ちゃんは苦笑いを浮かべている。
どうして? 何がいけないの? 拓ちゃんの事がずっと好きだった私からすれば、こうやって外堀から埋まっていけばラッキーだなんて、ずるい事を考えちゃうよ。
そんな曖昧な答えじゃなくて『那都は恋愛対象外だ』ってはっきり言ってくれれば、私もすっぱり諦めがつくのに。
「……。」
なんて――、幼馴染思いの優しい拓ちゃんに限って、私が傷つくようなことをわざわざ言うわけがない。拓ちゃんが悪いわけじゃないのに、前にも後ろにも進まない宙ぶらりんなこの状態に耐え切れず、つい拓ちゃんを悪者にしてしまった。
他の女の子と付き合うことはあっても、私と付き合う事はきっとこの先永遠にない。
あの女性が側に居る限り、拓ちゃんと過ごす幸せな未来など私にはやって来ないのだと、頭の中ではちゃんとわかっていた。