お泊り体験
「いやぁー、まさかあの時の泣き虫坊やがねー」
「ほんっと十三年も経ったら見違えるもんだね」
「あら? 一太君、さっきから全然飲んでないじゃない。遠慮しないでもっとどんどん飲みなさい。今日は家に泊まっていけばいいんだから」
「いや、流石にそこまでお世話になるわけには……」
拓ちゃんが去った後、話し声が聞こえた事で様子を見に来たお姉ちゃんに今度は一太君が捕まった。半ば強制的に家の中へと招き入れられ、拓ちゃんの代わりとばかりにお父さんのお酒の相手をさせられている。飲めないなら飲めないのだとはっきり断ればよいものを、彼の真面目な性格のせいか、皆の話に適当に相槌を打ちつつ何とかこの場をやり過ごそうとしている様子だった。
が、いつもお父さんの相手をさせられているお母さんは勿論見逃さない。“そのグラスの中身を空けるまで、ここを一ミリたりとも動かないわよ!”とでも言いたげにビール瓶片手に一太君の傍らに陣取っていた。
「もう、お母さんいい加減にしなよ。一太君飲めないんだから。拓ちゃんに逃げられた代わりに一太君にお父さんの相手をさせようと企んでいるのが見え見えだよ」
「あらバレてたのね」
「おいおい、何だか聞き捨てならないな。まるで俺が酒を飲むことでいつも母さんに迷惑かけてるみたいな言いっぷりじゃないか」
「「そうだよっ!」」
あまりにも自覚が無い父の言葉に、思わず姉の遥と言葉が被った。
「でも、全然飲めないってわけじゃないでしょ? 何だか飲みたそうにしてる気がするもん」
「お姉ちゃん、人は外見で判断してはいけないって教えてもらわなかった? さっきの飲み会だって一太君はずっとウーロン茶飲んでたんだよ。本当に飲めないんだってば」
「そう?」
「そう!」
ずっと櫻井家の勢いにタジタジになっている一太君の代わりに言ったつもりだった。
「あの」
「?」
「正確に言うと“飲めない”と言うより、“飲まない”ようにしているんです」
「え? そうなの?」
「ほら! やっぱり!」
“当たった”とばかりにお姉ちゃんは喜び、一度は離れていたお母さんも今度はワインボトルを片手に舞い戻って来た。お父さんも意気揚々としている。
私はと言うと、そんな事言わなければ何事もなくこのまま帰ることが出来たのに。とテーブルに肘をついた手で顔を覆っていた。
「……でも、何で飲まない様にしてるの?」
疑問に思う事を訊ねる。俯かせていた顔を上げると、一太君はワイングラスを両手で持ち上げ、お母さんの酌を受けながら顔だけ私へと向けた。
「あ、いや、実は……飲むと記憶が飛ぶんです。気が付いた時には見知らぬマンションのごみ収集場で寝ていたりですとか、知らない人の家にいたりですとか。――あっ、もうそれくらいで……あ、はい、すみません」
「それって結構ヤバくない?」
ワイングラスの九割くらいまでワインを注がれてしまってから、一太君は慌ててストップをかけた。
「わはは! 中々ののん兵衛だな一太君は! まぁ、安心しなさい。この家に居る限りそんな事にはなりゃせんて。ささ、そうと決まったらぐぐっと!」
「は、はい。では、遠慮なく」
「……。――? え!? ちょ、そんな一気に大丈……夫」
お父さんの号令に従い一気にワインを飲みほした一太君は、お姉ちゃんの言った通り本当はお酒が大好きなのか、とても満足げな表情を浮かべていた。
◇◆◇
「いやね、一太君。俺だって娘は勿論可愛いんだよ。目の中に入れても痛くないとは良く言うもんで、そらぁもう溺愛しているさ」
「はい」
「でもさ、家の中で男一人っつーのはやっぱあれだね、疎外感が半端無いんだよね」
「お察しします。うちも両親が離婚してからは祖母、母、妹。男は僕一人だけでしたから」
一太君はお酒を解禁したものの、特段変わったところは見受けられない。記憶が飛ぶと言っていたからすぐに酔っ払ってしまうのかと思っていたが、いつものお父さんのつまらない話にも的外れな返事などもしなければ過去の記憶もちゃんとしっかりしている。顔色一つ変えず早いペースでグラスを空けていくところを見ていると、普通にお酒に強い人間なのだと思える程であった。
――もしや、拓ちゃんより強いんじゃ?
