正しい嘘の吐き方
「うっわぁーこの辺覚えてる! 懐かしいなぁー。……あっ、あそこの家、おっきな犬いましたよね? 何故かいつも吠えられるから、目を瞑りながらダーッと走り抜けてたなぁ」
「あはは、そうなんだ」
何とこの鬼頭先生が実は幼馴染だったという事が判明し、タクシーに乗り込むまではよそよそしかったのが嘘の様に、今ではすっかり打ち解けてしまっていた。
先ほどまではまるで侍かの如くビシッと背筋を正して座っていたのに、今や小さな子供の様に窓ガラスにべったりと張り付いている。見覚えのある場所を通るたび過去の思い出を嬉しそうに話すその姿に、私の頬が綻んだ。
私にとっては何も変わってはいないいつもの景色でさえも、鬼頭先生には特別なのもに見える様だった。
家の前まで車をつけてもらう。鬼頭先生が座っている方のドアが開き、私を下ろすために彼は一旦車外へと出た。慌てて財布を取り出したものの千円札が一枚も無く、仕方なく五千円札を外で待つ鬼頭先生に差し出した。
「あ、すみません。僕も細かいお金ないんです」
「じゃあ、来週にでも返してくれればいいよ」
一瞬、『お釣りは要らない』という言葉が出かかったものの、安月給故その言葉を吐き出すまでには至らなかった。
「あ! ちょっと待ってください」
私と立ち位置を入れ替わると、大きな身体を小さくして運転手さんに両替は出来るかと交渉を始める。まるで鬼頭先生を追い払うような仕草で手と首を横に振った運転手は、さも早くしろと言わんばかりに消灯させていたベッドライトを点らせた。
「鬼頭先生、もういい……、――っ」
そんなこんなしていると、背後から玄関の扉が開く音が聞こえた。
この時間帯になると普段は人も車もあまり通らないこの辺りは、いつもシンと静まり返っている。てっきり、車のエンジン音と人の話し声を聞きつけた家族の誰かが様子を見に来たのだろうと振り返ったのだが、違った。
そこには居る筈の無い人物が少し驚いた表情で私たちの様子を窺っていた。
「那都?」
「た、拓ちゃん……」
拓ちゃんの姿を見た瞬間、ギューッと心臓が掴まれる様な感じがした。お姉ちゃんの代わりに抱いて欲しいと馬鹿みたいなおねだりをしたあの日の事が一瞬にして蘇ってくる。と同時に更に心臓が早鐘を打ち、カーッと全身が熱くなってくるのがわかった。
あんな事があってから、拓ちゃんとは一度も会っていなかった。いつもは拓ちゃんが仕事に行くのを見計らい、用事がある振りをして外に出たりしていたが、そんな事もここ暫くは避けていた。あの事を今でも気にしている私とは相反し、まるで何も無かったかの様に拓ちゃんは平然としている。もう、私の事など全く興味ないかの様に、私の背後に居る人物は誰なのかを確認しようと上半身を傾けていた。
「あ、どうしたの? 今日仕事は?」
「……。ああ、うん。今日は休み。又伯母さんから筍を貰ったからお隣さんに持ってけって母さんに頼まれて。で、そのままおじさんに捕まってた」
話しかけても拓ちゃんの視線は暫く鬼頭先生の背中に向けられていた。視線を私に戻したその顔はほんのりと赤く、その事が今の今までお父さんにお酒を勧められていたのだなということを物語っていた。
「うちは女ばっかだからね。久々に拓ちゃんに会ってお父さんもテンション上がったんだろうな。ごめんね、せっかくの貴重な週末のお休みなのに。後でお父さんにはキツク言っとく」
私はちゃんと普通に話せてるだろうか。顔が強張ってたり荷物を持つ手が震えていたりしてないかな。――ちゃんと、いつもの“那都”でいられてる?
