真夜中の戯れ
「一太君、お風呂空いたよ?」
濡れた髪をタオルで拭きながら冷たい麦茶の入ったコップを手に、まだリビングで盛り上がっている一太君に声を掛けた。
皆にいいように言いくるめられ、渋々ではあったが我が家に泊まる事に一太君は同意したものの、お風呂に入るのだけは何故か頑なに断っていた。これでは何時になってもお風呂に入る事は出来ないと思い、一太君の了承を得て先にお風呂に入らせてもらった。
「あ、いえ本当、に……っ、――」
「?」
麦茶を飲みながら皆の居るリビングへと向かう。一太君は何かを言いかけて何故か途中で口を噤んでしまった。
暫く返事を待ってみたものの、返事をする所か一太君は顔を俯かせてしまう。その頬はほんの少し赤く変化したかのように見えた。
「……。――あ」
――もしかして、私がスッピンパジャマ姿という完全に気が緩みまくった恰好をしている所為だろうか。
幼馴染だとは言っても今は一応仕事仲間であって、しかも十数年経っているともなればいつも泣いてばかりいた小さな一太君ではなく、もう十分立派な男性になっている。気付かれていないとは思うものの、いくらお風呂上りだとは言えせめてブラジャー位はつけておいた方が良かったのかと、あまりにも無防備過ぎる今の自分の姿に恥ずかしさを覚えた。
「えっと。とりあえず、私先に寝てもいいかな?」
その場から逃げる為に選んだ言葉だったが、そんな私の事情など知る由もないお母さんが噛みついてきた。
「んまぁ! あんった一太君と久し振りに会ったっていうのに!」
一太君に失礼だと言わんばかりにお母さんはプリプリと怒って口を尖らせている。私は小さく息を吐くと呆れながら言った。
「悪いけどお母さん。私は毎日会ってるんだし、これからも毎日会う事になるんだってば」
「そうかも知れないけど――」
「ごめん。今日はもう本当に眠いの。――あ、一太君はゆっくりしててね。じゃ、おやすみ」
「は、はい! おやすみなさい!」
「もう、那都!」
母のお小言がまだまだ続きそうな予感がして慌てて言葉を被せる。適当に返事を返しながら麦茶の入ったコップをリビングのテーブルの上に置く。一方的に話を切り上げ二階の自室へと戻って行った。
部屋の電気はつけないままで、カーテンを閉めるために窓辺へと近づく。
「……。」
向かいの拓ちゃんの部屋の明かりがまだ点っているのがわかると、先ほどの態度が気になっていた私は、今すぐにでもこの窓を開け、拓ちゃんの部屋の窓を叩きたくなる衝動に駆られた。
せっかく忘れようとしているのに、そんな事をしてしまえば元の木阿弥だ。一太君を勝手に巻き込み彼氏なのだと嘘を吐いた意味が無くなってしまう。
何度も何度も自分にそう言い聞かせ、小刻みに震える手でカーテンを閉ざすと急いでベッドの中へと潜り込んだ。
目をぎゅっと固く瞑れば、さっき見た拓ちゃんの悲しげな表情が浮かんでくる。あんな顔を見せつけられてしまっては、してはいけない期待をしてしまいそうになる。
「……っ、……」
好きでいる事も、忘れる事も出来ない今の状態がとてつもなく苦しい。拓ちゃんの事を思うと溢れ出る涙を止める事が出来なかった。
◇◆◇
アルコールを摂取したせいか、夜中に喉の渇きを覚えて目が覚めた。部屋から出て階段を下り、リビングへと向かう。真っ暗闇の中、寝る前にテーブルの上に置いたコップを探すために目を凝らしていると、すぐそばのソファーで大きな塊がゴソッと蠢いた事にドキリと心臓が跳ねた。
「――っ! ……?」
両目を擦ってその大きな塊を見てみると、そこにはお父さんの浴衣を身に纏った一太君が寝転がっていた。
寝相が悪いのか、はたまた単にサイズが小さすぎるだけなのか。浴衣の前は完全に肌蹴ている。腰に巻いた帯のお陰でかろうじて羽織っている、と言ったような見事なまでに着崩れている状態だった。
一太君は殆どパンツ一丁という出で立ちで気持ちよさそうに眠っている。その寝姿を見ると、何の恥じらいもなくパジャマ姿を見せた事を反省していたのが、とてつもなく大したことではなかったのだと思えてきた。
しかし、何でこんなところで寝ているんだろう。お母さんが用意していた部屋を覗き込むと、遠目から見ても畳の上に敷かれている布団は使用された形跡がないのがわかった。
お風呂に入らなかったから汚い身体で布団に入るのがはばかれると思ってソファーで寝る事にしたのだろうか。そう思うなら最初から素直にお風呂に入ればいいのに。
「なんとまぁ律儀な」
ひとりごちながらソファーに寝ころぶ大きな塊を揺さぶった。
「一太君、こんなとこで寝たらだめだよ」
「んぁー……」
控えめに揺り起こしてみたが起きる気配はない。仕方なく彼の両方の手首を持って無理に起き上がらせようと引っ張ってみた。
「ほら、起ーきーてっ、……? ――きゃっ!」
引っ張っていた腕は逆に引き寄せられ、その反動で一太君の上にドサリと倒れ込んでしまう。慌てて彼の胸元に手をついて上体を起こそうとしたが、背中に感じる温もりが一太君の暖かい手だという事に気付いたと同時に、グッと私の背中を押すようにしてその手に力が込められた。
そして、再び彼の胸元に顔を埋める結果となった。
「あ、ちょ」
「んー……」
――ど、どうしよう??