「……、――。」
そう思った途端、先ほどの別れ際に見た切なげな拓ちゃんの表情が頭を過った。
拓ちゃんからすれば私はただの幼馴染のはず。なのに、あんなに悲しそうな顔を見せられては『ちゃんと幸せにして貰いなよ』なんて台詞も実は本心からではないのかも知れない、って自分の都合のいい様に解釈してしまいそうになる。
長年想い続けて来たこの思いに終止符を打つ為、一太君まで巻き込んで精いっぱいの嘘を吐いたと言うのに、やっとの事で固まっていた決意が又ぐらつき始めた。
「あー、そう言えばまだ小さい妹さんいたね。おばさんも妹さんも皆元気?」
「――。」
お父さんたちとお酒を酌み交わしながら、お姉ちゃんも楽しそうにしている。ほんのりと頬を赤らめ瞳を潤ませているお姉ちゃんは、少し飲んだだけで全身真っ赤になってしまう私とは違って十分な色香を醸し出していた。
お姉ちゃんの事が好きな拓ちゃんからは、もうすぐお姉ちゃんが結婚するとわかっていてもまだ尚“諦める”といった類の言葉は聞け無かった。ずっとお姉ちゃんへの想いを浸隠しにしてきたからきっとこのままずっとお姉ちゃんを思い続けるのだろうと思ったからこそ、拓ちゃんへのこの私の想いは断ち切ろうと決心したというのに。
「はぁー」
拓ちゃんの考えていることがさっぱりわからない。場の空気を読まずに私は大きな溜息を吐くと、テーブルの上に顎を置いて突っ伏した。
「……? なっちゃん、毎日遅くまで頑張ってたから疲れてるんじゃない? 早くお風呂に入ってもう寝た方がいいよ」
「んー、そうする」
こんな時でも私を気遣ってくれる優しい姉は、一太君の前で失礼だと私を咎める事もせず、優しい言葉を投げかけてくれる。
まさか、自分が原因で私が重い溜息を吐いたとはこれっぽっちも思わないだろうな、と思いながら私は席を立った。
「……あ、そだ。一太君が先に入る? 一応お客様なんだし」
「えっ!?」
そう言うと、一太君は口に近づけようとしていたグラスを慌てて引き離した。
「いや、本当に僕はもう帰りますから」
私にそんな風に言われてしまった事で長居してしまったと思ったのか、一太君も立ち上がり荷物をかき集め始める。しかし、当然の如く皆に引き留められ、仕方なく又元の椅子に腰を落ち着かせていた。
「一太君、お布団の用意が出来たわよ」
「っ!?」
タイミングよく、そう言いながらお母さんが客間から顔をのぞかせると、またもや口元に近づけていたグラスをグイッと引き離した。
「いやっ、ほんっとーに! 風呂も入ってないのに布団とか……。今日は来週の準備やらで汗も沢山かいたし相当汚いですから」
「いやあね。そんなに気になるならお風呂も入ればいいじゃないの」
「着替えが……」
「そう言うと思ってホラ」
ぬかりは無いわよとばかりの母の手に広げられているのは、以前、お父さんが愛用していたお母さんお手製の浴衣だった。かなり長身の一太君に百七十センチあるかないかのお父さんの浴衣は、どう考えてもつんつるてんだろう。
あの浴衣を着ているのを想像してしまい勝手に上がる口元を必死で堪えつつ、まだ首を縦に振ろうとしない一太君にそっと耳打ちした。
「うちの家族、言い出したら聞かないからそろそろ諦めた方がいいよ」
「ええ!? で、でも」
そして自分のお風呂の順番はまだまだ回ってこないのだと知り、リビングのソファーへと腰を落ち着かせた。
「――あの、じゃあ、櫻井先生」
「なんだね?」
「なあに?」
「パンツは流石にないわよ?」
私に声を掛けたつもりだったのが、一家全員教職についているせいか全員が反応した。
一太君は皆を見回した後、一呼吸おいてもう一度声を出す。
「……な、ナツさん」
「……。――あ、何?」
「明日の朝、……あっ、お昼でもいいんですが。その……、僕にも名札作り手伝わせてもらえませんか?」
『なっちゃん』とか『那都』って呼ばれる事はあっても『ナツさん』って呼ばれる事が今まで無かったから、やけにそれが新鮮でくすぐったいものに思える。
あれ程自分一人で仕上げると言っていた仕事なのにその事でぼうっとしていた所為か、気付けば『うん』と小さく頷いていた。