相変わらず五月蠅く音を立てる心の臓。落ち着かせ様と片手を置けば、その手が跳ねかえって来る程に大きく脈動していた。
「……那都も」
「え?」
「久し振りだね」
「――っ」
胸元に置いた手がドンっと一際大きく跳ねかえった。
スッと目を細める拓ちゃんは、いつもより優しい笑顔を浮かべている。私が傷つかないようにと慎重に言葉を選び、まるで壊れ物を扱うかの様なその態度がより一層私の胸を苦しめているという事に、彼はどうやら気付いていない様だった。
女である私の方から彼を求め、半ば強引に口唇をも奪った。一度交わりさえすれば拓ちゃんの心もいつかは手に入れられるのではと甘い考えを抱いていたが、それは叶うことは無かった。
あの時、はっきりと拒絶の態度を見せつけられ、酷く取り乱した。大泣きする私をそっと胸元に引き寄せ、落ち着きを取り戻すまで何度も背中を撫でさする。こんな時でさえも優しい拓ちゃん。でも優しくされればされるほど、忘れたくても忘れられなくなる。
彼の優しさが時には人を傷つける事もあるのだと、あの時知ることとなった。
忘れたい、いや、忘れなきゃ。でないと私はここから先には進めない。
「あの、ね」
「ん?」
意を決して声を発したものの、柔らかな笑みを見せつけられると思うように言葉が出てこない。顔を俯かせ、口ごもる私の背後から鬼頭先生の声が聞こえた。
「すみません、お待たせしました! やっと両替してもら……、あ」
鬼頭先生は拓ちゃんを見て、ペコリと頭を下げている。拓ちゃんもそれに合わせて『こんばんは』と頭を下げた。鬼頭先生は頭を上げた後も、私と拓ちゃんを何度も見比べては、ちゃんと挨拶をした方が良いのかどうなのか迷っている、と言った感じだった。
結局何にも言わない私にしびれを切らし、鬼頭先生が口火を切った。
「あのっ、初めまして! わたくし鬼頭と申します!」
鬼頭先生の硬い自己紹介が始まったのを合図に、俯かせていた顔を上げた。
「櫻井先生とは――」
「私、今この人と付き合ってるの」
「はいっ! ――? ……ええっ!?」
「……。」
反対の手に荷物を持ちかえると、驚く鬼頭先生の腕に手を絡ませる。そのまま鬼頭先生を見上げながら話し始めた。
「同じ幼稚園の先生なの。これから家で一緒に来週の入園式の準備するんだよ“ね?”」
『ね?』の所を強調するかのように言うと、鬼頭先生は顔を真っ赤に染め上げながら躊躇いがちに『そ、そうです』と頷いた。
「ほら、一太君。運転手さん待ってるからちゃんと料金払ってきて」
「え? ……、――ああっ、はい!」
再びタクシーへと戻ったのを確認した後、終始無言を貫いていた拓ちゃんに向かって私は言った。
「ていうわけだから、この間の事は気にしないで。単なる酔っぱらいの戯言だから」
「……那都がそう言うなら」
「う、うん、大丈夫。私は平気だよ」
チクン、胸が痛い。ヒリヒリ、喉が熱くて焼けそうだ。
本音を言ってしまえば、また拓ちゃんを困らせてしまう。好きだからこそ、苦しませてしまうようなことはしたくない。
――私が身を引けば拓ちゃんはきっと楽になれる。
自分にそう言い聞かせながら吐いた嘘ではあったが、素直に聞き入れられると私の心臓が抉り取られた様な気分になった。
「じゃ、おやすみ」
「うん。――あっ、ジャケット今度返しに行くね」
あの日、泣きつかれて眠ってしまった私に、拓ちゃんはジャケットを掛けてくれた。ずっと避けていたからまだそのジャケットを返すことが出来ず、どうしようかと頭を悩ませていたがもう大丈夫だろう。次に会う時は今まで通り幼馴染として会える。
――でも、そんな風に思っていたのはどうやら私だけの様だった。
私の横を通り過ぎようとして、ピタリとその足を止める。少し考えた後、小さく息を吸って隣に立つ私へと顔を向けた。
「――当分着る機会もないだろうから、処分しちゃってもいいよ」
「そ、んな」
「ちゃんと幸せにしてもらうんだよ、那都」
「拓ちゃん……」
どこか寂しそうな表情を浮かべ、拓ちゃんは自分の家へと帰って行った。