一太君は目を覚ましている様子はなく、まるで抱き枕を抱き寄せるようについ無意識でやってしまっているのだとは思う。だから、この事について彼を責めるつもりなど毛頭ない。ただ、今彼が目を覚ましてしまえば私が寝込みを襲ったなどと誤解を与えてしまうのではないだろうか。
そんな一抹の不安が頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
一太君の腕の中で暫く考えた結果、背中にまわされた腕の力が弱まってきた頃合いを見計い、彼に気付かれない様にそっと抜け出せばいいのだと思った。が、何回やってもすぐにまた引き寄せられてしまい、一向に抜け出ることが出来ない。
これは長期戦になると覚悟を決め、次はもっと長く時間をおいてみようとしばらく耐え忍ぶ決意をした。
五分、十分と時が経つ。頭上から寝息が聞こえるものの、今ここで焦ってはいけないのだと何度も自分に言い聞かせていた。
「……。」
そんなこんなで余りにも暇だったせいか、ふと、一太君の胸板は実は凄く厚いという事に気が付いた。何か運動でもやっていたのかただ単に厚いだけではなく、筋肉質で無駄な贅肉なんかも全くない。
昔は華奢な子供だったのが嘘の様に、今ではすっかり男らしく成長していた。
「っ、」
そして、その身体を今まさに肌で感じているのだと改めて思った途端、急に意識してしまいみるみる顔が熱くなっていくのがわかる。寄せた耳からトクントクンと規則的なリズムを刻む心臓の音が聞こえ、その事で自分の心臓がかなり早いペースでリズムを刻んでいたという事実に気付かされた。
ここ数年は彼氏らしい彼氏もおらず、男性とこんなに密着する事が無かった、とはいえ、相手はあの一太君だと言うのに何でこんなにドキドキしてしまうのだろう。見境がなくなっている感じがして、何だか酷く憐れだ。
自分の意思とは反し、どんどん身体の熱が上昇していくのがわかる。その事で急に焦りが生じ、我慢できずに勢いよく上体を起こしてしまった。
「――! ……あっ」
「んー、……あれ? ナツさん?」
やっぱりまた引き寄せられてしまう。それどころか勢いよく胸板に顔をぶつけてしまったもんだから、とうとう一太君が目を覚ましてしまった。
恐る恐る顔を上げると寝ぼけ眼で私を見下ろす一太君とバチリと目が合う。
「あ、えっと、これはね」
何て言い訳をしようかと焦る私とは違って、一太君は自分の胸元に私が顔を埋めている事に驚くどころか何故かニヤリと笑って見せた。
その表情からしてどこか余裕の様なものを感じさせられる。目をパチクリとさせていると、起き抜けの掠れた声で一太君は思いもよらぬ言葉を発した。
「何だ、ナツさんって意外と積極的なんだね」
――え? 今何て言った?
目の前に居る人が言った台詞とは思えず、私はただポカンと口を開けていた。
「え? ――あ、ちょぉっ!?」
私を見下ろしている切れ長の目がフッと細められた途端、私と一太君の位置が入れ替わりあっという間に組み伏せられてしまう。ジタバタともがく私の上でクスッと小さな笑い声が聞こえた。
「でも安心して。僕、そんなナツさんも嫌いじゃないよ?」
「はい?」
――全く理解不能なんですけれど。
何だか盛大に勘違いしている様子が窺える。
「ちょっと待って、何か勘違いして……、――っ!?」
これはちゃんと説明をせねばと口を開いた時、一太君の口唇が私の口唇に押し当てられたのが、この暗闇の中でもはっきりとわかった。