記憶
「……。」
ゆっくりと重い瞼を開き、見慣れた天井を見上げる。部屋の中が既に明るくなっているのがわかり、もう既に朝を迎えているのだということを知らされた。
目が覚めて一番最初に思う事は今日仕事は休みか否か。そして、今日が休みだとわかった途端、いつもは二度寝に入るのが私の休日の朝の過ごし方だったが、今朝の目覚めは最悪だった。
あれは悪夢だったのだろうか。改めて昨夜のお戯れが夢ではなく実際に起こってしまった事なのだと認識する。
長い抱擁から始まり、キスをされて舌も入れられた。おまけにブラジャーをつけていなかった胸を……、何の隔たりも無い状態で直に揉まれてしまうだなんて、自分の警戒心の無さに心底呆れてしまう。しかも、ちょっと気持ち良いとさえ思ってしまった事が、自己嫌悪に拍車をかけた。
自分がそんな女だったとは思っていなかったのに、異性と触れ合う事自体がここ数年なかったせいか、嫌だ嫌だと言いながらも徐々に迫りくる快楽の波に危うく身を委ねてしまうところだった。
「……家で良かった」
両親も姉も居る家の中での出来事だったからこそ、理性が勝ったのかも知れない。
誰も居ないところだとどうなってたんだろう。
そう思いながらもその先を想像するのが怖くなりベッドの中で頭を左右に振った。
「はぁ。一太君、まだ居るのかな」
身体を起こして足を絨毯につける。昨日の今日だから顔を合わせたくないと思った私は、一太君が既に帰宅していることを願いながら着替えを済まし、扉へと向かった。
「――? うあぁっ!?」
「お、おはようございますっ」
部屋の扉を開け廊下に出ようとすると、何故かそこには恥ずかしそうに顔を俯かせた一太君が正座の姿勢で鎮座していた。
自分の部屋の前に一太君が居た事にびっくりしたのもあるが、先ほど言った独り言が聞かれてやいないかと変な汗が噴き出て来る。廊下に出ようとしていたのをぐんと無理に背中を反らし、再び部屋の中へと戻った。
「なっ、こんっ……、なっ、なっ!?」
『こんなところで何してんの!?』って言いたいのに、動揺し過ぎで心臓がバクバクとうるさ過ぎて上手く言葉に出来ない。
扉に隠れる様に顔だけを出し、廊下に居る一太君の様子を窺った。
肘は直角に曲げた状態で太腿の上に両手を置き、ビシッと侍の如く背筋を伸ばしている。ほんの少し頬を赤らめたその顔は、いたたまれないと言わんばかりの表情をしていた。
――そりゃ、昨日の今日だもの、いくらなんでも平気ではいられないよね。そう思うなら顔を見せずにとっとと帰ってくれたらよかったのに。
てっきり、昨夜の事を謝りたくて正座で待っていたのかと思ったが、どうやら違う様子だった。
「あのっ、実はおばさんからナツさんを起こしてくるようにと言われまして。で、何度かノックしてみたんですが、まだお休みになられてたのか反応が無かったのでその事を伝えに戻ったら、今度は『布団を剥がせば起きるから』って言われてしまって」
「――。」
年頃の娘がいるのだという自覚があるとは思えない無責任極まりない母のその言動に、一瞬眩暈がした。
「でもっ、流石に本人の了承なく無断で女性の部屋に入るのはいくらなんでもと思いましてですね」
お母さんにも驚いたが、いつもはどちらかと言うと寡黙な一太君が、珍しく饒舌になっているのにも驚いた。まっ、自分にかけられた嫌疑を何とかして晴らそうと必死になっているのだとは思うが。
「ナツさんを起こすために部屋に入る事も出来ず、かといって戻る事も出来ず。あちらを立てればこちらが立たない状態に陥ってしまって……」
「……仕方なく私が起きるのをここで正座して待とう、ってなったわけ?」
「そう、なります」
全てを言い切ってしまったのか、スラスラと喋っていたのが急にピタリと止まった。
さて、どうしてくれようかと腕を組んで考えていると、一太君の左目の下あたりにうっ血した痕が薄っすらあった事に気が付いた。
「――? その目、どうし――、……っ」
どうしたのかと聞こうとしたもののその原因は自分にあるのだとすぐに思い出し、慌てて口を噤んだ。暴走し始めた一太君を制止する為、無我夢中で浴びせた私の怒りの鉄拳の痕跡なのだろう。
今思えば同じ屋根の下に私の両親がいるのもお構いなしにあんな大胆な事をしでかす人が、部屋の中へ入るのはいけない事だと思うだなんて何だか矛盾している。いくら酔っていたからとはいえ、昨夜の一太君と今目の前にいる私と視線を合わせる事も出来ない一太君が、同一人物なのだとは到底思えない。
あまりの変わりように、騙されているのではと更なる疑いの眼差しを向けた。
「ああ、これですか? 何か朝起きたらこんな事になってて。多分、寝てる時にソファーから落っこちてテーブルにでもぶつけたんじゃないかと」
「は!?」
「え??」
「……何、それ。昨日の夜の事覚えてないって言うの?」
「え? それってどういう意味ですか? ――確か、昨日はナツさんが先にお休みになられて、その後暫くしておじさんもおばさんも遥さんもお休みになったので僕もソファーに寝かせて貰ったんですが」
――その後でしょ、その後!!
その後の事を聞いてみると、呑気に『おばさんに起こされて、もう朝だという事に気付きました』と完全に“アノ”記憶がすっぽりと綺麗に抜け落ちている様だった。
「……っ低」
「はい?」
自分がしたことを覚えていないというだけで、何も悪びれる様子もないその口振りに少々イラッと来た。
「最っ低!!」
大声でそう吐き捨てると一太君をその場に残し、下へ降りる為に階段へと向かった。
「ち、ちょっと待ってください、何ですか? 僕、ナツさんに何かしましたか?? ――? おわぁっ!?」
どうやら正座をして足がしびれてしまっていたのだろう。
私を追いかける為に立ち上がろうとしたその巨体はドスンと大きな音を立て、床の上に崩れ落ちた。